間部氏

江戸時代には「間部」にちなむ地名もあったようだが、今の東京にはその名残はないようだ。


★「角川日本地名大辞典 13 東京都」(角川書店)には「間部河岸」というのが載っている。

★「復元・江戸情報地図」(朝日新聞社)には、安政3年(1856)の江戸の地図が載せられているが、麻布の二之橋は里俗名称で「間部橋」と呼ばれていたことがわかる。( ちなみに三之橋は俗称肥後橋、一之橋には俗称がなかったようだ。) 現在(1998)、二の橋は架け替え工事中だ。

以下にそれぞれを引用する。







間部橋は古川に掛かる二之橋で異論がないようだが、間部河岸の場所については、「消えてゆく東京の地名」本間信治著(月刊ペン社)によると、中央区東日本橋1丁目の一部となっている。(隅田川沿い・両国橋の南付近)

また、「東京都名所図会・日本橋区之部」宮尾しげを監修(睦書房)でも、次の通り隅田川沿いとなっている。


元柳橋は大川(隅田川)沿いの薬研堀に掛かっていた。広重の絵にも描かれている。


歌川(安藤)広重画「両ごく回向院元柳橋」安政4年(1857)の一部
(回向院から元柳橋を見た絵)


元柳橋より大川の下流側(上の絵の左側)が間部河岸か? 更にその下流の新大橋の手前ぐらいに間部下総守の屋敷があった。

また、品川から五反田に至る道路を高輪台の方へやや坂を登った所を島津山といい、ここはかつては仙台藩伊達家の下屋敷があったところで、1661年から1663年にかけての寛文年間には堀飛騨守の屋敷となったが、1716-1736年の間部下總守の拝領地となった。(島津山の名前は明治時代になって島津公爵の邸地となったため)


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