「大西軍記」

大西軍記



「伊予史談会双書第18集越智嶋旧記・澄水記」(S63.11.1, 伊予史談会編集発行)より

−−冒頭の解説より−−
大西軍記

大西備中守元武と真鍋左衛門佐(大炊介)との戦いが書かれている。大西軍側から書かれているのが興味深い。

大西軍記

大西軍記   巻の六

    宇摩郡松尾城合戦
 斯くて大西備中守源の元武は、竊かに忍ひを以て 土佐守か振舞を探り聞くに、岩倉の城にあつて日な らすして土州へ帰陣の由告け来らは、是れ必す虚実 の計事ならむ、急に当国へ寄来るへし(と)衆臣を 集めて曰、思ふに元親阿州に出張し必す土佐帰陣は 空虚ならん、此時山中の小路より土佐へ討て出、急 に責め立つれは大に利を得む、若元親急に進めは臨 機応変の処置し、或は引或は進み、二、三度土佐勢 をなやまさは終には勝利となるへし、林密計を語る 所に人あつて当国の諸将残らす変心の由告けゝれ は、元武大に驚き其故を尋るに、真鍋左衛門佐土佐 勢の強勇なるを恐れ、義を破り諸将をして元親に一 味同心のよし進めけると聞けれは、備中守大に怒 り、左衛門佐臆病なれは、彼壱名の去就何そ怖るゝ に足らむ、然れ共、衆将を引分る事奇怪なり、不意 に押寄彼れを責取、向後東に帰らむと出陣の用意し けれ共、未夕痛み頻りなれは志摩守を差し向けらる へきよし申しけれは、衆評是非に及はす、急に兵を 調へ松尾の城押寄せける、其勢弐百五拾には過き さりける、
 抑伊予国松尾城と申すは、後は大山峩々として山 の流れを切開き尾上に櫓をかけ、東西は谷深ふして 大手斗りの責口と見へにけり、さしもの一城要害は 堅固にして中々容易に落かたく備へたる城なれは、 志摩守の勢をはかつて責寄せける、城中にも兼而存 する事なれは、兵三百余騎を一手になし、城外四、 五丁出てゝ陣を取り待ちかけたり、志摩守は民家に 少々放火し勢に乗して馳せ向ひ、両陣程なくちりけ れは、志摩守陣中馬を踊らせ大音声、匹夫左衛門佐 武士の約を変し不義の振舞、其罪誅伐にあたれり、 首を延へて降参せよ、左無は一々首を切獄門に上け ん、夫れか為某屹度出向ふたり、諸勢を苦しめんよ り我れと汝一勝負して、某勝たは一度心を改め降参 せよと諭しけれは、左衛門佐アサ笑ふて曰、某壱度 汝等兄弟を助けて兵を発し、元親を討んと約しけれ 共、汝か兄元武人を見る事只小児の如し、我意に募 り終には大事を成す事能はす、か(ゝ)る愚将に合 つて大切の頭を下んや、広言は後にあり、今此侭に 引取らは諸人の嘲弄免れかたし、 一戦して勝負を決 せん、と詞をわらす諸卒に下知して陣を開きとつと 押出し、大勢魚鱗に備へ只一文字に突入し、右にあ たり左にあたり入乱れ々々爰を先度と戦ふ、双方共 大将を見かけ揉合しか、大西勢は数度の戦に切抜け たる剛の者共なれは、真鍋勢戦争にかなひ難く四度 路(しとろ)になつて見えにけり、志摩守大音に下知して曰、 敵は負色なるそ、左衛門佐のかすなと追々に呼わり けれは、盛り切つたる若武者勢を振ふて切立つれ は、大勢なりとハ難も真鍋勢溜り兼城下を差して引 退く、のかすな者共、追詰め崩せよと連りに下知を 伝へ、備へを乱して城戸際迄追付けれ共、敵もかる ゞゝと引取り城戸をしめけれは、志摩も下知を伝ヘ 皆々勢を引取りけり、討取所の首を数ふるに五拾余 騎なり、大に勝時あけて広野に陣を取り、其夜は かゝり火を焼き若し夜討もはやと用心しけれ共其沙 汰なし、真鍋は手合の軍に打負け、左衛門佐諸勢を 下知して静まり返り城を守つて至りける、明れは六 月廿日頃の事故、炎暑を恐れ早朝に軍勢を整へ、志 摩守自ら先陣に進んて責寄する、程無城戸際まて責 登り鯨波三度まてあけけれ共、城中何の音もなけれ は、大西勢も疑はしく引色になりける処に、急に城 戸より鯨波を合し、よせ手の櫓より差し詰め引詰 散々に射かくる箭雨の降るより劇敷(はけしく)、殊に斜め下り に射出しけれは、大西勢拾騎斗り打落され、又勢を 引取りけれ共城中よりも追はさりけり、此時城中よ り軍勢を操り出さは大西勢は危ふからむ、然るに真 鍋か心底を考ふるに、近辺の諸将に加勢を乞ひけれ は、先此城に至るを待つて勝負を決せん、事の危き に近寄らさる者ならんか、夫より毎日々々発り責寄 する共、城中より大木・大石を投出し、或は弓鉄炮 にて遠射にして出合はさりけれは、志摩守もかる ゞゝ敷攻めすして少々退き陣を張り、松尾の城を押 えて陣取り、弁舌爽然たる人を撰ひ、宇摩・新居両 郡の諸士に再ひ説き諭させ、安々数日を送りける、 実に大西の運とは後にそ思ひしられけり、
   野田・薦田加勢 付大西志摩守討死
 天正五年七月三日、加勢として大西兵部少輔百七 拾余騎を引率し志摩守の陣に加はりけれは、大西勢 今は大に力を得、只一戦に討崩さむと勇みける、去 れ共最早黄昏にをよひけれは陣をしつめ、鶏鳴と共 に軍用整ひ、暁の頃に至れは、先手は武綱百七拾騎 の荒手を率し無二無三に責め登りけり、 一の櫓の元 迄押寄、勇みほこつて向へけれは、城中よりも大勢 顕はれ出、火花散らして防きけれ共、甲をかたむけ 少しもおくせす責めけれは、城中今は溜り兼、一の 屋倉を引退けは、終に文藤治か為に打つふされ、し はらく本丸に篭り只防矢雨の如くに射出しけれは、 かゝる所に遙か西より籏の手を進め其勢四、五百騎 斗り寄来る、何者ならんと窺ふ所へ、真鍋左衛門佐 を救はんと野田右京之進・薦田義清なり、未夕弐拾 四、五丁西にて鯨波を揚け頻りに進みけれは、志摩 守是を見て、近寄は大事なるへしと、武綱に城を支 へさせ、自ら百五拾騎引合て、四、五丁西の森陰に 伏せ静かに待かける、右京進弐百余騎を引率し先陣 に進みける所に、思も寄らぬ森陰より伏勢の発り、 大西志摩守陣前にあらはれ、大に勇を振ひ野田か勢 の真中に懸入り散々に切立つれは、野田の軍勢しと ろになり四方八方へ迯け散りけり、後陣は薦田市之 丞義清三百余騎鶴翼に開き、射手を量而差し詰引詰 さんゞゝに射たつれ共、大西勢事共せす、甲をかた むけ無二無三に近寄ける、斯る所に、加藤孫左衛門 は薦田か陣に打交り来りけれ共、志摩守か計略にて 敗北と見へけれは、小高き所に掛け上り茂りたる木 の陰に、拾匁玉の鉄炮に早合しかけ志摩守を付ねら ひける、運の尽き歟、志摩守兜を脱捨て、強弓を取 つて敵を射つ事其数を知らす、加藤彦左衛門是れそ 究竟の時なりと思ひ、顔を的に早合四個打かくれ は、一言にも及はす馬より真逆様に落て死にけり、 大西か軍勢是を見て皆散りゞゝに迯失けり、中にも 高田藤治、彼の鉄炮の音の処へ密に馳付、加藤を只 一鎗に突き伏、当の敵を討取、引返して兵部の陣に 加はりけり、兵部少輔武綱遙かに戦を見物して居ら れける所に味方敗北、大将も鉄炮に的(あた)り玉ふと告 けゝれは大に力を落し、今前後に敵を請ては防きか たしとて、備を乱さす麓迄引けり、真鍋左衛門城戸 より此躰を見て諸軍を一手になしけれは、左衛門佐 は加藤の軍へ一手になり、双方入日と共に陣を引き 其夜は明しけり、
    大西兵部討死 付文藤治自害
 斯而兵部武綱は、志摩守の討れ玉ふをなけき天を 仰ひて曰、斯迄天運尽果る我家なれは、今より夜討 に出討死して追付き奉らん、と涙と共に申しけれ は、諸軍勢も大将を失ひ遺憾の涙にくれけれ共、何 分一戦して勝利あれは、其時金川へ迯け帰り大将の 陣と一手になり重而計事を廻らし玉へ、只討死との み決し玉ふなと諌めけれは、武綱此言葉を容れ猶戦 ふへき評議ありけり、先今日の大功は高田藤治な り、間兵部藤治を近く招き、再戦は如何なる謀を以 てせん、高田か曰、某愚考仕るに、今より密に兵を 引、轟の城にたて篭り、兄公共に死生を一ツにして 事を計り玉ふへし、と云ひけれは、末座の面々申け るは、高田殿の言も是なりと雖、 一軍敗れて兵を引 き衆勢気をくれ再戦を失ふへし、今より夜討に出て 敵の油断を討つへし、兵書にも、敵を責る事疾則備 へを設くるに不及、此理に随而一戦すへし、利なく んは其時引退く共何んそ遅き事あらん、と申者あり けれは、武綱此義に決して其用意の折柄、佐野甚六 貞久、野武士百騎計り引率し備中守の命を請て加勢 に来りけれは、主将を始め諸軍勢大に力を得たり、
 扨、野田、薦田の両将は大に勢ひを失ふと雖も、 志摩守を討取り勝鬨作りて控へたり、真鍋左衛門佐 一軍引て来り悦ひを述へ、明日大西か残勢兵部に加 はりて必戦を発すへし、知何なる謀事を以て合戦す へし、両将の慮を教へ玉へと申しけれは、薦田義清 曰、大西勢強勇なりと雖も、志摩守の討死に英気を 折(くし)かれものゝ用に立へからす、早旦に兵を出し短兵 急に責め討は、 一戦にも及ふへからす瓦の如く砕け 退散せん、所謂其虚を計而疾戦は勝安らすと雖も利 ありと聞けり、早く用意あるへし、と申けれは、此 儀然るへしと一決し夜明を待ける所に、夜に至つて 薦田四郎兵衛・横尾山城守・藤田大隅守其勢五百余 騎にて来り、真鍋か勢五百余騎にて来り、真鍋か勢 に加りけれは、諸軍勢大に勇み鶏明を今や遅しと待 居たり、斯る所に大西兵部少輔武綱は、五更の頃兵 を調へ、静かに敵陣の際迄押寄せ鯨波を発しけれ は、兼而用意の軍勢なれは少しも隙なく声を合せ、 薦田四郎兵衛壱陣に進み穂先揃へて突き出る、横 尾・藤田・真鍋の面々一陣を引いて大西勢を中に取 篭め揉みに揉んてそ戦ひける、武綱・久常・甚六抔 勇を振ふて切り立れは、誠に万夫不当の勇士なれ は、当るを幸ひ切付け手負打死其数を知らす、去れ 共多勢に無勢なれは、夜明に成りて見れは、大西勢 も爰に討れ彼所にたをれ残り少なく見えけるか、今 は叶はしと思ひけん、 一ツ方を打破り只四、五騎東 を差して落行ける、後を追かけ々々戦ひけるか返し 合せ討死す、佐野甚六も敵拾五騎討取乱軍の内に討 死せり、文藤治、兵部に向て曰、某踏み止つて支ヘ る間早く金川へ落行玉へ、御後より追付申へしと言 ひけれは、武綱も久常と共に討死せんと云ひけれ 共、頻りに進めけれは是非なく壱騎先立て落けり、 心安しと文藤治久常只壱騎返し合せ首を取る事数を しらす、前後左右に切抜る事人無所を行如くなれ は、引き分けて遠矢にそ射たりける、去共久常引返 して兵部の後を慕ふて馬を飛はしけり、此戦ひにひ まとるうち、大西武綱馬を飛はして拾五丁計り急き ける所に文藤治追付、主従馬上に手を取りかわし共 に涙に暮ける、折柄薦田義清伏勢を引ひて顕はれ 出、弐人を中に取り込散々に戦ひける、武勇軍中に 秀てたる大西主従なれ共、多勢に二人、迚も叶はす して終に兵部綱義清の為めに討れけり、 此時年齢弐 拾六、誠に古今の勇士なり、文藤治是を見て馬を踊 らせ死者狂ひに四方八方へ往来する事比類なき勇を 振ふて切立つれは、義清下知して、彼一人を討とら んと多く身方を失ふ事益なき事なり、早く引取れと 颯(さつ)と引きけれは、文藤治も追はさりけり、馬より下 りて兵部の死骸近く其アタリなんた(涙)と共に念誦し納 め置、某直に轟に行き備中守へ何の面目あつて対面 せん、迚も大西家の運も是迄、戦ひ労れ爰に朽ん事 のかなしさよ、鬼神をも欺く久常か落涙し、自ら我 首を斬り、箭にかけ、誠に前代未聞の勇士哉と聞人 是を惜まぬはなかりけり、

 大西幽応斎曰、元禄之今年彼所に至て兵部武綱 ノ塚を尋ルニ松柏ノ下二有、嗚呼哀ムヘシ、此時 共ノ残ヲ尋ケルニ、或村老曰、此所先年ヨリ野々 首卜云ヘリ、昔当勇士ノ首野中二眼ヲ瞋シ色モ変 セスシテ、陰中ニハ大声ヲ発スル事雷電ノ如シ、 又、或夜分ニハコノ首野中転廻ルナト、イヘリ、 夭(妖)説有ケレハ郷民大二恐テ、尽夜共コノ辺ヲ往来 スル者誰言トナク野々首卜、郷名ニナルト云ヘ リ、其後近辺ノ寺僧来テ寂滅ノ利ヲ以テ其怒ヲ止 サセ首塚ヲ築ケルトナリ、卜語リケル、其レヲ考 ルニ、是レ必ス、文藤治カ塚ヲ尋ルニ塚ナシ、首 塚トノミ聞ケリ、決然久常ナル可シ、詳二知ル者 アラハ委シク印スヘシ、云々、

 金川高橋観水、我か方寸の微想即ち未麿(磨)不識の 鄙人、素より故人深学の稽文、且ツ熱心以て大西 軍記てふ一編を作拵せしもの、然り然れ共、亦時 世と、将た拙劣なる我か胸襟と意見の噬合せさる は喋々に遑(いとま)あらす、然りと雖も、斯く写し来り つゝある本文乃ち原、其侭にしては豈大正の文学 者流の頗る朗読に苦しむ点少所ならす、之れに因 て多少ノ一字一文解せさる点は略(ほ)ほ毛錐を加ヘた り、然るに、幽応斎故翁の文損せぬ様務めたるは 乃ち次前一葉改書に止め参考に供す、朋々たる友 人前の文意をソレ熟考以て之を咀嚼せられむ事 を、
   (于時大正有拾年如月下  写之)


「巻の七」にも真鍋左衛門佐が出てくるが、省略します。また、余力があれば掲載します。


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