水島合戦


山陽新幹線新倉敷駅から南へ約5km、水玉ブリッジライン玉島大橋の柏島側に「源平水島合戦古戦場跡」の碑が建っている。

水島合戦古戦場跡」の碑

この碑文には次の通り記載されている。

右の石塔には「源平合戦水島古戦場」、裏には「源平水島合戦八百年祭実行委員会 昭和五十八年十一月二十日 玉島文化協会 発起建之」等が刻まれている。

左の銅板には、
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を現はす、、、 この美文で始まる平家物語は その巻の八に及んでわが水島合戰の 章に至る 水島の門(と)を隔てて相向う柏島には平家方 乙島には木曽義仲の客将率いる源氏方が陣取り 時将に寿永二年(一一八三) 閏十月一日 壮烈な海上戰となって 源氏方が惨敗海の藻屑と化した 空には日蝕が現われ 西風の強い日であった 平家は水島のいくさに勝ちてこそ会稽の 恥をば雪めけれ この文で物語はこの章を結んでいる はじめてのこの勝ちいくさが平家を上洛の望みに誘い その後の一ノ谷 屋島 檀の浦と一路平家 滅亡への転機となったこの合戰であった
今は波靜かな玉島湾頭 我等が源平大橋と愛称するハイウエイの大橋が ここに夢の翼を拡げている 合戰後八百年を記念してここにこの標柱を建立した  わが郷土の歴史へ思いを馳せ 又つわもの共が鎮魂のよすがともしたいためである
 昭和五十八年十一月二十日

水島の戦いに臨んで、平氏方はその日、日蝕が起きることを知っていたのに、源氏方は知らなかったそうである。空が暗くなり源氏方が混乱している間に平氏方に攻められた。当時、日蝕予測は一般的ではなかったのだろうか。

この碑文中で、「水島の門(と)」と書かれているのは、「備中集成志」では「備中之國水嶋ガ途」と書かれており、当時は島であった柏島と乙島との間の海峡であった。今はどちらの島も埋め立てにより陸続きとなり、この海峡は小さな入り江となっていて玉島大橋が架かっている。

また碑文には、「その後の一ノ谷 屋島 檀の浦と・・・」と書かれているが、「だんのうら」はもちろん山口県の「壇ノ浦」(土へん)であろう。 屋島に平氏が内裏を設営した付近にも (偶然かどうかは知らないが) 「だんのうら」という地名があり、こちらは「檀ノ浦」(木へん)である。




玉島大橋の北詰、水玉ブリッジラインの北側にある碑


水玉ブリッジライン玉島大橋道路上の案内板

玉島大橋下を立体交差する県道47号線にも同じ案内板があり、
県道からも階段を登ってブリッジライン上の古戦場碑に至れる。

 
上の橋桁が玉島大橋、左が県道47号線、右側には玉島大橋へ上がる階段

 

次頁へ
トップ頁へ戻る 空白