香川県
   −−− 「郷土 国分寺町の歴史を解く」(史料「新ノ居家文書」)黒川隆弘編 より −−−


−−− 「郷土 国分寺町の歴史を解く5」(史料「新ノ居家文書4」)より −−−

(原本)
原本

(翻刻文)黒川隆弘編を基に少し修正した。以下同じ。
翻刻文




−−− 「郷土 国分寺町の歴史を解く6」(史料「新ノ居家文書5」)より −−−

(原本)
原本

(翻刻文)
翻刻文


(原本)
原本

(翻刻文)
翻刻文


(原本)
原本

(翻刻文)
翻刻文



意味の分からないところがいくつかあるが、分かる範囲を要約すると、次のようになる。

・当村は末沢万灯の領地で(注:今も国分寺町に万灯という地名がある)、また新居大隅守の領もある。
   (注:冒頭から当村と書かれていて、どこのことか分からない。新居の万灯村か?)
 もっとも、奥谷の東山端は真鍋氏の領である。それより西は大隅の領で、東西道路より南は当家の領の由。

・当林に(注:「当村」の誤筆か?)香西伊賀守の家来で真鍋林徳(注:林禿か)というものが居る。この林徳は 天正年中に土佐の長曽我部基親(注:元親)の家来、梶鳥(注:楫取)彦兵衛と梟山(注:袋山)の北の滝の上から 組み合って落ちている間に腰刀を抜き、彦兵衛を三太刀ほど刺しながら、林徳は岩端へ取り付いて、ついに 彦兵衛の首を取った。
その時に伊賀守より感状をもらい、今に持ち伝え、当村に居住した。その時に梶鳥を討ち取った備州(注:長船) の住人祐光(の作)という大小(の刀)と屋島を背景にした(?)摩利支天の像に上記感状とを所持し、林徳より三代 の孫黄庄という者の代まで所持していた。
林徳は天目に居住し、黄庄の代に官職を得た。
林徳の墓は、御厩池から一丁ばかり(注:約109m)戌亥の方向にある。(御厩村の宮から一丁ばかり北にあり) 豊島石の五輪塔である。同墓には、明暦9申(注:実際は明暦二年丙申)12月19日と刻まれている。
林徳の倅得助という者の墓は坂川の藪の中にあり、その墓印は石の宝殿に入った裸のような地蔵で、我等は よく見覚えている(注:この墓は現在確認できず)。
真鍋屋敷は、天目の助三郎の居る所に居住していた。真鍋の知行所なり、とその子孫の者が言い伝えていた。   真鍋氏の知行所は新居梟山の西のふもとの由、ここを蟻通しという。


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