「笠岡市史 地名編」(平成16年2月、笠岡市発行)によれば、領主がこの島以外に居たので、最寄りの島というような意味で寄島と呼んでいたが、領主がこの島へ移住したため真鍋島と名付けた、というような解釈が書かれている。
「日本の近世8」(1992,塚本学編)または「近世の生活文化史」(1999,定兼学著)
「諸本集成倭名類聚抄[外編]」(S41.9.30,京都大学文学部国語学国文学研究室編,臨川書店発行)に各郡郷毎の詳細説明があり、備中小田郡に茂平や神島、高島が出てくる。また東隣の浅口郡大島の項には水島とともに寄島が載っている。備前・備中・備後を通じて寄島が出てくるのはここだけである。この寄島はもちろん瀬戸内海の真中にある小田郡真鍋島のことではなかろう(下図参照)。
また大島・寄島、神島、高島が出てくるのに、白石島、北木島、真鍋島(または小田郡の寄島)が出てこないところをみると、和名類聚抄の時代には、陸地の近くの島は居住地として記載しているが、沖合いの島は村としての認識をされていなかったのではなかろうか。従って残念ながらいつから真鍋島に変ったのか(以前は寄島だったのか)は不明である。
但し、この「諸本集成倭名類聚抄[外編]」には頻繁に「備中集成志」(原著:石井了節、宝暦3年=1753)が引用されているので、それ以降に書かれたものか。
現在、笠岡市近辺で「寄島」といえば浅口市寄島町である。上記の大島の項に出ている寄島である。
下の江戸中期や明治時代の地図では、まだ寄島は文字通りの島だが、現在は陸続きになっている。
「輯製二十万分一図」(明治19〜24年全国で逐次刊行)
「日本歴史地名大系 第三八巻 香川県の地名」(1989.2.23, 平凡社発行)より