真鍋島の屋号

真鍋島の屋号には「殿付き」があり、「真鍋七家」がその大元となっているとする記述が次のようにあるが、これは何を意味しているのか?


◆「御裳濯川10揖 真鍋先祖発掘(上巻)」 大塚秀男著, S57.8.20, 真鍋頼行発行 より

 この本によると、真鍋三家のほかに、真鍋七家、根の家三軒外一軒がある。

屋  号現在当主
三 家 五庁殿(いっちょんど)重九君
四文殿(よもんどけ)重九君
関面殿(かんめんどの)頼長
七 家元家殿(もとえ)元平
神十殿(かんじうけ)大塚
神五殿(かんごけ)大塚
大屋殿(おうやけ)上原
九弁殿(きうべん)岩野
ます千殿(ますせんけ)三宅
とし殿(とし)小西
根の家他源根 
三根
五根
久平

     −−−−真鍋七家などの一部の屋号が今も真鍋島に残っているようである。



◆「真鍋島における伝承の摘録-歴史と民族-」 濱本族仁著, 真鍋島歴史研究会(代表:濱本族仁), H30.5. 発行 より


上掲それぞれの本は、殿付き屋号を真鍋家の始まりに結び付けようとしているようだが、「殿付き」屋号は七家や10家ではなく、もっとあるのではなかろうか?

真鍋島の統治というホームページには、次のように書かれている。

真鍋七家と称し岩坪集落に残る「殿付き屋号」を羅列すると、 「城殿(じょんどの、じょうどの)」、「おおどの」、「きゅべんどの」、「きちんどの」、「きよんどの」、「きゅうはんどの」、「きゅうだんどの」、別口として「みこんどの」があるがこれは巫女の家筋と思われます。

本浦の七家は、江戸時代の庄屋制度により作られたもので「増栄殿」「一丁殿」「歳殿」「中志殿」「半根殿」「かんも殿」があり、同じ殿が2軒に株別れした家もあります。

元禄年間庄屋傳右衛門時代に、政治の仕組みとして「殿付き」が定められ、村政すべてについて庄屋の大広間に与頭、殿付き、百姓代が集まって、相談をし村政を進めるという真鍋島独特の制度がありました。

佐柳島本浦に1軒、「イッチョウドノ」という屋号があります。「一丁殿」ですからこの家は何代か前に真鍋島から移住したと考えられるのです。



また、真鍋島の真鍋中学校の生徒が2001年の課題としてまとめたものには、(殿付き以外の屋号も含めて)次のように書かれている。

屋号の由来の不明なもの;
本浦地区:ソース、ジンマ、ヨーショ、チージョ、キッチョ、キッチャ、キワ、カイド、タイドノ、ムネドン、トシドノ、ゼンシ
岩坪地区:ゲンキ、オオジモ、ジンジョモ、オオトノ

歴 史
西 暦真鍋島の歴史
1618 真鍋島で一番最初の屋号ができる
(村長=シャードノ,世話役 ・年寄=キューベンドノ)
166910人組の成立 〜屋号が使われ始める〜
(キリシタン対策,税金対策,治安維持法により)
1682高札制度の成立
   =高札通りができる
1690 戸籍法の成立=名前ができる
(おじゅっさんがつけた名前が多い)
1696走り御輿がはじまる
1719 5人組の成立=名前が使われはじめる
(土地を持っていない人は5人組に入らない)
2002今に至る

   屋号ができたきっかけ
1.治安維持法が出されたため
2.キリシタン対策
3.税金対策
4.10人組・5人組が作られたため
5.名字がなかったため


これは中学生が調べたものであり、私が知るだけでも真鍋島にはもっとたくさんの一般の屋号があるはずで、この調査は生徒数が激減した現状で、中学生が自分の知る範囲内で調べた結果であろうが、 屋号ができた歴史の記述はかなり当を得ているのではなかろうか。江戸時代の庄屋制度の下での真鍋七家とはもちろん「真鍋家七家」ではなく「真鍋島七家」であろう。本浦に加えて岩坪のキュウベンドノも一体の制度になっている。

屋号のある家


江戸時代の庄屋制度の下で(殿付きを含む)屋号ができたとする説がある一方で、岩坪にはそれより以前から「真鍋七家」と称する殿付き屋号があったとする説が称えられている。それならば、この殿付き屋号はいつ頃から始まったのか? 江戸時代の庄屋制度が真鍋島の屋号の始まりではなくそれ以前に岩坪にすでにあったとする証拠はあるのだろうか。

「真鍋先祖継図」には、同族であるはずなのに親族を「殿」と書いているのが4人いる。先祖ならば敬意を表して殿と呼ぶのも理解できるが、子孫にも殿で書かれている者がある。これは何故なのか。「真鍋先祖継図」の中の殿を書き出してみると次のようになる。
 ・日方間太夫の嫡子 重貞平三殿
 ・同 三男  資光五郎殿
 ・日方間太夫二男信資の嫡子(の嫡子の子?) 資保新左衛門殿
 ・貞友の三男四郎殿
ひょっとして、この殿が岩坪の殿付き屋号につながっていないのだろうかと思ったが、これらをどう訛っても岩坪の殿付き屋号にはなりそうにない。キュベンドノが久兵衛殿が訛ったものだとしても、真鍋先祖継図には久兵衛という人はいない。貞友の時代にはそんな屋号はなかったのではなかろうか?

真鍋島の歴史


藤原頼行一族郎党が来島して真鍋七家ができたという伝承ならば、それより260年以上も後に書いた真鍋先祖継図にその手掛かりがないのは不自然である。藤原頼行来島の伝承と真鍋先祖継図とはまったく相容れない矛盾した存在ではなかろうか。