和泉の眞鍋氏
   −−− 「大日本史料 第一編之六」(東京大学出版会)より −−−

「大日本史料 第十一篇之六」より
(S11.4.20発行、S45.3.1覆刻、編纂者:東京大学史料編纂所、発行者:東京大学出版会)

【眞鍋眞入齋働覺書】







【眞鍋眞入齋書付】


「大日本史料 第十一篇之六」より
旧仮名遣い及び返読文字を現代仮名遣い風に書き直しました。(間違っているところがあればご容赦)

〔眞鍋眞入齋働覺書〕岸和田一戦の覚書、眞鍋貞成

天正十二年戊申三月三日、尾張内府信雄公ご家老津川玄蕃允、岡田長門守、淺井田宮丸を、尾州長嶋の城においてご成敗遊ばされ候に付き、秀吉公と弓箭発し申し候。信雄公より家康公をお頼り成され候に付き、小牧山まで信雄公、家康公御出馬、池田勝入老、森武蔵守と御対陣成され候。その時信雄公、家康公より紀州の一揆中へ御内定(「諚」)下され、大坂より秀吉罷り出、尾州へ発向仕りそうらわば、その跡へ紀州より取りかけ申すべき旨に付き、一揆中同心仕り候。この年より当年まで六十七年程かと覚え申し候。

1、紀州根来並びに和泉地の一揆都合三万ほど之有るべく候。この押さえに秀吉公より中村式部の少輔一氏に、和泉国侍相い加え、人数五千並びに式部少加勢、秀吉公より蜂須賀小六(家政)殿、明石與四郎殿、K田筑前(長政)殿三頭、その勢三千、都合八千にて、岸和田に在城仕り候。岸和田に向かいて一揆方より付城中村、積善寺、千石堀、澤、田中、右五ヶ所拵え、番持ちに仕り居り申し候。付城の間、或は一里、或は二里なり。

1、三月廿一日、秀吉公大坂御出馬の筈に相い極まり候所に同十八日、紀州の一揆ども大軍にて、和泉上道を押さえて、堺まで働き申し候。海上も淡路国菅野平右衞門兵船二百艘にて働き申し候。岸和田には、人数押し出し申さず、城の持ち口(持ち場)を名々に守り罷りあり候。その時中村殿申され候は、敵大軍なり、そこつの合戦して仕損じそうらわば、大坂御出馬のさゝわりに成るべき間、壹人も罷り出る間じくと下知致され候。その時眞鍋次郎申し候は、我等在所大津心元無く候間参り度く候、あれに披(被)官どもの妻子罷り居り候、遣わされ給い候ようにと申されそうらえば、式部殿、いかが候わんやと申され候時、寺田又右衞門、松浦安太郎、沼野仁清申し候は、眞鍋申し分尤もなり、あれに妻子もそうらえば、打ち散らされてはいかが也、上道を取り切られては大事なり、眞鍋をば大津へ指し遣わされ然るべしと申す故、次郎大津へ参り候内に、一揆ども取り廻し、大津と岸和田と通路切り申すに付き、大津にては上を下へと取り乱れ申し候。昔の取出(砦?)の跡いまだ土居なども残り、持ち為すべき体に付き、是へ足弱どもを入れそうらいて籠城仕り候とき、家来秋山又之丞進み出て、眞鍋(に)申し候は、斯様の時が侍の器量善悪肝要の刻なり、ここにて能く合点致されそうらえ、大将がうろたえそうらえば、惣軍うろたえる物に候と申し候。眞鍋申し候は、さて何と仕り候て然るべきかなと申し候とき、秋山申し候は、ここに三つの仕様御座候。眞鍋、その三つはいかんと問い申しそうらえば、一には妻子を是に籠らせ城を持つか、二には妻子を堺へのけ(退け)、我々はかこみを突き破りて、岸和田へかけ入り、三には妻子をつれて堺へ除くか、此の三つより外はなしと申し候。眞鍋申し候は、三つの中、上中下はいかんと問い申し候。秋山申し候は、妻子をつれ堺へ除くは下なり。妻子を堺へのけ、岸和田へかけ入るは中なり。妻子を取出に入れ、ここにて籠城するが上と申し候。眞鍋申し候は、それならば上策に付き候て、籠城仕るべしと申し候。秋山が曰く、それにては討死必定なり。よくよく分別有るべしと申し候時、眞鍋次郎十八歳にて、何の分別も之なく、兎に角秋山次第と存知切り、力(刀)を抜き、当地に籠城し、討死を遂げるべしと金打(きんちょう)仕り候。当座に罷り有る侍ども、皆々金打仕り候。海手よりの一揆管野平右衞門、千余り二百艘程にて、大津の浜へ押し寄せ、陸へ打ち上り申し候。眞鍋手勢百弐三十ならではなし。兎に角取り巻かれては難儀成るべし、突いて出て、一戦然るべしと、秋山又之丞、多賀井別齋 下知仕り候故、若き者共ひた甲(ひたかぶと、直甲)にて、鑓を追い取り追い取りはやり申し候を、秋山又之丞押し留め、船の敵は皆上立ちてかかると、船に据えかかると、弐つは大事の物なり。勢を半分上立ち、残りは船に罷り有る所を突っかかれば、十に九 大利有るものなり。先懸けを一あて当れば、残党の船に罷り有るは白む物なり。我等の下知次第に仕れと下知して、菅が勢六七百も陸へ上り候処へ、眞鍋次郎手勢僅か八十余りにて、どっと突きかかり鑓を入れ申し候。敵たまらず敗軍仕り、舟へ北入(にげいり)候を、海へ追いて追いてせめ立て申し候故、敵も返し来るといえども、弓鉄砲にて打ちすくめ候故、敵ども舟へ北入、漸く沖へこぎ出し、拾町も沖へ引き退き申し候。然る所へ眞鍋が跡を取り切られ、難儀仕るべしとて、蜂須賀小六殿、寺田又右衞門、松浦安太郎加勢に越し申され候故、眞鍋必死をのがれ、妻子諸共に岸和田へ引き取り申し候。此の合戦事急ぎ候故、手前へ首二つならでは取り申さず候。此のとき初めに我等突いて出候とき、敵こたえ候故、家来多賀井佐吉右衞門と、敵方淡路の寺田半右衞門と鑓合わせ申しそうらえども、式部少裁判にも入り申さず、増して秀吉公へも達せず上聞に候故、鑓には仕らず候。一揆は夜に入り引取り申し候。
  ○武家閑談、紀州根来由緒書所収根来合戦記、武道実話、南紀徳川史名臣伝等異なる事ナシ。


〔眞鍋眞入齋書付〕眞鍋眞入公有増御一生之御書付
1.天正十三年二月の初めに、泉の山よせ(寄)切坂と申す所へ根来者三千ばかりにて、新城をこしらえ申し候。此のとき岸和田皆々罷り出て追い散らし申し候。此の時にも眞入齋首壹つ御取りなされ候。

1.同年三月十八日、一揆ども根来雑賀の庄残らず大軍にて、岸和田へ押し寄せ申し候。二萬余も之有るべしと申し候。さて岸和田には、籠城の体にて持口をわり、外搆押しこまれざる様に式部殿の下知にて之有り候。定めて追い付き一揆の事に候間、引き取り申すべく候間、其の時分のき口(退き口)へ付けそうらわば、勝利 之有るべく候由、式部殿の下知にて御座候処、岸和田上は堺迄先は味方にて御座候故、眞入齋在所大津の事心元なく存じ候て、則ち眞入齋大津に妻子、雑兵ども之有るに付き、眞入齋小勢にて在所を見廻りに参り候所、あんのごとくに山寄は敵はや廻り、さて海上をば、淡路の須本宮野(菅野)平右衞門押し寄せ申し候。平右衞門とは、眞鍋と代々海上のあらそいにて中あしく御座候故、平右衞門存じ候は、大津眞鍋在所へ押し寄せ、是非とも妻子等も引きさがし申すべく候由にて、数十船(艘?)にて押し寄せ申し候処、眞鍋まいりかかり申し候事、然れば眞鍋も中々あぐみ如何せんと存じ候処、家来に皆々暦々(歴々)の者共之有り候。眞鍋は是は如何と、秋山又之丞とて功の者之在り候。これへ申し入れ候処、又之丞申し候は、ここは三つにて御座候。岸和田へのき(退き)申し候が壹つ、又は堺へ退き申し候が壹つ、又は籠城が壹つ、三つにて之有り候由申し候。眞入齋十七にて御座候。其の内にてつよきはいづれと申し候所、つよきは是にて籠城にて之有ると、秋山又之丞申し候。然る時眞入齋則ち金打仕り候。拙者は是が墓所にて之有り候と申しそうらえば、家来の者共十八九人ともに金強(打)いたし申し候。それより眞入齋家来上下五百人ばかりにて籠城いたし申し候処、海上官野平右衞門人数千ばかりも之有るべく候哉。平右衞門舟百船ばかり波うちぎわへつけ申し候。大方平右衞門人数五六百陸へあがり申し候を見すまして、眞入齋下知にて内よりついて出て、波ぎわにてせり合い之有り候。然る所に多賀井七郎左衞門能く鑓を仕り候。片山太郎助見事の高名仕り候。首とり申し候。さて何の手もなく、平右衞門人数をことごと敷く海へ追い込み追い込みつきちらし申し候。それより沖にかかりい申し候舟共、皆々礒へつけ申し候。然る処へ泉侍松浦安大夫、寺田又右衞門後巻きに参り、岸和田へ早々引き取り申し候。此の時眞入齋の御手柄限りなく候。


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