井上バレエ団の「眠りの森の美女」を見て来ました。井上バレエ団のある世田谷は東京の高級住宅地。そのせいか団員には、おっとりとして垢抜けした、穢れを知らないいかにも良家のお嬢さんといった感じの人が多い。前身は故、井上博文氏結成の「井上博文バレエ小劇場」。博文氏の好みで団員は当時女性だけだったそうですが、現在もその傾向が残っていて男性は僅か。そのせいか、他のバレエ団にはない、細やかで繊細な雰囲気です。「井上博文バレエ小劇場」からの生い立ちによるのか、奥ゆかしさ、品のよさが自然に滲み出てくるようで、小劇場なりの良さが感じられます。だからと言って、年二回開かれる公演は、お嬢さん芸のおさらい会といったようなものではなく、プロのバレエ団として、少しの妥協も許さず、一糸乱れぬ群舞やステージの細部までまで行き届いた、中身の濃い本格的なものなのです。テクニックを重視する他のバレエ団とは違う魅力があります。ダンサーは、小柄な人が多く、贅を尽くした東京バレエ団や新国立劇場バレエ団等のステージと比べるとのスケールは小さいのですが、身近な親しみやすさのようなものを感じ、私は好きです。
井上バレエ団には二人のプリマが居ます。藤井直子さんと島田衣子さんです。今回も、この二人が主役を務める予定でした。私は島田さんのオーロラ姫は二回ほど見たことがあるのですが、藤井直子さんのそれは見たことがありません。そこで今回は藤井さん出演の日のチケットを買いました。
藤井さんが、オーロラ姫という古典バレエで最も難しいと言われる役を、どのように演じてくれるか、幾分不安を感じながらも、とても楽しみでした。
ところが、劇場に入って唖然としました。「藤井直子は怪我のため出演できず、オーロラは島田衣子」。
本番直前のリハーサルで怪我をしてしまったそうで、藤井さんファンとしては残念ですが、バレエ団の機関誌「アマリリス」によると、
「藤井直子さんは、大好きなオーロラ姫にかけていた」だけに、一番がっかりしているのは、藤井さん本人でしょう。
でも、代わりに踊った島田衣子さんは、過去にも増して素晴らしく、この舞台は大いに楽しめました。
第1幕、花のワルツが終わって、島田衣子さんの登場。軽やかな靴音と共にステージ中央に進み出た島田さん。「細そーい!!!」と、客席がどよめきました。リラの精をはじめ妖精たちが、幾分ふっくらとしたダンサーだっただけに、一層細く見えたのでしょう。
ふんわりした長袖のピンクのチュチュがよく似合って、お人形さんといった感じです。一斉に注がれた観客の視線に一瞬びっくりして立ちすくんだようでしたが、すぐに笑顔を見せて軽やかに踊っていました。
小柄で華奢で、といってもぎすぎすした感じではなく、やわらかな腕に、むしろ温かみを感じます。手の表情、力の入れ加減、抜き加減・・・は、テクニックを誇示するような派手さはみじんもなく、とても品の良い感じでした。
ひとしきり踊って、ローズアダージョ。4人の見合相手を紹介されて、「どうしたらいいのかしら」と母の王妃のところへ駆け寄る姿は何とも可愛らしい。母に促されて最大の見せ場「ローズアダージョ」。クラシックバレエで最も難しいと言われている難所です。出だしのアチチュードのバランスは、しっかりアンオーまで手を挙げて見事でした。
終盤のアチチュー・アン・プロムナード。ポアントのアチチュードで立ったままグルッと一回りした後、支えの手を離すという、超至難な技。かって吉岡美佳さをが「知らず知らずに腕に力が入りバランスをとりにくくなってしまう」(クララ)と言っていたほど、ダンサーの緊張がピークに達する場面です。島田さん、それまでの笑顔が消えて険しい表情。二人目を手を離した途端、大きくグラリ。あわや・・・、島田さんの顔色が変わりました。とっさに次の王子の手に掴まり事なきを得たものの、見ている方もハッと息を呑みました。
でも、このようなハラハラ・ドキドキ・・・こそ、ローズアダージョの魅力だと思います。はりつめた緊張の中、触ったら壊れそうなガラスのような今にも崩れそうなバランス。佐々木涼子さんが、「バレエの宇宙」の中で、「必ずしもしっかりバランスを決める必要はないのだ。不安定な心もとなさこそ、オーロラの初々しいさを示すもので、プティパもそれをねらっていたのだ」と、また故葦原英了氏が、「デンと立っているのは美しくない。今にも倒れそうな『不安定の安定』こそ美しい」と言っていましたが、その通りだと思います。
今回の島田衣子さんのバランスは、まさに手に汗握る「不安定の安定」の美。上野水香が、長いバランスをいともたやすく決めるの技術は凄いと思いますが、ただそれだけのこと。デリカシーのかけらもなく、むしろ、わざとらしさが鼻についてしまいます。古典バレエは芸術ですから、曲芸のような技を誇示する必要はないのです。
踊り終わってのレベランス。島田衣子さん、大きな拍手に迎えられて、いかにもホッとした様子。明るい笑顔が戻りました。どっと疲れが出たのか、背中には、汗が吹き出していました。
難関ローズアダージョを終えて、島田さん、緊張がほぐれたのか、バリエーションでは笑顔が美しく伸び伸びとした踊りでした。難しい3度のピルエットも手堅くクリア。技術の確かさを見せました。カラボスの毒針に刺されて倒れる場面の迫力はもう一歩でしたが、「大丈夫よ!、心配しないで!」と言いながら力尽きてしまうような可愛らしい演技。倒れて仰向けに横たわった衣子さん。ここでも汗にまみれて胸がキラキラ輝いていた彼女。ハァーハァーという息づかいが聞こえるくらいでした。
第2幕王子の登場。オーロラ姫の幻影に出会う場面です。王子のエマニュエル・ティボーは、パリオペラ座プルミエダンスール。当初出演が予定されていたロイヤルバレエ団プリンシパルのティアゴ・ソアレスが怪我のため出演が出来なくなり、急遽の代役。まだ若いダンサーですが、代役とはいえ実に丁寧に島田衣子さんをサポートして、とても好感を持ちました。島田衣子さんは、王子と巡り合えた嬉しさを体全体で表現し、王子でなくとも、うっとりしてしまうだろう思うくらい美しい幻の王女でした。
全体幕を通じて、衣子さんが最も輝いたのは、この場面だったと思います。幻影ということで、オーロラを片手でサポートしたり、ティボーは大変ですが、さすがオペラ座で鍛えられたダンサー、思いやりを感じさせる的確なサポートでした。
島田衣子さんは、可憐なのですが決してにこやかではない、美しいのにどこか満たされないといった感じの表情が何とも言えず良かった。こういうさじ加減は前回にはなかったものです。彼女の成長の証拠でしょう。
そしてそれを追うエマニュエル・ティボーの、どこか切なさそうでも温かみが感じられる表情に引き付けられました。
第3幕、オーロラと王子のグランパドドゥ。最後の見せ場。島田衣子さんもティボーも丁寧に踊っていましたが、結婚式の場面ということで、衣子さんは終始、笑顔を絶やさないように努めているようでしたが、やや疲れが感じました。小柄で華奢な島田衣子さん、「眠り・・・」全幕を踊り切るには体力的に相当辛かったに違いありません。ここでも汗が光り、改めて、オーロラ姫を全幕通して踊り切るのは大変な事だと痛感しました。
それにしても、このパドドゥは、本当に美しかった。二人の息はピッタリ。微笑ましさを感じました。島田衣子さんは、高く足を上げたりせず、ややテクニックに物足りなさを感じたところもありましたが、ミスもなく手堅くまとめたことは賞讃すべきでしょう。でも島田衣子さん、このパドドゥでは、可愛らしい過ぎて、もう少し妻になる女性の大人っぽさがあってもよかったと思います。
この井上バレエ団の「眠りの森の美女」は、プロローグと第二幕から、物語の流れを損なわない程度に、いくつかの場面のカットしていたものの、ほとんど完全に近い全幕の上演。東京バレエ団のように、二幕をばっさり切り捨ててしまうような演出と違い、「幻想の場」もしっかり入っています。私は、「眠り・・・」は、オーロラ姫の成長記録ですから、「幻想の場」カットは疑問に思います。「ローズアダージョ」の初々しい少女は、「幻想の場」で恋を知り、第三幕のパドドゥで妻となるので、物語の進行に従って、主役の感情も高まっていくわけで、やはり「幻想の場」をカットしない演出が本来の姿だと思います。 逆に、主役にとっては、出ずっぱりで、長丁場の過酷なマラソンのようなもの。あまりはじめにハッスルしてしまうと、終わりでバテてしまうので、力の配分がとても大変です。
島田衣子さんも最後にやや疲れも感じさせました。無理もないと思います。また、プロローグと第一幕、第二幕と第三幕の間に休憩を入れず、一気に続けた演出は良かったと思います。王子によって目を覚まされたオーロラ姫が、そのまま、結婚式に入っていく・・・というわけで、物語の流れがとまらなくて良かった。
ただ、主役をはじめ、コールドバレエのダンサーの靴音がやや大きく耳障りでした。音を立てずに踊るよう心がけて欲しいものです。
ピーター・ファーマーの美術は,幻想的でたいへん美しくて、とても良かったと思いますし、堤俊作指揮、ロイヤルメトロポリタン管弦楽団も頑張っていましたが、肝心のローズアダージョの途中でヴァイオリンが音を外したのは頂けません。
島田衣子さんが極度に緊張しているのに、オーケストラが音が外しては、ダンサーに気の毒です。
プロローグも、3幕の結婚式のシーンもとても綺麗でした。リラの精を初めとして妖精達、青い鳥、長靴を履いた猫、も赤ずきんちゃん・・・、みんな衣装が上品でかわいらしく、とても気持ちの良いバレエでした。
それにしても、藤井直子さんの怪我が心配。早く良くなって元気な姿を見せて欲しい。そして、今度こそ、オーロラ姫を踊ってくれることを願ってやみません。
井上バレエ「眠りの森の美女」
オーロラ姫:島田衣子、デジレ王子:エマニュエル・ティボー
リラの精:小絵美子、カラボッス 金田和洋
青い鳥に魅せられた王女:田中りな、青い鳥:江本拓
芸術監督・振付: 関 直人、美術・衣裳:ピーター・ファーマー
演奏:堤俊作指揮、 ロイヤルメトロポリタン管弦楽団
2007年7月22日(日)東京五反田「ゆうぽうと」
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