
まなべえいざぶろう 眞邊栄三郎(1822〜1879)
幕末の土佐藩士 文政5年、五藤恒次
郎正道の二男として生まれる。天保14(1843)
年4月、剣術柔術ならびに学問の儀も達者に
つき藩主より金子300疋を頂戴し、10月遠類の
馬廻役・眞邊家の8代目を継ぐ。妻は十郎右
衛門正躬の娘。嘉永6(1853)年ペリーの黒
船騒動が起こり、異国船御手宛御用として安
芸郡奉行となる。安政2(1855)年7月御近
習御目付ならびに御軍備御用を仰せつかる。
9月に日光御本坊の修理を土佐藩が担当する
こととなり、その任に当たり、10月には大目
付となり、切支丹改役と御軍備御用も兼務し
た。5年には江戸表勤務となり5月1日出足
し、12月5日帰国した。しかし、江戸在勤中
に不始末があったとして、6年3月2日から
8月12日まで布師田川限り西禁足の罰を受け
る。9月17日には、再び郡奉行、御普請奉行
ならびに異国船御手宛奉行に返り咲き、御馬
廻組頭となる。その後、仕置役から大目付と
なり、文久3 (1863)年末には御隠居様の御
供をして京都に出る。翌年には在京のまま仕
置役で軍艦奉行を兼帯し、志士たちとも接触。
薩長同盟を裏で支えたといわれる。慶応2
(1866)年3月から江戸勤務についた。11月
には高知城下に完成した開成館の町方掛とな
り大坂京都から長崎などに出張。3年12月に
は「京摂長崎商法掛」を仰せつかる。翌年初
め大坂定詰となり、藩船夕顔丸で長崎に出か
け緊迫した幕末の藩務万端を取り仕切る。維
新後も、大坂で藩の中老職として食貨掛、商
法掛、開成館参務を務める。明治2(1869)
年12月第3等官をもって勧業主務となり、3
年5月より東京に転居する。明治12年没。58
歳。
まなベ かいさく 真辺戒作(1848〜1879)
戊辰の役の戦功者、高知藩英
国留学生団長 名は正精(まさよし)。初
称は厳太郎。7人扶持小姓組、
真辺勝亥正粋の子として嘉永
元年3月26日、高知城下(高
知市)永国寺町に生まれた。
母は父が吉田正準の二女と離婚して入籍した
後妻で、松田善之進の娘。美男で少年のころ
より剽悍の気あり。安政5(1858)年七タの
日、容堂に呼び出されて、11歳で御隠居様御
付として小姓となる。文久元(1861)年3月
10日父が病没し、14歳で世禄68石真辺家8代
の跡目を継ぐ。3年御小姓組から馬廻役に昇
格。坂井藤蔵勝益の娘を妻とする。慶応元
(1865)年板垣退助に随行して江戸に出、2
年「学問修業」の藩命を受ける。3年には土
佐ヘ一度帰藩し、翌年正月早々に戦火のあが
った戊辰の役の旗揚げから参戦。弟の哲馬も
率いて、第4胡蝶隊司令として四国から本州
へ。甲斐、武蔵、下野を転戦し、ついに奥州
に進む。特に、下野の安塚で大鳥圭介軍と戦
ったときは、重傷を負いながらもひるまず、
その奮戦ぶりは目覚ましかった。続く壬生城
攻めでも、兄弟励ましあって敵の包囲を突破。
ついに会津に進撃する。そして若松城猛攻の
弾丸嵐の中で、弟が戦死。「正精その屍に対し
て威容あり」と伝えられる。明治2(1869)
年9月東京藩邸の学校舎長に任ぜられる。翌
年1月6日「米国行、法律科修業、諸生長」
と、高知藩留学生の団長として米国行きの藩
命を得たが、のち変更してイングランド留学
となった。馬場辰猪、国澤新九郎、深尾貝作、
松井正水を率いて7月21日横浜を出帆し、米
国大陸経由で、英国に向かった。キングトン
・ラングレー村に滞在して英語を習い、ロン
ドンに出て林有造、片岡健吉はじめ土佐人の
視察の世話などしながら留学を続けていた
が、馬場辰猪との口論から傷害事件を起こし
滞英8年で帰国。11年8月27日高知に帰った
が、気鬱症で翌明治12年5月20日、友人・吉
田正春を東京芝区金杉に訪ね、同所で自殺し
た。32歳。墓は東京谷中墓地。分骨墓が高知
市の丹中山山頂にある。
まなべみつすけ 真辺光祐(未詳〜1709)
槍術家 以心流を土佐に伝えた人。真辺家は
初め長兄の上原正朝が山内家に仕えて真辺氏
を称した。光祐はその末弟(三男)で、江戸
において以心流の祖・堀以心斎の高弟・合原
政右衛門から伝授される。貞享2 (1685)年
山内家に抱えられ、槍術指南役として5人扶
持切符20石を受けた。宝永6年8月29日病没。
実子はなく家督を養子に譲ったが、槍術指南
役は高弟の郷円之丞が継いだ。