山家集


「山家集金槐和歌集 日本文学大系29」(S36.4.5,風巻景次郎・小島吉雄校注、岩波書店)より

西行法師の和歌集である「山家(さんか)集」に、讃岐吉原での逗留中の歌に続いて、真鍋島が出てくる。





大師の生まれさせ給(たまい)たる所とて、廻(めぐ)りの仕廻(しまは)して、その標(しるし)に松の立てりけるを見て

 哀れなり同じ野山に立てる木のかヽる標の契りありける

又ある本に
曼陀羅寺の行道所(ぎゃうだうどころ)へ登るは、世の大事にて、手を立てたる様なり。大師の、御經書きて埋ませをりましたる 山の峯なり。坊の外は一丈ばかりなる壇築(つ)きて建てられたり。それへ日毎に登らせおはしまして、行道しをりましけりと、 申(まうし)傳(つた)へたり。巡り行道すべき様に、壇も二重に築き廻されたり。登る程の危うさ殊に大事なり。構へて 這ひまはり着きて

 廻り逢はん事の契りぞ有がたき嚴しき山の誓ひ見るにも

やがてそれが上は、大師の御師に逢ひまゐらせさせをりましたる峯なり。わがはいしさと、その山をば申すなり。その邊の人はわがはいし とぞ申ならひたり。山文字をば捨てて申さず。又筆の山とも名付けたり。とほくて見れば筆に似て、まろまろと山の 峯の先の尖りたる様なるを申慣はしたるなめり。行道どころより、構へてかきつき登りて、峯にまゐりたれば、師に あはせおはしましたる所の標に、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎、計りなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける 塔の跡と見ゆ。苔は深く埋みたれども、石大きにして露(あらは)に見ゆ。筆の山と申(もうす)名につきて

 筆の山にかき登りても見つるかな苔の下なる岩の氣色を

善通寺の大師の御影(みえい)には、側にさしあげて、大師の御師書き具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。 四の門の額少々破(わ)れて大方は違はずして侍(はべり)き。末にこそいかヾなりなんずらんとおぼつかなくおぼえ侍(はべり)しか。


備前國に小嶋と申す島に渡りたりけるに、糠蝦(あみ)と申物採る所は、おのおの別々占めて、長きさをに袋を付けて立て渡すなり。 そのさをの立て始めをば一のさをとぞ名付けたる。中に齢高き海士(あま)人の立て初むるなり。立つるとて申なる詞(ことば)きヽ侍しこそ、 涙零(こぼ)れて申ばかりなくおぼえて、詠みける

 立て初むる糠蝦採る浦の初さをは罪の中にも優れたるかな

日比・渋川と申す方へまかりて、四國の方へ渡らんとしけるに、風悪しくて程経けり。渋川の浦と申所に、をさなき 者どもの数多(あまた)物を拾ひけるを問ひければ、つみと申物拾ふなりと申けるをきヽて

 おり立ちて浦田に拾ふ海士の子はつみより罪を習ふなりけり

眞鍋と申島に、京より商(あき)人どもの下りて、様々(ようよう)の積載(つみ)の物ども商ひて、又しわくの島に渡り、 商はんずる由申けるをきヽて

 眞鍋よりしわくへ通ふ商人はつみをかいにて渡る成けり

串に刺したる物を商ひけるを、何ぞと問ひければ、蛤を乾して侍なりと申けるをきヽて

 同じくはかきをぞ刺して乾しもすべき蛤よりは名もたよりあり

牛窓の瀬戸に海人(あま)の出でいりて、さだえと申ものを採りて舟に入れ々々しけるを見て

 さだえ棲む瀬戸の岩壺求め出でて急ぎし海人の氣色成かな

沖なる岩に着きて、海人どもの鮑採りける所にて

 いはの根にかたおもむきに並み浮きて鮑を潜(かず)く海人のむらぎみ



西行法師は善通寺辺りで数年を過ごし、小嶋(児島)へ行って、
  立て初むるあみ採る浦の初竿は罪のなかにもすぐれたるかな
と詠み、殺生を罪としているようだ。西行は元は武士であり、武士は殺生もなりわいの一つであるが、出家したので殺生は非とするようになったのだろう。
真鍋島での歌でも漁(殺生)を「罪」と詠んでいるようだが、ここに来て何度も「つみ」にこだわっているのはなぜか。この後、紀伊、志摩で鯛漁や蛤拾いが出てくるが罪には触れていない。
西行は善通寺へ来る前に崇徳院の白峰御陵を訪れているのが関係しているか?





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