京都 久御山町の今昔( 安養寺 御開帳 )
 
 
来年3月11日から 15日迄 5日間 久御山町東一口( 一口でいもあらい と読む )安養寺にて 33年振りの ご開帳がある。 郷土の資料に 関連記事が 掲載されているので 紹介します。
 
弥陀次郎が淀川の神の木淵( 伏見区淀町付近 )より網で引き上げたと伝えられる安養寺の本尊「 十一面観世爵菩薩の御開帳 」は、33年毎を目安に大法要が営まれている、明治以降は、明治16年(1883)に30日間、大正7年(1918)は33日間、昭和24年(1949)10日間、昭和55年(1980)は7日の期間中、東一口は全戸をあげて大法要に奉賛した。家々では一軒に40人・50人の親類、友人を招いて、鯉のアライ・鮒の鮨など御馳走を大皿に盛り上げ、飲み放題の酒宴をした。
 
昭和55年(1980)の開帳の様子を紹介すると、期間中は双盤鉦による六字詰念仏が行われ、特に初日・中日・開帳の日は練り供養の行列がある。  お練り行列は、御開帳委員4人を先頭に、鉦講10人・先導和尚2人・安養寺住職・男児5人女児5人の稚児・寺総代・講中.各種団体の順で総勢50人が、初日は自治会長宅、中日は中町の寺総代、開帳の日は東町の寺総代の家から出発し安養寺までお練りをする。稚児は5・6才児で、冠鳥帽子・紫小袖の稚児装束を着け、観世音に捧げる花を持って訪問着姿の母親に付添われる。 参道・境内には十一面観世音御開扉の大きな幟(のぼり)と五色の吹流しが立てられ、行列が境内に入ると双盤鉦の音も一段と高くなる。
行列が本堂に上がり、安養寺住職の導師で法要が始まる。参拝する善男善女は「 南無阿弥陀仏 」を唱え、十一面観世音を仰いで菩薩の慈悲を願う。
 
本堂では御開帳期間中、寺宝がならべられ、古老・役員の説明があるが、今はテープに吹き込んだ弥陀次郎縁起をたえず参拝者に聞かせている。  寺宝には、弥陀次郎が門付(かどつ)けに立った坊さんの頬に当てた火箸や夢のお告げにより神の木渕から十一面観世音を引き上げたときの網など、弥陀次郎伝説を裏付ける資料として展示されている。 また伝後陽成院御名号・伝源空上人(法然〉御名号・伝徳川将軍下賜の三ツ葉葵茶碗など17点を数える。
 
御開帳大法要の期間中に催される奉讃行事は多く、その年代毎に趣きを変えているが、参拝者・近在の人を楽しませる余興となっている。 この行事は昔にさかのぼる程派手で大層なものであったらしいが、伝承も少なく資料も乏しいので大正7年(1918)を中心に紹介する。
 
明治16年(1883)の行事は、占老が親から聞いた話として伝承するのみで、行事の規模・内容の詳細は解らないが、30日間の芝居・素入奉納相撲・手品師の興行があり、巨椋池周辺の漁業者が船団を組んで参拝するなど賑わったという。
 
大正7年(1918)、33日間の御開帳中の参拝者を運ぶ淀川の渡し舟は、三合船(さんみぶね)(一合はトロッコ一杯分の重.さ、一合で5人位)十艘が終日運航した。 特に御開帳の中日は三千人の参拝者で賑わった。  観世音に奉納行事として、吉祥院から太鼓十個を持った六斉念仏、伏見の平戸町は花車(だし)を舟に載せて百人が三味線と太鼓ではやしながら参拝するなど巨掠池周辺の集落は村をあげて連日の如く集まって来た。
 
興行として海女の鯉つかみがあった。胴元が伊勢から海女を3・4人招き、中内川を生簀で囲み鯉を放つ。 海女が潜ぐって鯉を手づかみにしてくる。番号の抽選で当った人がその鯉を貰うが、いくら錬達の海女でも泳ぐ鯉を簡単に手でつかめる筈はなく、実は生簀の中に仕掛けがあった。 大正7年頃の中内川は水も澄んでいたが非常に深かった。  だから生簀で囲むと川底は見えなくなる。胴元はダマル(竹で編んだ蓋付きの大きな魚入れ)10杯に鯉を入れたままで川底に沈めておく。  海女はもぐるとダマルのふたを開け、逃げないように一匹だけつかんでくるという仕掛けであった。地元の人はその仕掛けを知っていたが、遠来の客は知るはずはなく、海女の妙技にやんやの喝宋を送ったという。
 
昭和24年(1949)は戦後の混乱期で食糧事情は最も悪く、御開帳どころではなかったが、世相の安定を願って一週間の御開帳が行われた。 吉祥院の六斉念仏、伊勢の太神楽も奉納され、余興は旅役者の市川ひろみ一座を東一口が勧進元になって一週間の興行をした。その当時三度の食事を腹一杯食べられることは大変な魅力で
あったから、一座は張り切って芝居を続けたといわれている。
 
 
 
安養寺と双盤
 
 
東一口の安養寺に、古くから伝わる六字詰念仏は、双盤と呼ばれる鉦を大形の橦木(しゅもく)で打ち鳴らしながら唱える念仏である。  昭和54年度の町民文化祭、又、本年六月の圃場整備竣工式に本町中央公民館において披露されたので御承知の方が多いと思う。  六字詰を、地元の方は六じゅめと訛る。この六字詰と大鉦と呼ばれる二とおりの念仏があって、共に南無阿弥陀仏の六字名号をアレンジしたものである。  年中行事である3月17・18の春祭りには欠くことの出来ない念仏であり、これによって 御開帳 並びに 御閉扉が行われることになっている。
 
大鉦は、六字詰の前に唱えられ、言わば六字詰の前奏曲のようなものである。  大鉦・六字詰共に十基の鉦を一列に並べ先頭に座る人は頭(かしら)と呼ばれ、皆を誘導する。したがって頭に注目していないと鉦が合わず聞き苫しくなる。そのため毎年3月1日より鉦の稽古が始まる。この鉦の音に本格的な春を惑じるものである。
 
この鉦は占くから今日まで連綿と継承されてきたが、太平洋戦争の末期に供出されたため、昭和24年(1949)の御開帳大法要に新調された間の数年間は途絶えている。
 
明治・大正時代から昭和17・18年まで、鉦打ちは青年会の奉仕するところであったが、これが解散によって青年団が受継いで奉仕してきた。当時の青年会・青年団の大きな年中行事で、新入会員や団貝に鉦を教えるのは役員の務めであった。  新入りは好むと好まざるにかかわらず鉦の稽古に励んできたのである。
 
六字詰の創始は、鎌倉時代であると言われている。その内容を簡単掲げておく。
 
        1)地念仏・頭を始め一人づつ全員が唱える
        2)ブがけ(大鉦・小鉦)
        3)ダがけ(大鉦・小鉦)
        4)三ツ鉦
        5)ソソリ
        6)四コロ
        7)大流し
        8)蓮花クヅシ
        9)ソソリ
        10)ミツジ
 
上の順序に橦木の使い方、鉦の打ち方が変わってくる。 六字詰は全員が念仏を合唱して、大鉦とは節も全く異なるが、鉦の変わっていく順序は大鉦とかわらない。 この様にかなり複雑なものであるから、すくなくとも10日位の練習を必要とする。
 
鉦打ちは青年団の年中行事であり、団員による奉仕が、ごく当り前と考えられてきた。  ところが、去る48年突然青年団が解散した。 地元の人々が始めて体験した伝統行事の危機であった。  青年団の存続を望む声が高かったが、実現しなかった。解散の理由が、ただ単に占年団の体質だけではなく、急激に進む都市化と高学歴社会化といった大きな社会環境に支配された感があった。 従来団を運営し活躍した青年の大半が学生であり、サラリーマンとなり、家業を継ぐ者が激減してしまったことによる。  一時は、鉦の音もこれで絶えるのではないかと思われたが、安養寺側の要請もあって、自治会長が鉦の存続に努めた。先づ消防団・青農会・営農会の青年に集合してもらい、双盤保存会の結成を話し合ったが、実現しなかった。そこで窮余の策として全体から募ることにした。
つまり十班の班長に依頼して各班から募集したのである。幸い祭に支障のない人数の協力者があって、無事に鉦を打つことができた。それ以来今日まで毎年祭り前に各班長を通じ依頼る風習が定着して、人員も年毎に多くなりつつある。年令は20才代から50才代までと巾広く、大学生やサラリーマンも多く、誠に喜ばしいことである。
この伝統ある行事が、いついつまでも継続されて絶えることのないことを願うものである。
 
 
本文の出所:昭和56年11月3日発行 「 久御山町の今昔 」より抜粋
 
仏教における鉦とは:単に鉦(かね・しょう)とも称され、金属(青銅)製のものを言う。通常は「架」(か)と呼ばれる台にかけて一本の槌(撞木)でたたいて音を出す。 
 
昭和55年時 稚児行列
 
太神楽
 
双盤鉦
 
青年による六字詰念仏( 無形文化財 指定 )

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