「アラベスクもアチチードも決まらなくて、見るからに下手な踊りでした。」、
2005年6月、JUNさんこと渡邊順子さんは落ち込んでいました。
絶対の自信を持っていたアラベスクのバランスが思うように決まらなかった・・・。「彼女は立ち直れるのだろうか」と心配でした。
でも、それから1ヶ月後、血のにじむような努力の結果、まさに、死に至らんとしていた白鳥は、不死鳥のように蘇りました。
そして、今回の舞台に備え、順子さんは、来る日も来る日も稽古を重ね、毎日納得いくまで踊り込みました。
その結果、本番の日、ご自身の最高の「瀕死」、いや世界中のトップダンサーにも負けないと思うくらい素晴らしい「白鳥」を踊りました。
2007年2月、目黒パーシモンホールでの踊りです。
渡邊順子さんは、今回のステージを控え、ことのほか意気込んでいました。「目黒のレベルは高い。観客の眼は厳しい。」と、
レッスンの時間も増やし、今までの自分のビデオを繰り返し見て欠点を直し、日頃のバレエの教えの最中にも体を動かし・・・、バレエ浸けの日々だったようです。
どんなに努力したか、順子さんから本番前日に頂いたメールから推測できます。
「まだまだ、私にとって『瀕死の白鳥』は未完成。ビデオを見ながら、今年は『渡邊順子の瀕死』を踊ると決意しています。
頑張って頑張って・・・、最後には観客が応援したくなる『瀕死』を踊ります。
最後まで懸命に頑張り続ける『白鳥』は、私の本当の生き方の表現。
だんだん本性を暴露できる『瀕死』を踊れるようになったように思います。
2004年は可愛らしい『瀕死』、 2006年は貫禄が出てきた『瀕死』、そして2007年は?・・・、明日本番で〜す。頑張りま〜す!!!。」
「頑張って頑張って・・・、最後には観客が応援したくなる『瀕死』」とは?、ファンとして期待がふくらみました。
そして本番の舞台。「失敗したら、おしまい。」、かつての先生、順子さんと同じバレエ教師、彼女の教え子などが見守る中、彼女は今までにないプレッシャーを感じたようです。
「1992年のバレエコンクール以来の緊張でした。」と彼女。
出を待つ間、脚の震えが止まらないほどの緊張だったのでしょう、出だしのブーレにはやや硬さが見られましたし、表情もこわばっていました。
けれども、長年踊り込んできた「瀕死の白鳥」、彼女は絶対の自信を持っていました。
しだいに、自分を取り戻して、プレッシャーをはねのけて、全編を力一杯踊り抜きました。立派です。
波打つアームス、細やかなブーレの美しさはため息の出るくらい。
自慢の「黄金の甲」は一層磨きがかかり、トゥからスッと立ち上がるまろやかなラインは「芸術品の輝き」、絶品でした。
アームスとブーレに関する限り、非の打ち所のない、完璧な踊りでした。
それにいつもはバランスは2回なのに、今回は、初めの方に、まず3回入れました。ただ、この3回はやや足の高さが十分といえず、彼女の本来の踊りとは言えなかったようです。
終盤近く、力尽きて倒れこんだ瀕死の白鳥。最後の力を振り絞ってもう一度立ち上がったものの、足元は定まらず、息も絶え絶えに、もがき苦しみ、再び倒れ込む白鳥。背中には汗が光り、順子さん、迫真の演技でした。
もう一度立ち上がったところで、彼女は意を決して、4回目のアラベスクのバランスに挑戦。今度は足も十分と上がり、ビシッと決めて見事でした。
彼女が目指した「頑張って頑張って、・・・、最後に観客が応援したくなる『瀕死』」はこれなんだ・・・と思いました。
今回の順子さんの踊りは、本当に凄かった。おそらく表現力では今までで最高だったと思います。「瀕死の白鳥」の集大成とも言える踊りでした。
彼女自身も「うまくいった!!」と納得したのでしょう、踊り終わってのレヴェランス、客席からの大きな拍手を受けた順子さん、今まで見たことのない、会心の笑みでした。
でも順子さんの踊りがどんなに素晴らしくても、もっともっと素晴らしくなって欲しいと思うのはファンの心理であり願いです。
そこで敢えてわがままを言わせてもらいますが、
見せ場のアラベスク、4回も挑戦し、最後は手堅く決めたものの、そこでバランスをもう少し長く頑張って欲しかった。
「クラシックバレエはバランス」とシルビー・ギエムが言ったとおり、倒れそうで倒れない、ハラハラと手に汗握るバランスにこそ、
「瞬間の芸術」と言われるバレエの美しさがあります。
万有引力に逆らって、グッと堪えて長〜いバランスを決めて、「流石でしょ」と微笑む順子さんが見たい。
彼女は才能もさることながら、努力の人です。きっといつか、ファンの願いを叶えてくれるに違いありません。
バレエコンクールと同じぐらいの緊張の舞台、
「『刺激ある舞台』でした。また目黒で踊りたいと思います!!!。」と順子さん。
彼女は、新たな「刺激」を受けて、また一歩、成長したのです。
そして、「2月に踊った『瀕死』でもう完璧な「瀕死の白鳥」が出来上がったとはまだ思いたくない。 これからも渡邉順子の『瀕死』」は進化し続けていきたい。」 最後に彼女は言いました。「あと20年は『瀕死の白鳥』を踊り続けます。山口さんも、渡邊順子の『瀕死』を見るたび元気になって・・・、あと20年見続けて下さい」。
本当に渡邊順子さんの舞台は、私に勇気と明日への活力を与えてくれるのです。あと20年、いや彼女が踊ってくれる限り、彼女のステージを見続けたいと思います。
4月は神奈川県民ホールの舞台。「神奈川県民ホールの『瀕死の白鳥』はもっと頑張りたい。」と順子さん。
「頑張って頑張って・・・、思わず観客の拍手を誘う究極のバランス」が楽しみです。
また新たな「刺激」を求めて、彼女の挑戦が始まっています。
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今回は2分22秒と短い「瀕死の白鳥」の曲を使用しました。ぎゅと凝縮された中に新しい「瀕死の白鳥」を作り上げることができました。
今回の振り付けは1991年に踊った「瀕死の白鳥」の振り付けに少し変化を入れ仕上げました。実は初めて踊った頃の振り付けにやっと戻ることができたのです。
一度地べたにつき、アチチュードで立ち上がる振り付けの部分を最後の振りに持っていって、3歩、歩いて息絶えると言う解釈に変えてみました。
1991年に踊り始めた「瀕死の白鳥」の振り付けが一番の基本。しかし、音楽の長さやその時の足の状態や体調の良し悪しで少しづつ振り付けを変えて踊ってきました。
振り付けを変えた足が痛く、トゥで立つのも大変だったのが2005年7月に関内ホールで踊った「瀕死の白鳥」です。
1991年に踊った「瀕死の白鳥」・92年に踊った「瀕死の白鳥」の振り付けはその時点で違っていましたが、
2000年〜今もずっと踊り続けている「瀕死の白鳥」も同じ「瀕死の白鳥」の振り付けで踊ったことはありません。
2006年の「瀕死の白鳥」は本田美奈子さんの歌入りの音楽を使用し、ここまで遊び心を入れて踊れると言うほど踊ることに余裕がでてきました。
これは2005年に足を怪我したお陰です。2006年にバレエ台本を書く事に初挑戦し「孤独の歳月・白鳥」と言う新しいバレエの振り付けにも挑戦することもできました。
2007年の4月の神奈川県民ホールの舞台は去年、関内ホールで初演した「孤独の歳月・白鳥」の2曲の曲を使用し、また新しい舞を舞います。
今まで私が一人でコツコツと作り上げてきた作品を発表できると思っています。
絵描きが絵を描くように、私は「瀕死の白鳥」を大きな舞台と言う画用紙に描き続けています。その時、その時、一生懸命に舞い続けています。
踊りも絵と同じように書き続けることが大切だと思います。
今年はやっと念願のグリシコ・ワガノワのトゥシューズを履いて踊ることができました。夢が叶うには時間がかかります。
でも夢が叶うとまた、次の夢を持ちたくなるものです。次の夢はあと20年踊リ続けることです。これからも応援し続けてください。
JUNバレエスクール 渡邉順子
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