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瀕死の白鳥        (2001.7.1)

サンサーンスが旅行中、カーニバルに出会いました。 「動物の謝肉祭」は、この時、ふと思いついて、いろいろな動物が謝肉祭に戯れる様子を曲にしたものだそうです。 この中でひときわ有名なのが「白鳥」です。「白鳥」のバレエはフォーキンがマンドリンでこの曲を弾いていたとき、突然思い立って、アンナパブロヴァの為にこの曲を振付けたということです。 一羽の白鳥が怪我をして飛べなくなり、もがき苦しんで、力尽きて死んでしまうまでを、一人のバレリーナが表現するというものです。 パブロヴァは胸に赤い血のついたような衣装を着て踊ったそうです。 以降このバレエは「瀕死の白鳥」として親しまれています。 短い作品だけに、集中力が必要ですし、バレリーナの表現力と情緒性を試される至難な作品とされています。 その後、マカロワ、プリセッカヤ等のバレリーナが踊ってきました。
 
私がこの「瀕死の白鳥」を初めてみたのは、25年ほど前、プリセッカヤの踊りでした。 ボリショイバレエやレニングラードバレエのメンバーからなる一行によるバレエコンサートでした。プリセッカヤの腕は関節がないと思わせるほどしなやかに波打っていました。終盤なんとか立ち上がろうとしながら、ついに息絶えてしまう・・・・・。 短い作品ですが、死に至る白鳥の姿を表現するのは、単に踊るだけでなく、優れた演技力を必要とします。つまり、ダンサーであると同時に女優であることが必要なのだと思います。 このバレエは一人で踊られる地味なものであり、以前は日本のバレエ団のコンサートではあまり取り上げられませんでした。 パドドゥのように見栄えがしないし、地味な踊りのうえ高度な表現力を要求するのでバレリーナにも好まれなかったのでしょう。 でも、このバレエの良さが認識されてきて、最近、日本人バレリーナも踊るようになりました。私も、大塚礼子、酒井はな、草刈民代の「瀕死の白鳥」を見ました。
こんな中で、ネットで知り合った渡邊順子の「瀕死の白鳥」は、なかなかのものと思います。 彼女は、十年前と昨年とこの「瀕死の白鳥」を踊っていて、ともに映像が残されています。 私は昨年のものが特に好きです。本当に「死」を思わせる見事な「演技」だと思います。 しなやかに波打つ腕、神経の行き届いた指先の動き、正確なブーレ・・・。どれもとても美しい。「死に至る白鳥そのもの」と言っても言い過ぎではないでしょう。
 
彼女自身の話を交えて、渡邊順子の踊りについてもう少し話しましょう。 渡邊順子は最初19才の夏に「瀕死の白鳥」をプリセツカヤの叔母さんにあたるスラミフィー・メッセレルに振り付けを受けました。 彼女はその後ミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受け、帰国後日本を代表するバレリーナ谷桃子に、独特なアームスを学び、24才の冬に始めて「瀕死の白鳥」を踊りました。 渡邊順子は、結婚してバレエを止めていましたが、10年ぶりに「瀕死の白鳥」を踊りました。 このとき、ビデオを見たメッセレルは、渡邊順子のアームスの素晴らしさを絶賛したそうです。
 
「瀕死の白鳥」という作品は一見簡単なそうに見えますが、渡邊順子の師である谷桃子でさえ、 あの作品は『パ・ド・ブレを踏むのが大変だった』と言われたほど難しい踊りなのです。 最初に踊ったとき、渡邊順子にとって感情表現を入れて踊る事はさして難しい事ではなく、彼女が簡単そうに「瀕死」を踊ったので、 谷桃子から「貴方には簡単な踊りかもしれないけれど・・・」と注意を受けたということです。 しかし10年ぶりに「瀕死の白鳥」を踊った時、渡邊順子は、本を読んだり、アンナ・パブロワやプリセッカヤの「瀕死の白鳥」の映像を見たり、日本舞踊の「鷺娘」などさまざまな踊りを見たりして、「死」んでゆく白鳥の姿を作り上げようと、徹底的に研究をされたとのことです。

渡邊順子がまだ独身でプロのバレリーナを目指していた1991年、結婚してバレエからとから遠ざかっていた彼女が奮起してステージに立った2000年、この2つビデオを見比べて、私は、渡邊順子の「心の成長」を感じました。 プリセッカヤがそうだったように、この「瀕死の白鳥」は、年齢とともに深みが出てくると言われています。 渡邊順子が次にこの「瀕死」を踊るときは、さらに深い表現になっているに違い有りません。楽しみです。 この2つの映像は私の大切な宝物の一つです。

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