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北フランスの古城と宮殿巡り (2004.8.7)
私にとってプライベートでは2000年夏のドイツ・オーストリア以来の二度目のヨーロッパ旅行です。プライベートといったのは、もう一回、1996年に仕事でドイツのデュッセルドルフとイタリアのミラノへ行ったことがあるからです。
2000年の時は、モーツァルトゆかりの地訪問ということで、ザルツブルクやウィーンを回ったのですが、今回は、モーツァルトとは関係なく、フランスのお城巡りということにしました。前回は銀婚旅行ということで夫婦二人でしたが、今回は娘を連れての三人の旅です。娘の目的は城巡りではなく、パリでの買い物なのですが。
時間の関係で、前回はツアーを利用しましたが、今回も同じ旅行社のツアーを利用しました。フランスの城巡りというものの、パリからあまり遠くへ行くのではなく、無理せずに回れるところに魅力を感じて、このツアーにしました。このツアーの名は、「魅せるフランス8日間」。
第1日 | 成田→パリ→ルーアン 全日空機 | ルーアン泊 |
第2日 | ルーアン→モン・サン・ミッシェル 午前ルーアン市内観光、午後モン・サン・ミッシェル | モン・サン・ミッシェル泊 |
第3日 | モン・サン・ミッシェル→ロワール地方 午前ロワールへ、午後ロワール古城観光・シュノンソー城 | トゥール泊 |
第4日 | ロワール地方→フォンテーヌブロー→パリ 午前ロワール古城観光・シャンボール城、フォンテーヌブロー宮殿、午後ルーブル美術館 | パリ泊 |
第5日 | ヴェルサイユ→シャルトル→パリ 午前ヴェルサイユ宮殿、午後シャトル・ノートルダム大聖堂、夕方セーヌクルーズ | パリ泊 |
第6日 | パリ滞在 午前市内見学、午後買い物 | パリ泊 |
第7〜8日 | パリ→成田 全日空機 | 機中泊 |
第1日(7月30日(金))成田→パリ→ルーアン
第一日目、成田空港で今回のツアー参加者と初顔合わせ。総勢25名!。結構な人数です。夫婦、家族連れ、女性の二人組、男性の二人組・・・。
添乗員は高島さん。とても感じよく気さくな男性。
今回の飛行機は前回と同じANA。私はANAが好きです。客室乗務員の女性は美しく礼儀正しいし、機内サービスは行き届いており、機内食もとてもおいしい・・・・のです。
11:30定刻通り成田空港を飛び立ったANAのジャンボ機は、台風10号の影響の為か、厚く立ちこめた雨雲を突き抜けて急上昇。水平飛行に入って14:00頃、機内のモニターテレビは、時速900キロ、高度9600メートルで、ハバロフスクの北150キロを飛行中と表示。いよいよ、しばし日本を離れて、八日間の旅の始まりです。「行ってまいりま〜す!!」。
眠っている間に、シベリア上空を飛行し、20:00には、もうフィンランド上空です。前回ドイツへ行ったときは、やや南のコースを通り、スカンジナヴィア半島をかすめてフランクフルトへ向かったのですが、今回は、少し北を通っているようです。
バルト海のボスニア湾、ストックホルムを経て、22:30北海をかすめてアムステルダムを時速870キロで通過、徐々に高度を下げて、
23:30、定刻通り、パリ、シャルル・ドゴール空港に着陸しました。現地時間は16:30。現在サマータイムですから日本より7時間遅いのです。腕時計を現地時間に替えました。
バスにて2時間、ノルマンディー地方の中心都市ルーアンへ向かいました。(ルーアン泊)
第2日(7月31日(土))ルーアン→モンサン・ミッシェル
ルーアンの街はセーヌ川を中心に広がっていますが、観光的な見所は旧市街にあたるセーヌ右岸に集中しています。
まず、ルーアンのノートルダム大聖堂に向かいました。フランス・ゴシック建築の一つで、12世紀に着工、16世紀に完成しました。ゴシックの装飾が美しい。
火災や戦争で絶え間なく修復されたという歴史があり、尖塔の高さは151メートルもあり、フランスで最高だそうです。
その中心が、19世紀に、印象派の画家モネが30点以上の作品を描いた、荘厳な尖塔を持つ大聖堂。モネは光の微妙な変化を捉えた連作に取組み、印象派の代表的な作品を残しました。
ルーアンのノートルダム大聖堂
ノルマンディー公国の首都として栄えたルーアンは、ローマ時代からセーヌ川を利用した水運の拠点として発展してきました。
現在もフランス有数の大都市として経済的にも重要な位置をしめているそうです。このルーアンで1431年にオルレアンの19歳の聖少女ジャンヌ・ダルクが火刑に処されました。火刑が行われたビュー・マルシェ広場には、ジャンヌ・ダルク協会とジャンヌ・ダルク博物館があります。毎年5月にはジャンヌ・ダルク祭が開催されているそうです。
また、この広場の周辺には、ノルマンディー地方特有の木組みの建物が並んでいました。。
美しい街並みのルーアンと木組みの建物
ここで小さなアクシデントが起きました。私達は、全員イヤフォンガイドを付けガイドの後についていったのですが、
ビュー・マルシェ広場からバスに戻る途中、私を含む後続の9名が、ガイドを見失ってしまったのです。
直進するFM波使用のイヤフォンガイドは角を曲がると聞こえなくなってしまい、曲がり角でガイドが曲がった方角がわからなく
なってしまったのです。9名はやむをえず、バスを降りた場所に引き返して待っていました。
数十分後、高島さんが引き返してきてくれて無事再会。一番肝を冷やしたのは、彼だったでしょう。何しろ、9名が一度に居なくなってしまったのですから。
このイヤフォンガイド、今後このようなアクシデントが起きないためにも、回り込める電波を使うなど、改善の余地がありそうです。
この後、通称ノルマンディー高速を西に約200キロ走り、モンサンミッシェルに向かいました。私たちが命を預けるバスの運転手はブルトさん。安全運転でお願いします。やや渋滞したものの、14:00頃、モンサンミッシェルに着きました。
フランスの西、ノルマンディとブルターニュの境にある陸続きの島、モンサンミッシェルの対岸はイギリスです。1708年に聖オベール司教が大天使ミカエルのお告げの夢を見たことにより、ここに修道院の設立を決意、以後、増改築をへて、現在の姿になったそうです。
ノルマンディーと言えば、第二次世界大戦の時に連合軍が上陸したことで有名ですが、ノルマンディーがいつも霧がかかって上陸作戦がドイツに見つかりにくいということで、ここが上陸地として選ばれたということです。
確かに、モンサンミッシェルは周囲は海に囲まれて自然の要塞になっています。中世には、対イギリスの要塞としての役割を担っており、この要塞は一度も戦いで敗れたことがないそうです。イギリスとの100年戦争でも不敗を誇っていました。潮の干満が10m以上もあって、しかも切り立った岩山になっているので、攻略は難しそうです。
潮が引いたときにのみ、この島に渡れるので多くの巡礼者が潮の引いたときに、この修道院に渡ったということです。しかし、潮の干満を知らないで、たくさんの人が流されてなくなったこともあるそうです。
モンサンミッシェル
第3日(8月1日(日))モンサン・ミッシェル→ロワール
ロワール地方は、フランスの果樹園とも呼ばれており、フルーツ生産が豊富です。ここには15世紀から16世紀の後半まで宮廷が置かれていました。
財力のある裕福な貴族達は競うように築城し、多くの城が誕生することになりました。
シェール川上に浮かぶシュノンソー城は、「6人の貴婦人の城」と呼ばれ、6人の女性が城主として君臨して来ました。シュノンソー城は庭が美しい事で有名で、ルネッサンスの珠玉の名城です。18世紀にはルソー、ヴォルテールらも集まる文学サロンにもなったそうです。城の内部はとても美しかった。
アンリ二世の愛人ディアーヌ・ポワティエはシュノンソー城を与えられ、王の寵愛を一身に受けたということです。
また正妻カトリーヌ・ド・メディシスは不幸な結婚生活を強いられていましたが、アンリ二世の没後
この城を強引に奪い、代わりにショーモン城を与えました。
シェノンソー城
シェノンソー城を後にし、宿泊地トゥールに向かいました。トゥールは、ローマ時代から栄えていた
ロワール河のほとりに広がる街で、16世紀末にはパリから王族が移り首都にもなったそうです。現在は、
古城巡りの拠点になっています。(トゥール泊)
第4日(8月2日(月))ロワール→フォンテーヌブロー→パリ
トゥールからシャンポール城に至る街道には、無数の城があります。
今日は、ロワールの古城巡りです。
まず、アンボワーズ城です。この城は「アンボワーズの陰謀」の舞台として知られ、
宗教戦争で数百人の新教徒が城壁から首をつられたり、河に投げ込まれたりしたそうです。
今回は時間の関係で、外観を見るだけでした。
アンポワーズ城
アンポワーズは、レオナルド・ダヴィンチが晩年を過ごした町でもあります。彼を招聘したフランソワ一世の期待に
応えるべく、ダヴィンチは、ここで城の設計などに没頭したそうです。
このほか、バスの中から、ショーモン城、ブロワ城、メナール城を見ることができました。
ショーモン城はディアーヌ・ポワティエがシュノンソー城と引き替えに与えられたものですが、
ディアーヌはこの城を気に入らず長くは住まなかったということです。
もう一つ、童話作家シャルル・ペローが、「眠り森の美女」のモデルにしたという、ユッセ城があります。
深い森に囲まれた白亜の建物はおとぎの舞台そのままの雰囲気ということですが、今回は、
コースに入っていませんでした。バレエ「眠りの森の美女」が大好きな私にとって、
このユッセ城が見れなかったのが、この旅行で最大の心残りでした。
シャンボール城は、16世紀にフランソワT世が国庫を投じて建築し、レオナルド・ダヴィンチの設計によるものと言われています。ロワールの城は2000にも上るそうですが、シャンボールはその中でも最大とのことで、大変美しい城でした。館内中央部の巨大な二重螺旋階段と天守閣は、世界遺産に指定されています。
シャンポール城
「フランスの島」を意味する「イル・ド・フランス」は、パリからほど近い郊外にあり、自然に囲まれて、かつては王族の狩猟地でした。フォンテーヌブロー、シャルトル、そしてヴェルサイユといった歴史的な構造物が見られます。
パリの南東から約65キロのフォンテーヌブローの森。この中に、ナポレオンT世がこよなく愛したというフォンテーヌブロー宮殿が建っています。宮殿は歴代の主により増改築が繰り返されたとのことで、フランソワT世がダヴィンチなどの芸術家を招いて建築したそうです。広間のフレスコ画は圧巻です。
フォンテーヌブロー宮殿
右下の絵の女性が城の名の由来の「フォンテーヌ」
フォンテーヌブロー宮殿を後にし、いよいよパリに入りました。まず、ルーブル美術館の見学です。名実ともに世界最大級のコレクションを誇るルーブル美術館は、広いと聞いていましたがその広さには唖然。
30万点もの作品が収蔵されているそうです。とても短時間で見られるものではありません。
でも、専門のガイドの説明で、ミロのビーナス、モナリザ等・・・、著名な作品を、効率よく素晴らしい至宝の数々を鑑賞できました。
ルーブル美術館とミロのヴィーナス
凱旋門とエッフェル塔は、言わずと知れたパリのシンボル。エトワール広場のロータリーの中心にある凱旋門は、1806年にナポレオンの提案で着工、1836年に完成した、高さ49.54m、幅44.82mという巨大な門です。壁面はナポレオンの戦いや義勇軍の出陣を描いた彫刻で飾られています。
鉄の女王エッフェル塔は、1889年のパリ万国博覧会を記念して建てられたそうです。
エッフェル塔と凱旋門
第5日(8月3日(火))ヴェルサイユ→シャルトル→パリ
フランス宮廷文化の黄金期を極めると言われるヴェルサイユ宮殿は、イル・ド・フランス観光の最大のポイントです。
王妃マリー・アントワネットゆかりのサロン、贅を尽くした「鏡の間」などを見学しました。この宮殿は、1919年にヴェルサイユ条約が調印されたところでもあるのです。
前回、ヴェルサイユ宮殿を真似て作ったというウィーンのシェーンブルン宮殿を見ましたが、
さすがに、ヴェルサイユ宮殿はスケールが違います。
4世紀半ばから聖地として栄えたシャルトル。この街とともに歩んできたのがシャルトル・ノートル・ダム大聖堂。大半は1194年の大火災後に作られたこともあり、ロマネスクとゴシック様式が混在しているのが興味深い。二つの塔は向かって左がゴシック様式の「新鐘塔」、右がロマネスク様式の「旧鐘塔」。
火災を免れたという、「シャルトル・ブルー」と呼ばれる青色のステンドグラスが素晴らしかった。
シャルトル・ノートルダム大聖堂
パリへ戻って夕食後、セーヌ川のナイトクルーズを楽しみました。自由の女神、ライトアップされたエッフェル塔など、約一時間の素敵な時を過ごしました。
第6日(8月4日(水))パリ
この日は一日中パリでのフリータイム。午前中は、添乗員の高島さんがモンマルトルの丘を案内してくれました。
本来、お休みなのに、私達に付き合って下さり、とても嬉しく思いました。
モンマルトルの丘からパリを見下ろすように立つ、サクレ・クール寺院は、普仏戦争の敗北によって亡くなった兵士や市民達
を悼み、フランスの明るい未来を希望して立てられたということです。
この近くのテルトル広場には、多くの画家達が絵を描いていました。
テルトル広場とサクレ・クール寺院
午後は、娘が待ちに待った買い物です。シャンゼリゼ通りから、モンテューニュ通りの専門店廻り。
シャネル、ビトン、プラダ・・・。それにしても、よく調べてきたものです。
私は財布を気にしながら娘のあとをついて回るだけでした。
シャンゼリゼ通りとオペラ座の中間に、マドレーヌ寺院があります。
マドレーヌ寺院は、ナポレオンがローマ・ギリシャ文化に陶酔していたこともあり、
パリでは珍しい古代ギリシャ風の神殿となっています。最近では、要人の葬儀もマドレーヌ寺院でおこなわれることが多いとのことです。
シャンゼリゼ通り〜凱旋門とマドレーヌ寺院
夕方、今回の観光の目当ての一つであった、パリオペラ座ガルニエ宮を見学。
この劇場、座席数は2200で、シャルル・ガルニエの設計で1862年に着工、13年もかかって1875年の完成だそうです。
現在オペラは、新しいオペラ座に移り、ガルニエはバレエを中心に公演しています。
1832年マリー・タリオーニは、この劇場で父フィリッポ・タリオーニの振り付けで、つま先で立って「ラ・シルフィード」を踊り、
ロマンティック・バレエの様式を確立、以後、このポアント技法はバレエの流れを決定づけたのです。また、ドガはこのパリ・オペラ座のバレリーナをモデルに、多数の絵を描きました。
ロンドンのミュージカル「オペラ座の怪人」は、この劇場を舞台に作られました。
パリオペラ座とマリー・タリオーニ
内部では、シャガールの天井画をはじめ豪華さに圧倒されましたが、劇場外の階段には多くの人がたむろしていて、
いつまでもたわむれていたくなるような、素敵な光景でした。
客席とシャガールの天井画
第7日(8月5日(木))パリ発
午前中は、荷造り後、再び娘の買い物をして、夕方シャルル・ドゴール空港へ向かいました。
飛行機は帰りもANA。20:00離陸。日本人客室乗務員のサービスでほっとしました。
パリ、成田間は、11時間。モニターテレビは、1000キロ前後で飛行中と表示。行きより、100キロほど速い。偏西風に乗って飛んでいるからでしょう。
22:00頃、コペンハーゲン上空を通過、遠くに美しい夕日を見ました。
第8日(8月6日(金))成田着
日本時間14:30、成田に無事つきました。今回も、前回のドイツ・オーストリア旅行とはまた違った、
自由・平等・博愛の精神、環境を大事にするフランス人の気持ちを感じることができました。
フランス人は気むずかしいと聞いていましたが、結構優しい。親切に我々を迎えてくれました。
皆、信号を守らないのには驚いたけれど、自動車の方が止まってくれます。
団体のスポーツは嫌い、釣りや狩猟が好きという個人主義・・・
生態保護のために橋を作るというモンサンミッシェル、モンサンミッシェルに向かう途中に見られた風力発電の風車、
カローラ並の小型乗用車、電柱のない美しい街並み、古いものを大切にする心・・・・・。
自給力130%、就業率90%という農業国フランス、日本も見習わなければならないところもありそうです。
ただ、意外だったのは、どこでもタバコが吸えるということ。
今回のツアーの皆さん、とても良い方で、楽しく旅を続けることができました。
添乗員の高島さん、とてもよく勉強されていて、適切な説明をして下さいましたし、フリータイムも同行して下さり、
本当に助かりました。フランス語はおろか英語すらろくに話せない私でしたが、それでもなんとか旅をすることができました。
来年は、オペラの聖地ミラノへ行こうと思っています。そして、いつかバレエの聖地サンクト・ペテルブルク・・・、夢は尽きません。
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