安養寺と弥陀次郎
 
安養寺は東一口集落のほぼ中央に位置し、山号を紫金山という浄土宗の寺院である。 門前に「 奉引上観世音尊像弥陀次郎尭円大居士 安養寺 」と刻まれた大きな石柱が目を引く。本尊は観音堂( 現本堂 )に安置される「 十一面観音菩薩立像 」で、普段は拝することができない秘仏となっている。
 
開創は、安永年間( 1772 〜17 81 )に記された寺蔵の「 弥陀次郎縁起 」に「 人皇75代崇徳院御宇、天治元年、今此一口淀魚の市にありしとき 」とある。  又 文化5年( 1808 )の「 寺社境内間数明細帳 ( 中西六朗家文書 ) 」によれば、天治元年( 1124 )源誓の開基、中興を空誉と記されている。 史料や伝承から当寺は、古くは淀魚の市( 現京都市伏見区 )にあったとされ、後現在地に移転したという。
 
この安養寺を有名にしているのが、寺の創建と深く関わる本尊の「 十一面観音 」と「 弥陀次郎 」の話で、巨椋池の漁師との縁が深いことで知られている。安養寺に伝わる「 弥陀次郎縁起 」によると、時代は崇徳天皇の御世というから平安時代も終わりのころの話である。
 
巨椋池のほとり、淀魚の市に「 中村兵衛佐禎次 」という者がいた。この夫婦には子どもがなく、朝夕に子どもが授かるようにと神仏に祈願していた。  ある夜、金色の僧が現れ、妻に子供を授けると夢告があり、僧からその証に蓮華を賜ったところで目が覚めた。妻は夢の話を禎次に語ると、禎次は夢中の僧が観音菩薩の化現であることを知った。夫婦は、大いに喜びますます信心を深め、やがて10ケ月後に男の子が生まれた。その子を次郎と名付け、夫婦は次郎を観音菩薩の申し子として溺愛した。ところが、こうした幸せな生活も長くは続かなかった。次郎が3歳のときに父を、15歳にして母と死別し、次郎は天涯孤独の身になってしまった。それからの次郎は、朝から晩まで河辺で糸を垂れて魚を釣るか、漁網を曳いて魚を捕って毎日を暮らしていた。そして父母の命日も忘れて殺生を繰り返し、また人のいうことを聞かない荒くれ者であった。その放逸無惨な暮らしぶりから、いつしか人々は悪次郎とあだなした。  ある日、次郎の家の前に一人の托鉢の僧が訪れ、一銭一米の施しを請うた。次郎は施物をするどころかさんざん悪口をいって僧を追い返してしまった。僧が来た日に限って一匹の魚も捕れず、次郎がいくら追い払っても托鉢の僧は、毎日のように現れ門口に立つのである。腹を立てた次郎は、「今日の施しはこれだ」とばかり、僧の左頬に焼火箸を押しつけた。ところが僧は痛がりもせず、また怒った様子もなく立ち去っていった。不思議に思いその後をつけていくと、僧は淀から水垂(みずたれ 現京都市伏見区)へ川の上を歩くように渡り、さらに北西に進み、粟生(あお)の光明寺( 現京都府長岡京市 )の山内に消えた。次郎は寺に入り院主に托鉢の僧のことを尋ねたが、そのような僧はいないという。ただ堂内の釈迦如来は、結縁のためにときおり、托鉢に出歩かれるという話があるという。  そこで中尊釈迦如来像を間近に拝してみると、如来像の左頬に焼火箸をあてられた火傷の跡があり、膿血が流れていたのに驚いた次郎は、深く改俊の情を起こし善行を行うようになった。
 
その後、次郎は「淀川の神の木の淵にて有縁の善知識に会うべし 」との夢告により、淀川神の木の淵( 現京都市伏見区淀町付近 )へと舟を進めた。時刻は夜の12時、漆黒の闇につつまれた水面から一筋の光明がほとばしり、さながら日の出のような有り様であった。思わず次郎は、その光に向かって網を投入れると、網の中からまぶしく輝く「 阿弥陀如来と観音菩薩の像 」が現れた。時に建久三年(1192)3月18日のことであった。  以後、殺生を止め、一層精進を重ね念仏の行者となった次郎を世の人は弥陀次郎と呼ぶようになったという。  なお、神の木の淵から出現した阿弥陀如来は、水垂の阿弥陀寺の本尊となり、「 観音菩薩 」は今、安養寺に祀られている「 本尊の十一面観音菩薩 」である。  次郎はその後、髪を剃り堯円居士(ぎょうえんこじ)と改め、安養寺を西悦法子( 安養寺二世 )に譲り、自らは宇治五ヶ庄の西方寺( 現宇治市五ヶ庄 )に閑居した。そして、貞応元年(1222)10月15日、七十余歳にして夢告によって臨終のときを知り、西に向かって端座合掌し往生を遂げたという。
 
以上が「弥陀次郎縁起」の概要である。同様の逸話は巨椋池の南岸を取り囲むように、安養寺のほか、宇治の西方寺・淀水垂の阿弥陀寺や長岡京市の粟生光明寺にも縁起とともに伝承されている。  ただし各縁起は、それぞれの寺の創建と関わって多少の相違がある。例えば、縁起の根本部分である次郎が引き上げたという仏像については、安養寺の「弥陀次郎縁起」によると阿弥陀如来と観立日菩薩の二体であったとする。一方、西方寺の「 弥陀次郎本尊縁起 」には金銅の一光三尊仏( いっこうさんぞんぶつ 阿弥陀・観立日.勢至の三尊 )、阿弥陀寺の「淀水輪山阿弥陀寺本尊縁起」では3尺(90p)の阿弥陀如来像であったと記されている。  さらに阿弥陀寺の縁起には、治承四年(1180)の兵火で焼失した東大寺大仏殿を再建するため、勧進職に補せられた俊乗坊重源(しゅんじゅうぼうちょうげん)(1121〜1206)の求めに応じ、弥陀次郎は家伝の蝉折の笛を売却して、一万銭の金を作り重源に喜捨したとある。さらに、南都の仏教を復興したことで知られる解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)(1155〜1213)と弥陀次郎が十六( 現 城陽市青谷十六 )で出会い相十念(互いに弥陀の尊号を十唱すること)をした話が記述されるなど、善行を行う念仏聖の姿と、阿弥陀如来の化身としての弥陀次郎の姿が写実的に語られている。
また宇治の西方寺は、弥陀次郎終焉の寺として知られ、近在の人々は寺を通称「弥陀次郎さん」と呼ぶ。この寺に閑居した以後の弥陀次郎は、社会教化をすすめ、五ヶ庄一帯の治水と農地改良に務めたという。現在五ヶ庄地区と木幡地区の境界付近を流れる細流を弥陀次郎川と呼び、弥陀次郎によって改修されたものと伝える。この弥陀次郎川が宇治川に流入する地点の南側、許波多(こはた)神社の西北の田をかつては弥陀次郎田といったという。
ともあれ弥陀次郎の逸話は、縁起以外にも『山州名跡志』『都名所図会』などの地誌類や『節用集』などにもみえ、江戸時代には広く知られた話であった。
 
ちなみに次郎が発心を起こす契機となり、次郎が拝した生身の釈迦像は、粟生光明寺の釈迦堂に祀られている。  左手に鉢を持つことから「御鉢(みはち)の釈迦」と呼ばれ、もとは光明寺山内の金光院の本尊であったという。像の左頬には伝承の起源になったと思われる傷が残っていて、「頬焼の釈迦」として広く信仰されている。  さて東一口の安養寺には、弥陀次郎の遺風として「六字詰念仏( ろくじづめねんぶつ )」双盤( そうばん )念仏)がある。  この六字詰念仏は南無阿弥陀仏の六字の功徳とそれに加えて階代の中国で活躍した智顕(ちぎ)(538〜597)が書いた「 摩詞止観(まかしかん) 」に、「 六字はこれ六観音なり、よく六道の三障を破す 」とある六観音の功徳が合わさったものという。  
 
安養寺では3月の声を聴くと「 双盤念仏 」の練習が始まる。双盤念仏とは、双盤(大型の伏鉦)を用いて六字の名号( 南無阿弥陀仏 )を詠唱する音楽的な引声念仏である。  念仏は本堂で行われ、本堂の外陣の一方に長床をしつらえ、その床に横一列に坐して奏される。念仏には大鉦と六字詰と呼ばれる二通りがある。鉦は橦木(しゅもく)の使い方や鉦の叩き方によって、持念仏( じめんぶつ )、仏掛( ぶが )け( 大鉦・小鉦 )、陀掛( だが )け( 大鉦・小鉦)、三ツ鉦、ソソリ、四コロ、大流し、蓮華崩し、ミツジといった曲目に分かれて叩かれる。  鉦を叩く鉦講の講員は10人で、10丁の鉦を頭と呼ばれる導師役の動作に合わせて9人が叩くのである。  この双盤念仏は、毎年3月17、18日の春祭りに奉納されていたが、近年、春祭りの日程が変更され彼岸入り前の土・日曜日に行われるようになった。安養寺の双盤念仏は、南山城唯一の伝承念仏となっている。
 
安養寺と弥陀次郎
 
安養寺の春祭りには、本尊十一面観音像が開帳される。かつての開帳日は18日で、その日に開帳される理由は、建久3年3月18日に次郎が夢告により、淀川神ノ木の淵から観音像を引き上げた日、つまり「観音の縁日」による考え方である。  縁日とは、神仏の示現・誓願などの由緒に基づいて法会・供養などを行う日のことをいう。 その日にその神仏を念ずれば特別な公徳があると信仰されてきた。  縁日の語は経典や中国の記録には見られないが、我が国ではこの縁日について、文献みえる早い例が観音の縁日である。 観音の縁日を18日とする風は、承和元年(834)宮中仁寿殿で毎月18日観音供を行ったのに始まるとされる。
 
又 「 今昔物語集 」巻第14の 修行僧至越中立山会小女語(しゅぎょうのそつゑっちゅうのたちやまにいたりてわかきをむなにあふこと)に、ただ一度観音を念じた女が、「今日ハ、18日、観音ノ御縁日也」とあって、18日にただ一度観音を念じた女が立山の地獄に落ちながら一時の平安を得た話を載せている。さらに同書巻第19の美濃守侍五位遁急難存命語(みののかみのさぶらいのごゐきふなんをのがれていのちをそんすること)は、「 亦18日ニハ持斉ニテ、年来観音ヲ念ジ奉ケリ 」とあり、日ごろ観音を念じていた男が18日に禍を免れた話である。このように特定の仏菩薩に対する結縁の思想が、特定の参詣日の観念に発展し、縁日が社会の各層に親しまれるようになったものと考えられる。
 
次に、縁起などにみる一口(いもあらい)と安養寺の関係について述べてみたい。次郎の生誕の地は、縁起の多くが「 淀 」「 よどの津 」「 淀のほとりの一口 」というように、淀の地としている。また縁起からみる限り、誕生から発心して弥陀次郎と呼ばれるようになり、宇治の西方寺に閑居するまでの問、多くの民衆を教化したのもこの地であったようである。さらに、安養寺蔵の「 弥陀次郎縁起 」には、冒頭に記したように「 今此一口淀魚の市にありしとき 」とあって、一口がかっては淀魚の市にあったと具体的な場所を示して記されている。  縁起にいう魚の市は『玉葉』文治4年(1188)9月15日の条にみえ、中世以降、淀川における京都への入口にあたる地理的条件を生かして市場として栄えた。  この淀魚の市の位置は、納所(現京都市伏見区納所町)の西南の三川(宇治川・木津川・桂川)合流地点中の川中島に相当するようで、淀津の中心であった桂川西岸が西淀(江戸時代以降における水垂町・大下津辺りと推定)と呼ばれたのに対して、魚の市辺りは東淀と呼ばれた。  寛永2年(1625)に松平定綱を初代藩主として淀藩が生まれるが、淀城は淀魚の市があった川中島に築かれた。淀御城府内の図(京都府立総合資料館蔵)には「魚ノ市」と記された島がみえる。正徳元年(1711)に成立した『山州名跡志』巻13には「弥陀次郎宅 伝云古弥陀次郎ト云フ者。此所二住デ漁ヲナス。 其地城東今家中士舘ノ地也」とあって、弥陀次郎が住んでいた所は淀城の東側、今は藩士の住居地となっているという。  当時弥陀次郎の旧宅が伝承として存在していたことを知ることができる。
 
現在東一口は、東西に細長く家並みが続く堤防上の集落である。 集落が立地する堤防は、大池堤( 東堤防 )と呼ばれ・文禄元年(592)豊臣秀吉が伏見に築城するにあたり、この城を中心とする水陸両交通路を整備するため、巨椋池を各所で分断する大工事を行った際に築堤したものであるとされる。 東一口の集落が.」の堤防上にあることから、現集落の起源が築堤以後とされ、前述の淀魚の市から移住してきた人々によって形成された村であるといわれてきた。 ところがこの移住を裏づける確かな史料は現在みつかっていない。」の移住説は、「弥陀次郎縁起」『山州名跡志』「山城国久世郡御牧郷村名宮寺初記」(玉田神社文書)『巨椋池干拓誌』といった縁起・地誌類や村の来歴についての伝承などから推測されたものであり、詳細は今後の研究に待つところがが大きい。
 
東一口に現存する安養寺は安永6年(177)の「紫金嬰養寺什物帳」(安養寺蔵)に観音堂建立、寛延四辛未年2月8日大工初、同5月2日棟上Lとある.寛延4年(1751)に建立あるいは再建され、今日まで弥陀次郎の法灯を伝える観音の寺として知られている。  東一口移住説あるいは現住説いずれをとるにしても、寺は集落の中で仰ぎみるような高い場所に位置していたのであろう。 寺は淀川を行き交う船からも、また巨椋池で漁をする漁師の舟からも見えたに違いない。  生業の立場は違っても人々の目に安養寺は南海洋上に浮かぶ観音の浄土、補陀落山(ふだらくせん)のように見えたことであろ。
想像をたくましくすれば、かって入々は、巨椋池に咲き誇る蓮に浄土を夢見、広大な池を南海とみなし、観音のおわす寺を補陀落山と考えたのではないだろうか。特に巨椋池漁師にとっては、生業である漁業と深く関わり、現世の安寧と死後の往生を観音にすがったことであろう。それゆえ、観音に対する信仰は絶大なものがあり、宗教が希薄になったといわれる今日にあっても、観音に対する信仰は人々の心の中に脈々と生き続けている。
 
 
 
久御山町 東一口 安養寺
 
弥陀次郎縁起
 
 
御鉢釈迦如来像
 
六字詰念仏(安養寺)
( 無形文化財 )
 
淀城と淀六ケ町
出所:平成15年3月31日  発行者 久御山町教育委員会「 巨椋池ものがたり 」 中「 安養寺と弥陀次郎 の項を抜粋し 紹介しております。

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