直島行在所


直島「崇徳天皇宮」への参道入り口(左の森に神社の注連縄石)

H30.4.29 H30.4.29

H30.4.29

H30.4.29

H30.4.29

H30.4.29

天皇宮左翼の車道側からの入り口
H30.4.29

境内の案内板
H30.4.29

H30.4.29

H30.4.29

H30.4.29

H30.4.29

県道256線から民宿おうぎやの角で細道に入り(車1台分ぐらいの道幅しかない、対向できる場所は少ない)、崇徳天皇宮横を通り過ぎてもう少し登ると、「御籠」がある。
さらに少し登り民家1軒屋の角から右へ下っていくと県道256線へ戻る手前に泊ヶ浦行在所跡の看板がある。

H30.4.29 H30.4.29

大乗教を書写したといっても、ここは藪の中、当時はなにか建物とか洞窟でもあったか?
H30.4.29

こちらも在所跡といっても山中の斜面であり、家が建つような平地がなさそう。
H30.4.29

崇徳天皇宮、御籠、泊ヶ浦行在所跡の位置関係
H30.4.29

「府中村史」(S38.9.10, 元村長栗林三郎編集発行)より




崇徳上皇は直島に一体どのくらい滞在したのか?
保元の乱で敗れて讃岐へ流されてから崩御するまで7年間。その間に直島に3年、林田に3年いたとしたら計算が合わないが・・。

崇徳上皇が崩御したのが長寛2年(1164)、西行法師が白峰御陵を参拝したのが仁安2年(1167)として、西行は崇徳院崩御後3年経って鎮魂の旅に来ているから、当然直島にかつて崇徳院が滞在したかどうかに拘わらず西行が直島に立ち寄る理由が無い。それなのに崇徳天皇宮の入り口に西行像が置かれているのは、西行さんへの憧れか、はたまた崇徳院への鎮魂か。


崇徳天皇が讃岐へ配流後は西行が崇徳院と会っていないことを確認するため、「日本古典文学大系29 山家集 金槐和歌集」(風巻景次郎・小島吉雄校注、1961.4.5 岩波書店発行)より、崇徳院が讃岐に流されてから西行が四国へ行くまでの間の「山家集」の歌を抽出すると次のようである。
  (青色で示す歌の解釈はインターネットの「西行辞典 第187号」および「西行辞典 第188号」より)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    新院讃岐におはしましけるに、便りに付けて、女房の許より
・ 水莖の書き流すべき方ぞなき心のうちは汲みて知らなん

「手紙をどのようにしたためたらよいか分かりません。私の心の中はどうぞお察し下さい。」   (讃岐の院の女房歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

    かへし
・ 程とほみ通ふ心のゆくばかりなほ書き流せ水莖の跡

「讃岐とは遠く隔たっているので、通うこともできず、心が通うだけだから、せめて気のすむまで心の中を手紙にしたためて 下さい。」  (西行歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

    又、女房遣はしける
  ・ いとゞしく憂きにつけても頼むかな契し道の導(しるべ)たがふな

「以前からあなたを頼りにしておりましたが、このような事態と なって讃岐に下りましてからはいよいよあなたしかいません。 お約束下さったように間違いなく私を後世に導いて下さいませ。」 (讃岐の院の女房歌)(和歌文学大系21から抜粋)

  ・ かゝりける涙にしづむ身の憂さを君ならで又誰か浮かべん

「こんなに涙を流して泣いてばかりいるつらい境遇の私を、あなた 以外の一体誰が救い出して下さるというのでしょう。」 (讃岐の院の女房歌)(和歌文学大系21から抜粋)

    かへし
・ 頼むらんしるべもいさや一つ世の別(わかれ)にだにも惑ふ心は

「後世の道案内を私に、ということですが務まりますでしようか。 後世どころか同じ現世にあってさえ、このように離れ離れでお会い できないことに戸惑い気味の私です。」  (西行歌)(和歌文学大系21から抜粋)

・ ながれ出る涙に今日は沈むとも浮かばん末を猶思はなん

◎讃岐の院の女房歌は実際には崇徳院の歌だと言われています。
 こういう体裁を採らないままでは、西行との和歌の贈答でさえも  差し障りがあったものでしょう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    讃岐へおはしまして後、歌と云事のよにいと聞こえざりければ、寂然が許へ言ひつかはしける
・ 言の葉の情絶えにし折節に在り逢ふ身こそ悲しかりけれ

「新院が讃岐におうつりになり、和歌の道がすっかり衰えて しまった時節に生きてめぐり合うわが身こそ悲しいものです。」 (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

    かへし             寂然
・ 敷島や絶えぬる道に泣く々々も君とのみこそ跡を忍ばめ

「新院の遷御によって絶えてしまった和歌の道に、涙ながらも あなたとだけ新院の御跡をーー在りし日の和歌が盛んであった 折を偲びましょう。」  (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 ○寂然   常盤三寂(大原三寂)の一人で藤原頼業のこと。西行とは もっとも親しい歌人であり、贈答歌も多くあります。

    讃岐にて、御心引き替へて、後の世の御勤め隙なくせさせおはしますときゝて、女房の許へ申ける。
    この文(もん)を書き具して 若人不嗔打、以何修忍辱

 ○若人不嗔打以何修忍辱    「もしひといかりてうたずんば、なにをもってかにんにくをしゅうせんや」と読むようです。

・ 世の中を背く便りやなからまし憂き折節に君逢はずして

「修行のきっかけが見つからなかったかもしれませんよ。あんなに ひどい目にもしお逢いにならなかったならば。」 (和歌文学大系21から抜粋)

    これも序(ついで)に具してまゐらせけれ
・ 淺ましや如何なるゆゑのむくいにてかゝる事しも有世なるらん

「何とも呆れてしまう。前世からの因縁によって天皇に生まれ ついた方が、配流の憂き目にあうなんて、そんなあり得ないことが この世に起こってしまうなんて。」 (和歌文学大系21から抜粋)

・ 存(なが)らへてつひに住むべき都かは此世はよしやとてもかくても

「どんなに長生きしても永久に都に住むことなどできないのです から、現世はどうでもいいじゃありませんか。それより来世の 幸福をお祈り下さい。」  (和歌文学大系21から抜粋)

・ まぼろしの夢を現(うつつ)に見る人は目も合はせでや世をあかすらん

「この世が夢、幻に過ぎなかったことを自身の現実として見てしまった 人は、夜になっても眠れない苦しい日々が続くのでしょうね。」  (和歌文学大系21から抜粋)

    かくて後、人のまゐりけるに付けてまゐらせける
・ 其日より落つる涙を形見にて思ひ忘るゝ時の間もなし

「院御遷幸のその日から、悲しみの涙を流しては院を思い出して います。片時も忘れたことがありません。」  (和歌文学大系21から抜粋)

    かへし        女房
・ 目の前にかはり果てにし世の憂さに涙を君に流しける哉

「上皇様が讃岐へ遷御され、まのあたりすっかり変わり果てて しまった世の憂さに、上皇様の御ため涙を流したことです。」  (讃岐の院の女房歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

「上皇から流罪人へ、一瞬にして世の中が急変する苦しみを体験 なさって、さすがに院も涙の日々をお過ごしでいらっしゃいます。」  (讃岐の院の女房歌)(和歌文学大系21から抜粋)

  ・ 松山の涙は海に深くなりて蓮(はちす)の池に入れよとぞ思ふ

「松山で流す涙で海は深くなり、水が増したその分を極楽の蓮の 池に入れ、極楽往生出来るようにと思うことです。」   (讃岐の院の女房歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

  ・ 波の立つ心の水を鎭めつゝ咲かん蓮を今は待つ哉

「怒りと悲しみに波立ちわきかえる心の水をしずめながら、それが 極楽の蓮の池の水に通じ、蓮の花が咲くごとく極楽往生できる日を、 今は待つことであります。」  (讃岐の院の女房歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)




トップ頁へ戻る


空白