安養寺の春祭り
 
 
平成5年9月 坂部五三夫さん執筆の本「 ふるさと乃四季 」の中から 「 安養寺の春祭り 」を抜粋し紹介します。
 
 
弥陀次郎が淀川の神の木淵(伏見区淀町付近)から網で引き上げたと伝えられる安養寺の本尊 「 十一面観世音菩薩 」の開帳は、毎年の春祭りと33年毎を目安に大法要が営まれている。 近世では安永6年(1777)に続いて文化6年(1809)は3月2日より30日間、次いで天保13年(1842)は33年目にあたるが、凶作続きで延期され、嘉永3年(1850)3月2日より30日間、すなわち41年目に行われた。  明治以降は、明治16年(1883)に30日間、大正7年(1918)は33日間、そして戦後は混乱期であったが昭和24年(1949)に10日間行われ、近年では昭和55年(1980)に7日の期間中、東一口は全戸をあげて大法要を奉賛した。家々では一軒に40・50人の親類・友人を招き、大皿にご馳走を盛り付け、連日の酒宴を催した。
 
昭和55年の開帳は、連日双盤鉦による六字詰念仏が奉納され、初日・中日・閉帳の日は稚児・鉦講・奉賛会の人々の練り供養が行われた。稚児は5歳・6歳児の男女で、紫小袖に宝冠を戴き、観世音に捧げる蓮華を持って母親に付き添われる。 参道・境内には「 十一面観世音開帳 」の大幟と五色の吹き流しが立てられ、行列が境内に入ると双盤鉦の音も一段と高くなる。  参拝する善男善女は「 南無阿弥陀仏 」を唱え、十一面観世音を仰いで菩薩の慈悲を願う。  
 
開帳の期間中、催される奉賛行事は多く、その年代毎に趣きを変えているが、参拝者、近在の人々を楽しませる余興となっている。  明治16年は30日間の芝居、奉納相撲、手品などの興行があり、巨椋池周辺の漁業者が船団を組んで参拝したという。  大正7年は33日間の開帳中、参拝者を運ぶ宇治川の渡し舟は三合船( 一合=五人位 )十艘が終日運航し、中日は三千人の人出でにぎわった。  また開帳を奉賛して吉祥院( 京都市南区 )から太鼓10個を携えた六斉念仏や、伏見の平戸町からは山車を舟に載せて、三味線と太鼓で難しながら参拝するなど、巨椋池周辺の集落は村をあげて連日のように東一口へ集まってきた。  興行として海女の鯉つかみがあった。 胴元が伊勢から海女を三人・四人招き、中内川( 古川 )の一角を生篭で囲み鯉を放つ。海女がもぐって鯉を手づかみにしてくる。抽選番号で当たった人がその鯉を貰うが、いくら海女でも泳ぐ鯉を簡単に手づかみにできるはずがない。実はダマル( 竹製の大きな魚入れ )十杯に鯉を入れて川底に沈めておき、もぐった海女がふたを開け、一匹ずつ取り出してくるという仕掛けであった。  地元の人はその仕掛けを知っていたが、遠来の客は妙技にやんやの喝采を送ったという。  昭和24年は戦後の混乱期で食糧事情は最も悪く、ご開帳どころではなかったが、世相の安定を願って1週間の大法要が行われた。吉祥院の六斉念仏や伊勢の太神楽が奉納され、余興は旅役者の市川ひろみ一座を東一口区が勧進元になって一週間連続の無料興行を実施した。  その当時三度の米飯食事は大変な魅力であったから、一座は張り切って芝居を続けたという。  
 
安養寺では33年を目安にした大法要と、毎年3月17日・18日の両日に春祭りが行われていたが、平成5年の春祭りは彼岸入り前の土曜・日曜日に日程が変更された。しかし、春祭りに欠かすことのできない双盤鉦による「 六字詰念仏 」が奉納され、開帳と閉帳が行われている。十基の鉦を一列に並べ、頭と呼ばれる打手が九人を誘導するが、よほど練習しないと鉦が合わず、念仏も聞き苦しくなる。そのため3月1日から練習が行われ、先輩たちが初心者を指導する。この練習の成果が本番の日に披露されるが、集落に響く双盤の鉦の音は人々に大きな感動を与えている。
 
 
 
久御山町 東一口 安養寺
 
昭和55年時の稚児行列
 
六字詰念仏
 
執筆者 坂部さんより 本書を戴いた時のサイン
「 美しい自然の中に、ふるさとの情景が残る 」
 
 
 
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