一口(いもあらい)の地名とその伝承
 
日本にある地名の数は、一体どの位あるのだろうか。 日本全国の土地の名称(小字程度の地名)は、約一千万と言われ、それ以上微細な地名や俗称まで加えるとその数は無限にあるといってよい。 そして、そういったもののなかに、歴史をひも解く貴重な手掛かりとなる地名が混じっている。   最近になって生まれた地名はともかくとして、何百年も前からある地名にしても、その発生理由がはっきりしないものが少なくない。  そのため、地名の文字に惑わされ、誤った地名の由来や解釈が生まれることもままあることである。
  
地名に関心をもつ多くの人たちが、由来のはっきりしない地名を調査研究し、その解明に取り組んでいるが、いまだに解明されない地名のほうが圧倒的に多い。 全国に一千万以上もあるといわれる日本の地名。面白い地名もあれば不思議な地名、美しい地名、難解な地名など、さまざまな地名がある。  ところで難解・難読な地名といえば京都府では、丹後町の間人(たいざ)、向日市の鶏冠井(かいで)と共に久御山町の一口(いもあらい)が知られている。この三つの地名は、地名に関する書籍などに必ずといってよいほど紹介されているものである。なかでも一口は、難読地名として最たるものであろう。 一口は巨椋池の西岸堤防(大池堤)あたりの地名をさし、現在の東一口・西一口にその遺称地名を残している。
 
一口は鎌倉時代にはすでに地名としてみえ、「芋洗」とも書かれる。近世にはもっぱら「 一ロ 」が用字として使用された。一口は中世以降、淀と共に京都南部における攻防備上、特に重要な地点であった。  平家物語』巻四(橋合戦)に、宇治平等院に陣をする以仁王(もちひとおう)を攻めた平氏軍は、激戦のため宇治橋をなかなか渡れなかった。このとき平家の侍大将上総守忠清が、大将軍知盛に献議した進路評定の中に「 淀・いもあらいへやむかひ候べき 」とあって「 いもあらい 」が登場している。  また『同物語』巻九(生ずきの沙汰)に、前兵衛佐頼朝( さきのひょうえのすけよりとも 源頼朝)は、平家を追放し入京を果たした木曾義仲の都での狼籍を鎮めるため、範頼・義経を大将軍(代官)とする六万余の軍兵を派遣した。 これに対して義仲は、瀬田・宇治を固めて頼朝軍に備え、「 いもあらい 」には、志太三郎先生義教の300騎を遣わせたことを記している。さらに『同物語』巻九( 宇治川先陣 )に記す梶原源太景季( かげすえ )と佐々木四郎高綱のいわゆる宇治川先陣争いにも「 淀・いもあらゐ 」の地名がみえる。
 
さらに一口は、鎌倉幕府の事跡を記した『吾妻鏡』にもその名をみることができる。承久の乱に際し、幕府軍の京都攻めの配置を記した同書承久3年(1221)6月7日の条に「 芋洗毛利入道、淀渡結城左衛門尉並義村 」とあり、毛利入道( 毛利季光 )は芋洗、三浦義村は淀と、その攻撃目標を定めたことがみえている。『 承久記 』にもほぼ同様の記載がある。時代が下り『 太平記 』巻15にも「 芋洗 」の地名がみられる。建武3年(1336)正月、北畠顕家は足利尊氏の離反により、後を追って奥州より兵を率いて入京する。  顕家に属した宇都宮.紀清両党が京都に入るために志那浜(現滋賀県草津市志那中)から芋洗を経たことが記されている。
 
このほか「 芋洗 」の地名が、文書類にあらわれたいくつかの例を述べてみよう。鎌倉時代初期の年未詳5月15日付けの後深草上皇(1287〜90の間 上皇)のものと考えられる「 院宣案 」( 大和文華館所蔵 )には、芋洗の橋勧進のことが記されている。 また、正和四年(1315)、悪党が兵庫関において、追捕に向かった守護司と一戦を交えた事件が起こっている。  これは正和4年11月 日付の『 兵庫関悪党交名注進状案 』(『 大日本古文書 』東大寺文書之五 )にみえるもので、兵庫関合戦に加わった106人の悪党の名前がみられる。  悪党とあるが、これは攻撃を受けた支配者側からみた言い分であり、その多くは比叡山の僧侶である。 他に淀川筋の淀・下津(しもづ)・一口(いもあらい)・水垂(みずたれ)島本の住人もみえ、久御山にあっては「 孫太郎イモアライ」の名があがっている。
 
このほか『 後愚昧記 』天授2年(1376)7月9日から20日にかけての条には、蜂起した土民を鎮圧するため 山名時義の兵が「 芋洗橋 」に打って出たことがみえる。一口はこれら中世以降の史料に散見するように、宇治川・木津川・桂川が流入する巨椋池のそばに位置し、まさに自然の城郭であった。  宇治・淀・山崎と同様、合戦のたびに重要視され南から京都への入口として、攻防の上からも要衝の地であったといえる。  それは同時に交通の要所でもあったことを物語っている。
 
ところで一口は、地元ではごく当たり前のように「 イモアライ 」と読んでいるが、他地域の人にとっては、まず読むことができない地名であろう。 「 一口 」と書いて「 イモアライ 」と読むことについては、近世以降いろいろな解釈がなされてきた。  そこで「 用字 」と「 読み方 」については後述することとして、現在知ることのできる一口の地名に関する伝承等をみてみよう。『 久御山町史 』(第一巻)には、次のような数々の地名伝承を紹介している。 
 
(一)正徳元年(1711)に成立した『 山城名勝志 』には、三方が沼( 巨椋池 )であって、入口が一口のみの一か所であったことから一口と書かれたとする。 また文政11年(1828)記録された「 山城国久世郡御牧郷村名宮寺初記 」(玉田神社文書)の「 両一口村名の初 」のの項にも「 往古ハ両一口村淀魚の市ニ有りし時、三方ハぬまニて一方より入口あり、これに依り ひとくち村と記ス、天昇17年4月 太閤御城を築キたまう前ニ大地の高キ嶋え立のき、此時より西と東え別れ 「 西一口村 」、「 東一口村 」と申す也( 後略 )とあって同様のことを乗せている。 恐らく地形からみたこの地名由来は、近世において一般に広く流布していた説であろう。
 
(二)巨椋池漁師の特権と由緒を記した「 漁師由緒抜書写 」( 年欠・山田賀繼家文書 )には用明天皇が宇治田原( 現京都府綴喜郡宇治田原町 )へ宮居されたとき、神楽という所から勢田の下へ流れる一口(ひとくち)川に歌を記した短冊を流された。 これを淀魚の市の漁師が引き上げ、禁裏(きんり)へ届けたところ、歌に読まれた川の名から在所の名前を「 一口 」と賜ったとする。
 
(三)豊臣秀吉が伏見城で宴を開いたとき、和歌を記した短冊を宇治川に流した。 短冊が一口まで流れつくと、大鯉が現れてその短冊を「 ひとくち 」に飲み込んでしまった。そこでその地を一口と書くようになったという。
 
(四)昔、弘法大師が巨椋池のそばを通りかかったとき、一人の農夫が洗い物をしていた。大師が「何を洗っているのか」と尋ねたところ、農夫は「芋である」と答えて、「ひとくち」に芋を口に入れたのでこの地名がついたという。
 
(五)昔、巨椋池には大小無数の島洲があり、「 芋を洗う 」ような景観であったことから、芋洗と呼ぶようになったとする。
 
(六)明治時代の初めまで、巨椋池で捕れた鯉は石清水八幡宮へ献上していた。この鯉には「 一咫鯉一尾 」と目録がつけられていた。咫(し)は手いっぱいの長さ(八寸 古代の長さの単位 約18cm 親指と中指間の長さ )を示す単位であるが、この目録をみた人が一咫を一ロと読み違え、「 一口から鯉一尾を献上 」としたことによるという。
 
さらに『久御山町史』は続けて、次のような一口の地名解釈を記している。

(一) 農民などが初めて耕地を耕すとき、土地を神から貰う神事「 地貰(じもら)い 」を行った。この「 地貰い 」が「 イモアライ 」に転訛したとする。 一口は文字ではなく記号であるとして、横棒の一は土地を、□は土地の区域をあらわし、これが後に漢字の口になったとする説。
 
(二)「 イモ 」が砂鉄に関する鋳物師(いもじ)に結びつき、この鋳物師から変わったとする説。
 
(三)「 イモ 」が斎(いもい)・忌(いまう)に通じることから宗教上の潔斎場所説。
 
(四)「 イモ 」とは庖瘡(ほうそう 天然痘)・痘痕(とうこん)のことで、「 アライ 」とは払う( 治す )を意味する。庖瘡は「イモガサ」とか「ヘモ」と呼び、これを治す意味であるという説。  この「イモ」(庖瘡)と本町の一口の関係については、同字地名として知られる 「東京都千代田区神田駿河台の淡路坂 」がある。かってはこの坂を一口坂」と書いて、「 いもあらいざか 」と読んだ。  坂の上に稲荷社があり、現在は「 太田姫稲荷神社(現千代田区神田駿河台一丁目二番地) 」と改称されているが、古くは一口稲荷神社と呼ばれた。当社蔵の縁起によると、平安時代の初め、小野篁(たかむら)(802〜52二)が、隠岐( おき 島根県)へ流罪になったとき、海上がおおいに荒れた。篁が「 観世音菩薩普門品( ふもんばん )」(『観音経』)を唱えると白髪の翁が波上に現れ、「汝の罪はまもなく許される。しかし、庖瘡を患えば一命はおぼつかないであろう。我が像を常に祀れ」と神託があった。二年後、帰京を許された篁は、翁の像を刻んで山城国一口の里に祀ったという。さらに時代は下って、縁起は 太田道灌(1432〜86)の故事を記している。  道灌のの娘が疱瘡にかかったとき、山城国一口の里にある一口稲荷神社に祈願すれば、平癒(へいゆ)するということを人づてに聞き、早速急便を遣わし祈願した。 
幾日もなく使いのいの者は、一口稲荷神社から祈とうの一枝と幣をささげて帰ってきた。この日を境に重かった庖瘡もぬぐうように治った。喜んだ道灌は、江戸城内にこの神社を勧請(かんじょう)した。のち慶長11年(1606)8月、神社は江戸城改築に際して、城の鬼門にあたる神田駿河台の大坂に移され、この坂を一口坂と呼ぶようになったというのである。縁起に記すところによれば、山城国の一口に稲荷神社があって、庖瘡平癒の神社として信仰を集めていたという。  確かに東一口には、豊吉(ほうよし)稲荷神社という稲荷神社が現存する。  ところが豊吉稲荷神社については、近世の地誌類などにその名をみることができない。  また当社が縁起にいう庖瘡平癒の神社として、信仰を集めていたか否かについては、当地にそれを裏づける史料等がないため定かでない。しかし、縁起等の存在から一口と太田姫稲荷神社は何らかの関係があったようである。  一口の地名が庖瘡に関係するというこの伝承は、地名の由来を考える上で、捨て難いものを含んでいる。
ちなみに、現在知ることができる豊吉稲荷神社の伝承等については、古老の話として昔巨椋池畔の葭島(よしじま)開墾の際に白狐が現れ、当社はそれを祀ったものという。また、東一口では子どもの宮参りには、一番に氏神である玉田神社、次に安養寺、そして豊吉稲荷神社に参る習わしがある。  
 
一口の地名語源については、これらのほかに次のような説もあるので紹介をしておこう。
 
(一)一口は古訓を「 以毛阿良比(いもあらい)」といい、以毛は斎む、阿良比は浄めるという語意である。このことから以毛阿良比とは、霊域を表わすと考えられる。つまり一口とは、神霊の宿る言霊信仰の地名( 霊場地名 )であるとする説。

(二)一口はイマ(今)・アラ(新)・ヰ(井)を語源とし、新しく人工の水路(井路)を設けたことによる地名とする。巨椋池付近は、古来から河川の流路が転変した所である。類似地名として、江戸神田川に架かる昌平橋も古くは「 大芋洗橋 」といい、徳川家康が入府以後に新開削されたことをその理由にあげている。  
 
本来、地名の語源は一つである。にもかかわらず、一ロの地名伝承・地名語源には、これまでみてきたように実に驚くほどたくさんの説がある。では、なぜこれほど地名の由来に諸説があるのだろうか。一つには地名を研究する者の、地名をみる角度が異なるからだとされる。例えば言語学者らは、地名の文字やその文字がもつ発声音から地名の語源を探ろうとする。また地理学者は、その地名が立地する地形の形状や地名を取り巻く自然を重要視するであろう。さらに歴史学者・考古学者・民俗学者・地名学者なども、それぞれ専門の立場から学説を唱えた結果によるものと考えられる。
 
地名の中には、縄文時代以前にさかのぼるものもあろう。序説の「 巨椋池とその歴史的景観 」のところでも述べたように、人々の活動範囲が拡大し、他地域の人々と交易するようになると、自分たちの住む集落などに名称が必要になってくる。そこで、自分たちの土地を短い言葉で的確に表現した。それが地名の始まりであるとされる。奈良時代になってその土地の名称、つまり地名の発生音に漢字を当てたわけである。そのとき地名を意味する漢字を当てれば問題はなかったのであるが、まったく別の漢字を当てることも少なくなかった。それが長い間に変化し、さらに見栄えのする文字や忌まわしい文字は縁起のよい文字に変えられたりした。この当て字が、地名の由来をますます困難なものにし、諸説が生まれる最大の原因となった。
 
さて、一口の地名語源については、多くの人たちを納得させるような説は現在ないといってよい。その理由は一口の地名解釈が、一口と書いてなぜ「 イモアライ 」と読むかということのみに関心と興味がもたれた結果、無理な解釈やこじつけ、さらには珍解釈が生じ、地名解釈をますます困難なものにしているといってよいであろう。
『久御山町史』には、推測の域をでないと断った上で「 巨椋池の地理的な要因からみて、そこで生計を営んだ漁師集団の発生と漁師の信仰形態にその謎を解く鍵があるように思える 」と述べている。 
『久御山町史』にいう「 謎を解く鍵 」とは一体何なのか。厚いベールに包まれた一口地名の謎」の箱を開けてみたいと思う。その前にまず、現在知ることのできる一ロについて、再度整理をしておく必要があろう。
一口の遺称地名は現在、東と西に分かれて久御山町の大字名として残っている。一口は鎌倉時代の文献史料にその名がみえ、近世にはよく「 淀一口 」とみえるが、中世史料には淀と一口は明らかに区別され、一口は淀とともに交通上・軍事上の要地であった。  一口の地名は、中世史料には「 芋洗 」あるいは「 一口 」の字が当てられ、近世にはもっぱら「一口」が用字として使用された。近世の史料である「 山城国久世郡御牧郷村名宮寺初記 」には「 一口村 」を「 ひとくち村 」と呼称し、近世の地誌類は一口が所在する地形から、一ロと呼ぶようになったとしている。  この一口(東一口)は巨椋池が干拓されるまでは、淡水漁業で生計をたてる漁村として発展してきた集落である。  漁業集落としての歴史は古く、「 漁師由緒抜書写 」などの史料から鳥羽法皇(1141〜56の間法皇)の綸旨(りんじ)を得て、「 東は津軽外の浜、西は櫓櫂(ろとう  櫓が漕けるところまで )の及ぶ所」まで漁業を行つことができる特権があったという伝承をもつ。そして一口の集落内には、弥陀次郎(みだじろう)伝説で有名な安養寺がある。
 
本尊の十一面観音立像は、同寺の縁起が記すように鎌倉時代の作と考えられ、巨椋池漁師にとって絶対の仏として、今日まで篤い信仰を集めてきた。以上が東一口の歴史的な歩みの一端である。  一口の地名起源を考える上で、重要となるものに巨椋池漁師がいる。中世において漁師たちは、どのようにみられていたのであろうか。
 
弥陀次郎が「 安養寺 本尊十一面観音像 」を淀川から引き上げた年、建久3年(1192)に亡くなった後白河法皇(1169〜92の問法皇)の編集とされる『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』巻第二の法文歌の中に、「 はかなきこの世を過ぐすとて海山稼ぐとせしほどに万の仏に疎まれて後生わが身をいかにせん 」と歌われている。「この世を過ぐすとて海山稼ぐ」とは、生活のために魚貝や鳥獣を捕る猟漁民のことをさす。
猟漁民は生業のためとはいえ、殺生を重ねている間に、多くの仏の非難するところとなり、来世においても救いがないというのである。もとより彼らがすべて殺生を好んでいたわけではない。はかないこの世を生きていくためには、海に山に稼がなければならなかった。ところが、殺生の罪により今生はともかく、来世の我が身はどんなつらい報いを受けることだろう。どうしたらよいだろうか、というのである。罪の自覚におののくこの嘆きは、彼ら自身の深刻な悩みであった。当時の人々が後生の救いを仏に求めた願いや、地獄に落ちるという恐怖は、現代人が考える以上に真剣なものであったに違いない。
 
それでは『 梁塵秘抄 』歌謡が歌うように、漁師たちは殺生戒などの罪業から、逃れることができなかったのだろうか。前に紹介した「 山城国久世郡御牧郷村名宮寺初記 」の相島(おじま)村の項に、「七瀬はらひ」(七瀬祓い)という興味深い記述がある。 七瀬祓いとは、七か所の瀬で祓いを行い災禍を流す儀礼のことで、その一つに相島がなっていたというのである。  二つの村の生業は異なるとはいえ一口にに隣接する相島村の伝承を参考にすると、「イモアライ」とは「 イミハライ 」( 斎祓い )の意であると考えてよい。 イモは汚穢(おわい)を避けて神に仕える イモイ・イマフ( 斎 )の変形であり、アライも同様に神に祈って禍(わざわい)をハラフ(祓う)が変形したものといえる。 そのイミハライの目的は、庖瘡の平癒や自然災害時の水神への祈りと考えるより、むしろ漁師の生業である殺生への罪を浄化させることにほかならなかったのではないだろうか。  そのための行法は禊(みそぎ)であったと思われる。 禊とは水中に潜って汚穢を洗い清めることで、今も神仏へ参詣する前に水で心身の汚れを清めたりする。 これを「沐浴(もくよく)」とか「水垢離(みずごり)を取る」と呼んでいるが、これも禊の一種である。かって東一口の本当座(ほんとうざ)では、最年長者が正月の三が日に 氏神である玉田神社へ社参する前、巨椋池に飛び込んで水行したというのも、恐らく汚穢を洗い清める禊の名残りであろう。
 
さらに『梁塵秘抄』の「 万の仏に疎まれて後生わが身をいかにせん 」という極めて悲観的な嘆きに対して、漁師たちはどのように考え行動したのであろうか。 殺生戒などの罪業により「万の仏に疎まれる」という中で、来世を何か特別なものにすがる必要があった。それが観音信仰であり、巨椋池漁師たちが絶対の仏とした安養寺の十一面観音であったと考えられる。この観音像は、巨椋池漁師があがめる元漁師の次郎(弥陀次郎)が網を打って引き上げた仏である。漁師たちにとって現世の利益( りやく 水難・火難・横死など十種の難をまぬがれる )と来世の往生(おうじょう)(無量寿国(むりょうじゅこく)への往生)を託せる観音信仰は、一筋の光明であったに違いない。  ただし、そのためには、我が身とともに生業の糧となった魚貝類の鎮魂が必要不可欠であった。
 
毎年8月10日、安養寺本堂の観音菩薩の前で行われる施餓鬼(せがき)には、二基の卒塔婆(そとば)が立てられる。一基は「万国の英霊、並びに東一口出身戦死病没者の英霊追善菩提」のためのもの。今一基は「開基以来の壇越、先亡新盆の諸精霊」と「羽毛鱗甲魚貝虫」を追善菩提するものである。この施餓鬼法要は一般的な法要ではない。法要は魚貝類などの回向(えこう)が重要視されて、人の追善菩提を弔(とむら)うより先に行われる。現在は安養寺で行われているが、かって巨椋池があったころは、魚市場の浜において営まれていた。
この宗教行事のもつ意味は大きい。時代の経過により、行事そのものは少しづつ形を変えてきたであろう。しかし、その信仰は巨椋池がなくなった現在も受け継がれている。多くの人々の犠牲となって、食される魚貝類の行く末を最も心配し、魚貝も自分たちとともに救われることを真剣に願ったのは漁師だけである。命を尊び魚貝もともに救われたいという漁師たちのみがもちうる敬虔(けいけん)な祈りが、この施餓鬼法要には込められているように思えてならない。
 
「イモアライ」の語源は、これまでみてきたように漁師の生業を浄化する「忌み清まる」、つまり「イミハライ」(斎祓い)から「イモアライ」という語に転説したものと考えることができる。このイモアライという発生音に漢字を当てると、「芋洗」となるのである。それでは「一口」と書いて、なぜイモアライと読むのであろうか。東西に弓なりに連なる西岸堤防(大池堤)上に集落が並ぶ東一ロは、巨椋池干拓以前には北・東・南の三方が巨椋池とその付属する池によって囲まれ、西の一方のみが宇治川の堤防に続いていた。集落への入口は一つであった。漢字の一ロは、まさにこの土地の立地状況を正確に表わしているといえる。前述した「 山城国久世郡御牧郷村名宮寺初記 」には、一口村を「ひとくち村」と読ませている。地名として土地を呼称する場合、「ヒトクチのイモアライ」と呼んだと思われる。もともとヒトクチは、地形の状況を表現する語であったものが、のちにヒトクチ(一ロ)と書いただけでイモアライと読ませるようになったと考えられる。
イモアライ(イミハライ)というこの五文字の中には、生業である漁業を縦糸に信仰を横糸として、現世を神に来世を仏に託した信仰心の篤い漁師たちの苦悩と、それにうちのめされない ?したたかな精神の躍動をみる思いがする。
 
 
この頁は、平成15年3月 「 久御山町教育委員会 」が発行された。「 巨椋池ものがたり 」の文中、第6章 習俗と伝承、第1節「 一口の地名とその伝承 」を 抜粋し乗せています。
 
後深草上皇院宣案
 
両一口の地名由来
御牧郷村名宮寺初記
 
阿弥陀三尊来迎図
(部分絵)
 
太田姫稲荷神社縁起
 
太田姫稲荷神社
 東一口の集落


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