一ロの地名伝承
 
一口( いもあらい )は、後述するように『 平家物語 』、『 源平盛衰記 』、『 吾妻鏡 』をはじめ、中世以降の史料にその名が散見され、宇治川・木津川・桂川が流入する巨椋池のそばに位置していた。 その地理的な関係から、宇治( 京都府宇治市 )・山崎( 京都府乙訓郡大山崎町 )・淀( 京都市伏見区 )と同様、合戦のたびに重要視され京都南部における攻防の上からも要衝の地であった。 それは同時に、交通の要所であったことをものがたるものといえよう。
 
 
一口は、また難解な地名としてよく知られている。 「 一口 )と書いて「 イモアライ 」と読むことについては、近世以降いろいろな解釈がなされてきた。 そこで「 用字 」と 「 読み方 」についての問題はさておき、現在知ることのできる一口の地名に関する伝承を列記すると次のようなものがある。
 
(一)『 山城名勝志 』に「一口 古老云昔三方ハ沼ニテ一方ヨリ入口有 之故一二一ロト書ト云リ 」とあり、三方が沼( 巨椋池 )であって、入口が一口のみの1ケ所であったから一口と書かれたとする。  また丈政11年(1828)に記録された「 山城国 久世郡御牧郷村名宮寺初記 」( 玉田神社文書 )の「 両一口村名の初 」の項にも 同様の説を載せている。   
恐らくこの説は、近世において広く流布していたものであろう。
(二)巨椋池漁師に与えられた特権とその由緒を記す「 漁師由緒抜書写 」( 年欠・山田賀胤家交書 )によれぽ、用明天皇が宇治田原( 京都府綴喜郡宇治田原町 )へ行幸された時、神楽( かぐら )という所から勢田( せた )の下へ流れる一口川に「 神楽や一口川に鯉のほる人が恋するはちすはハゆけ 」と書いた短冊を流された。   これを淀魚の市の漁師が引き上げ、
禁裡( きんり )へ届けたところ、歌に読まれた   川名から在所の名を「 一口 」と賜ったとする。
(三)豊臣秀吉が伏見城で宴を催したとき、和歌を記した短冊を宇治川に流したところ短冊は一口まで流れついた。すると大鯉が現われ、その短冊を「 ひとくち 」に飲み込んだので、その地を一口と書くようになったという伝承。
(四)昔、弘法大師が巨椋池のそばを通りかかったとき、一人の農夫が何かを一心に洗っていた。大師は「 何を洗っているのか 」と尋ねたところ、農夫は「 芋である 」と答えて「 ひとくち 」に口に入れたのでの地名がついたとする伝承。
(五)昔、巨椋池は大小無数の島洲があり、「 芋を洗う 」ごとくの景観があったので芋洗   と呼ぶようになったとする伝承。
(六)明治の初めまで巨椋池で捕獲された鯉は、宮中( 石清水八幡宮 )へ献上していた。   この鯉には 「 一咫鯉一尾 」と目録がつけられていたという。咫(し)は親指と中指の間の長さを示し、この目録をみた人が一咫を一口と読み違え、「 一口から鯉一尾を献上 」となったとする。
 
 
このほか、一口の地名解釈について
 
(一)農民などがはじめて土地を耕すとき、その土地の一部を区画し、その四角に棒を立て   土地を神から貰う祭事を行った。これを「 地貰い( じもらい )」と呼ぶが、この「 地貰い 」が「 イモアライ 」に転化したとする。  また一口は、文字ではなく記号であるとして、横棒の一は土地を意味し、□は土地の区域をあらわすものであり、これが後に漢字の口になったとする説がある。
(二)「 イモ 」が斎( いもい )・忌( いまう )に通じることから、それを「 洗う 」   もしくは「 祓う 」ことの意味に解して、何らかの宗教上に関する潔斎の場所であった可能性もある。
(三)「イモ」が鋳物師( いもじ )に結びつき、一口の地理的な位置からみて、砂鉄に関係する地名であるとの考え方も成り立つ。
 
 
「 イモアライ 」の地名は、全国的に広く分布する。しかし、「 一口 」と書いて「 イモアライ 」と読む地名となると、その数は以外と少ない。 同字地名として知られるものに、東京都千代田区神田駿河台にある一口坂( 淡路坂 )と同区九段北三・四丁目境に一口坂( いもあらいざか )( 現在は「 ひとくち坂 」と呼ぽれる )があり、港区麻布六本木五・六丁目境にも芋洗坂( いもあらいざか )がある。
この「 イモアライ 」の「 イモ 」のもつ意味は、どうも「 芋 」ではないようである。
「 イモ 」とは痘痕( とうこん )・庖瘡( ほうそう )のことをいった。 痘痕が文献にみえる初出は、『 続日本紀 』天平7年( 735 )8月12日の条に、筑紫国( 福岡県 )大宰府で泡瘡が大流行し、諸国の寺々で「 金剛般若経 」を講読させた記事がみえる。
同年閏11月17日の条には、災変重り、疫癘( えきれい 大流行の庖瘡 )は京師に及び、同年の最後の条に「 是歳。年頗不稔。自夏至冬。天下患豌豆瘡 俗曰 裳瘡 夭死者多 」と記している。
医療の発達していない昔にあっては、庖瘡は実に恐ろしい病気であり、庖瘡に対する予防は神仏にたよらざるを得なかった。そのため全国いたる所に庖瘡神が祀られていた。その数を列記するいとまはないが、いもあらい地蔵(奈良県橿原市)・萢瘡神社( 奈良市横井 )・瘡(かさ)神社( 京都府綴喜郡田辺町 ).瓦屋寺( 滋賀県八日市市 )をはじめ、芋観音.瘡薬師.瘡守( かさもり )稲荷・笠守観音・笠森神社などがある。
 
さて本町の一口と「 イモ( 疸瘡 ) 」の関係であるが、前述した東京の神田駿河台の一口坂( 淡路坂 )の頂上、神田川べりに太田姫稲荷があった。現在は太田姫稲荷神社( 千代田区神田駿河台一丁目二番地 )と改称されているが、古くは一口稲荷神社と呼ばれていた。この神社の沿革は「 太田姫稲荷神社縁起 」( 年欠・太田姫稲荷神社所蔵 )によれば、承和5年
(838)の初め、遣唐副使に任ぜられた小野篁( たかむら )は大使の藤原常嗣と争い入唐しなかったため隠岐( おき 島根県 )へ流罪になった。篁が伯耆( ほうき )国( 鳥取県 )名和港を出航したとき、海上がおおいに荒れた。篁は衣冠を正し、普門品( ふもんばん )を唱えると白髪の翁が波上に現われ、汝の流罪はまもなく解かれ<都へ再び呼びもどされるであろう。  しかし、庖瘡をわずらえぼ一命はおぼつかない。 
われは太田姫神である。わが像を常に祀れ、と神託があった。 篁は同7年、帰京を許され翁の像を刻み山城国一口の里に神礼をつくったという。さらに縁起は続けて、太田道灌( どうかん )の故事を記している。  道灌の娘が庖瘡にかかったとき、ある人が山城国一口の里にある一口稲荷神社に祈願すれぼ病気が平癒( へいゆ )するという進言をしたので、早速この神社に祈願したところ庖瘡が治ってしまった。 道灌はおおいに喜び江戸城内にこの神社を勧請( かんじょう )した。のち、慶長11年(1606)8月、江戸城大改築にあたり城の鬼門にあたる神田駿河台東側の大坂に移し、この坂を一口坂と呼ぶようになったと記している。
 
この縁起に記されているところによれば、一口に稲荷神社があり庖瘡平癒の神社として信仰を集めていたことになる。確かに東一口には豊吉( ほうよし )稲荷神社が現存する。
しかし、豊吉稲荷神社の沿革については近世の地誌などにその名をみないため不明な点が少なくない。  また庖瘡神としての信仰も定かでないが、「 縁起 」等の存在から一口と太田稲荷神社( 一口稲荷神社 )は何らかの関係があったようにも考えられ、今後の調査研究に待つところが多い。  
 
 
一口の地名は難解であるために、用字と読み方の安易なこじつけや語呂合わせ的な解釈が多い。  ゆえに一口の字の一は、芋を洗うときに使用する洗棒をあらわし、口は芋を洗う
桶を意味するという珍解釈まで生むに至った。
一口の語源については、万人を納得させるような定説はない。  その理由は一口の地名
解釈が、一口と書いてなぜ「 イモアライ 」と読むかということのみに関心がもたれることが多いため、無理な解釈が生じ、地名をますます困難なものにしている。  一口地名を考える場合、たとえば類似地名に城陽市青谷には「 一の口 」という所がある。
 
 
この場所を地元の人たちは、「 山の神さんの”一の口”召 」と呼んでおり、また付近には「三の口」の地名も残っている。この「 一口 」付近で、その年の干支( えと )と同じ干支が初めてめぐってくる日、たとえば寅年であれば初寅の日に、山仕事の安全と豊作のため「山の口開け」を神に祈る「山の神祭り」が現在も行われ、古い神祭りの形態をよく伝えている。  この山の神を祀る場所と、本町の「 イモアライ 」とは直接関係はないと思われるが、しかし「 イモアライ 」の地名を考える場合の一つの参考になるであろう。  結論として推測の域をでないが、巨椋池の地理的な要因からみて、そこで生計を営んだ漁師集団の発生と漁師の信仰形態にその謎を解く鍵があるように思える。
 
 
「 一ロの地名伝承 」は昭和61年3月に 久御山町 発行による「 久御山町史 第一巻 」に記載されていた記事を抜粋し ホームページに乗せさせて戴いた。 
 
 
 
両一口村の地名由来
(御牧郷村名宮寺初記)
 
一口坂(淡路坂)東京都千代田区
 
一口坂 東京都千代田区
 
芋洗坂
東京都港区
   
いもあらい地蔵 奈良県橿原市
 
太田姫稲荷神社
 
豊吉稲荷神社

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