淀川往来 巨椋池と東一口
 

クイズ風に言うなら「 京都の南部に海に面していないのに漁業で生計をたてていた村がありました。どこでしよう? 」答は現在の久世郡久御山町東一口( ひがしいもあらい )である。漁場は巨椋池( おぐらいけ )であって、京都向島の南に東西4キロ、南北3キロ、周囲16キロに及んで満々と水をたたえていた池の姿を知らない人には答えられない問題だろう。
 
池が昭和8年から8年余の歳月をかけて干拓されて以後は、近郊農家と区別がつかなくなった。しかし、元の池の西岸堤防に沿ってのびる百八十戸ばかりの集落には、元庄屋山田家に象徴されるように、古い家々が多く、独特の雰囲気が残っている。  近郊農家に転じて後はわずか40年余、漁村としての歴史は、最も古い説では平安の昔に遡る。禁裏の鯉の飼養池である「 狭山江御厨( さやまえのみくりや )があった頃、その御厨の供御人が東一口の住人の祖先であったのではないかというのである。(「 巨椋池干拓史 」〉  深く検討するには資料が足りないが、「 干拓史 」に引用される「 大池水産会文書 」には、小倉、向島、伏見弾正町の漁師と共に、鳥羽法皇から次のような論旨を賜ったと記されている。 
 すなわち東は津軽の海、西は櫓擢の及ぶ所までを漁場にしてよい。 また洪水の節には公私の田畑の別なく、その農作物の上まで漁業をできるというのである。さらに同文書によれば、慶長6年(1601年)徳川家康より巨椋池漁業に対する鑑札( かんさつ )を受けている。 東一口は3枚、伏見弾正町10枚、三栖( みす )5枚、小倉3枚で、鑑札一枚につき三匁三分の運上銀が定められていた。  その後増札があって東一口は元禄7年(1694年)5枚、文化8年(1811年)には7枚と増えている。  鑑札を持たない村は漁を許されなかった訳で、後に伊勢田・新田・安田などの池沿岸の村との間に漁業権争いも起こった。  
 
巨椋池は明治40年の淀川改修工事までは、宇治川の遊水池として増水時には4〜5bの高さになることも珍しくはなかった。  洪水多発地帯で「 池の水が多くて魚がよくとれた年は、田が水につかって米がとれんかった 」と老人は昔の生活をふりかえる。  3年に1度7分作が普通で、残りの年は半作ぐらいのこの村では、自家の飯米さえ半年自給できれば良いほうだったという。  となれば、どうしても漁業に頼らねばならない。  近在の娘たちは「 東一口に嫁に行くと、毎日舟に乗らんならんからこわい 」と言って嫁に来たがらなかったという。  漁に出るにも、北側にの島にあった田に通うにも舟を利用する生活であった。  また 淀川の対岸淀・納所に行くにも舟を利用する生活であった。  
舟は1軒に2〜3艘ずつ、村全体で300艘からの船が3カ所の船着き場に繋留されていた。巨椋池で漁をするのに使用した船が久御山町の中央民館ロビーに展示されているが、底の平たい川舟はいかにも小さく、きゃしゃで、慣れない者には不安が先に立つ。  しかし改修工事で独立の池となり、水位も増水期でさえ1bにみたず、水面を菱や蓮がおおいはじめると、小舟の方が動きやすかったのだろう。
 
さて池には43種に及ぶ魚が棲息していたといわれ、コイ・フナ・タナゴ・モロコ・ワタコ・ナマズ・ウナギなどをそれぞれの漁法でとった。  コイ・フナ・ワタコなどを冬期にとる浸木( したぎ )漁もその一つで、直径6bくらいに柴木を刺し立て、魚の寄せ場とし、周囲50〜100bに粗く木を立て、さらに外囲として竹で舟が入れないようにしておく。これを厳寒期、網で囲って引き抜き、浸木場に寄っている魚をとるのである。 山田家に残る文政7年(1824)の絵図によると、そんな浸木や?( えり )が 六百余り池に広がっており、その七割が東一口村のものであった。  こうしてとれた魚は、現在御牧農協
東一口支所【 注記:現在( 平成22年 ) 東一口の支所は本所に移動 】の建つ前川べりの魚市場で仲買人たちに売られた。 これは朝市で、朝霧の漂う前川に魚を満杯にした100艘からの舟が、櫓音を響かせて集まってきた。  正月4日の初市から2月までの冬場は夜市で、場所も集落の中を東西に走る街道に漁師が立ち、そこに買手が集まってきたという。  魚以外にも貝類や菱や蓮をとったり、池にくる鴨などを狩猟したり、池は村人の生活に恵みをもたらした。また、蓮見や観月にと古くから文学作品に多くとりあげられた池であったが、マラリアの流行や水害、国の農地拡大政策などによって干拓地と変わった。  
 池に住む魚貝や植物などを祀る大池神社は、府と大池水産会が漁業権補償で合意に達した10月29日を祭礼としている。  また、和辻哲郎著「 巨椋池の蓮 」に描写された蓮を、再び開花させたのが東一口の「 内田又夫氏 」である。巨椋池の蓮以外にも全国各地の蓮を集め、7月中旬の早朝より観蓮会を催されている。     ( 大久保 記 ) 
 
 
本 表紙
 
久御山町 東一口
 

東一口 山田家

本所「 淀川往来 」は昭和59年に「 上方史跡散策の会 」の方々により発刊されている。  今回その記事中 「 巨椋池と東一口 」を抜粋し ホームページに乗せさせて戴いた。

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