南海通記
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香西氏 山田郡三谷城を圍むの記
香西氏圍山田郡三谷城記
永正五年八月香西豐前守元定、香東、香西、南條、北篠四郡ノ兵二千五百人ヲ率シテ、山田郡ニ發
向ス、相從フ人々ハ香西備前守C成、植松四郎資茂、北條香川民部少輔、瀧宮豐後守、瀧宮彌十郎
福家七郎、羽床伊豆守、同大林氏、山田彌七、中間ノ久利三郎四郎、圓座ノ遠藤喜太郎、檀紙ノ
植松刑部、河邊ニ成相、飯間、飯田ニ飯田右衛門督、中飯田備中、下飯田筑城縫殿助、安原ニ
國廣右衛門佐岩府某、井原ニ漆原、油佐、河東等一宮、大宮寺、大野名主、太田犬養、松繩手ノ
宮脇氏族立石、伏石ニ佐藤孫七郎、木太眞部、上ノ村眞部、楠川、坂田庄官、野原ノ雜賀、岡本
藤井等各々土居構ノ小城持也。元定旗本ニテハ唐人彈正、片山玄蕃、仲備中、佐藤遠江、鬼無ノ香
西兵庫守政ノ眞部等モ塹(キリヨ)セヲ構ヘタル者共也。其外近習ノ輩ハ大身ノ者ノ次男三男也。小身ノ面々
ハ記スニ及ハス、凡ソ二千五百人ノ着到ヲ以テ野原ノ庄ニ勢揃シ、木太クニ打チ出テ、龜田、池邊
ニ陣ヲ居へ、牟禮、高松、志度ノ浦マテ手遣シ、由良山ノ城ニ押寄ル、城主本山ノ首領三谷伊豆守
ハ其弟掃部左衛門香西家ニ近士セシムル故ニ和平ス、夫ヨリ手分シテ池田表ヘ瀧宮豐後守南條北條
ノ兵ヲ以テ押へ、十河表ヘハ羽床伊豆守香東ノ兵ヲ以テ壓へ、元定本軍ヲ以テ三谷郷ニ攻寄ル、三
谷兵庫頭景久ハ王佐山ノ城ニ引籠リ、拒守ノ備ヲナシテ持ヵケタリ、香西元定城攻ノ謀ナクシテ、
唯城兵ノ微少ナルヲ以テ勝ヘキトシテ、追手搦手ヨリ攻上ル、搦手ノ敵近付タル時、塀手ノ釣石ヲ
切リ落セシカハ、若干ノ兵石ニ破ラレテ亡フ、平尾ヨリ攻上ル者ハ輪木ヲ切リ落シ、壓レテ亡ル者
多シ、大手ノ攻手ハ文明十二年ニ塞川氏ヵ兵衆ノ敗レヲ取タルヲ知テ、別ノ方便ヲ以テ攻上ラント
スレトモ、其術ナク遲滞ニ及フ所ニ日モ昏ニヵヽリヌ、是ニ於テ旗本ヨリ先ツ引取ヘシト下知スル
處ニ城兵其機ヲ察シ、十人十五人ツヽ村々ト山ヨリ出テ飛礫ヲ打テ攻合コト七八度ニ及フ、愈々黄
昏ニ及ヌレハ、相圖ノ螺ヲ吹テ攻手段々ニ引揚ル、城兵出テ跡ヲ慕ヒ日昏東西モ見サル時ニ至レハ
寄手四方ヲ疑フテ騒動ス、城兵地利ヲ知タルマ丶ニコ丶カシコヨリ出テ壓カシ、十人二十人ツ丶四
方八面ヨリ鬨ヲ作リ攻シカハ、麓ニ陣ヲ定ルコトヲ得スシテ、寄手列ヲ亂シ敗績ス、池田、十河ニ
向タル兵士モ引返シ皆我ヵ居所ヘ還ル、兵ヲ揚ルトキハ二千五百餘人着到ヲナシ、法令ヲ定テ堂々
トシテ出陣セシ處ニ、今夜ハ三谷ノ謀コト利ナクシテ夜ニ紛レ、面々ノ里城へ還ル、面目ナシトソ
聞エケル、三谷兵庫頭ハ透間カソヘナレハ、敵方ノ面々我居所ニ歸リ入テ、佐料ノ城ニ兵少カラン
ト察シ、翌朝速ニ兵ヲ出シ、香河ヲ踰テ陣ノ木ニ來テ形勢ヲ見ルニ、香西氏素ヨリ其備ヲナシ、中
須賀、平賀、釣ノ濱ノ老少ヲ以テ勝賀ノ城ヲ守ラシメ、多兵郭外ニ出テ石弓ニカ丶リ居ル、里城ニ
モ守兵アリ又敵ノ來ルト聞テ、方々ヨリ馳集ルヲ見テ兵ヲ引テ還ル、神内、十河モ是ヲ聞テ、速ニ
馳テ小山ノ下ニテ行向ヒ、倶ニ引返スト也。