小林紀子バレエシアターは、2002年で創立30周年を迎え、この年には、記念公演として、「ジゼル」、「二羽の鳩」、「くるみ割り人形」といった作品を上演し、楽しませてくれました。
創立者の小林紀子は、夫の小林功と、小林紀子バレエシアターで、鋭意後進の指導にあたっていますが、
まだまだ現役で踊れる脂ののりきった若さで引退し、当時、とても惜しまれたものでした。
当時の雑誌に彼女の言葉が載っています。「ひとつのバレエ団を持ち動かしていきことは、それだけで大変な仕事なのです。それと若い人たちを育てるということ、それも確かなメソードで一貫してやらないと意味がない。それやこれや、自分が踊っていたのではとても・・・・」(音楽の友社:バレエの本、1984.11)
私は小林紀子の踊りが大好きで、幾度も公演を見に行きました。 その中で特に印象に残っているのは、「眠りの森の美女」と「ジゼル」ですが、「眠り・・・」について紹介します。
小林紀子自身、とても「眠り・・・」がお好きなようで、幾度も踊っていますが、私は三度見しました。1度目は1971年頃の日本バレエ協会公演で、
小林紀子/小林功、森下洋子/法村牧緒というダブルキャストで踊られた時のもの、2度目が今回ご紹介する1972年7月、東京シティバレエ団の公演で踊ったもの、
最後は、数年後、小林紀子バレエシアターの時代に踊ったものです。
3つ目の公演は堂々たるもので、1978年に芸術祭芸術大賞も貰われた見事な踊りでしたが、私が深く印象に残っているのは初めの二つです。
小林紀子は、高校を卒業したばかりの1961年ロイヤルバレエへ留学、63年全英コンクール一位を土産に帰国、
谷桃子バレエ団で踊っていましたが、「眠り・・・」の一回目は、この頃です。
この時は16歳のオーロラ姫そのものというような初々しさでしたが、「眠り・・」全幕初挑戦ということで、やはり1幕は、緊張がひしひしと伝わってくる感じて、なんとか無事踊り終えたという感じでした。
2幕・3幕と進むにつれて良くなっていったのですが、なんとなく物足りなさを感じたのも事実です。
でも、観客は、とても愛らしい小林紀子に暖かい拍手を惜しみなく贈っていましたし、他の出演者の好演も手伝って、なかなか良い舞台だったと記憶しています。
その後、小林紀子は東京シティバレエ団創立に参加、ほどなく独立して1973年に夫の小林功と小林紀子バレエシアターを設立したのですが、
その直前、東京シティ・バレエ団で踊った2回目の「眠り・・・」が、最も記憶に残っています。
1942年生まれの彼女はこのときの30歳。第1幕は初々しく、2幕3幕は優雅で気品に満ちて、本当に美しいオーロラ姫でした。
「オーロラの出」で「眠り・・・」の価値は決まると言われますが、日本人離れしたスラッとした美しいプロポーション(当時の資料で163cm,47kg)の彼女が、
にこやかな笑顔を浮かべて小走りに出てきた姿は、パット花が咲いたようで、本当に素敵なオーロラだなと思いました。
小林紀子は、決してテクニックを誇示するようなことをせず、むしろ控えめな抑制した感じの踊りなのですが、とても丁寧で気品があり、見終わって爽やかな余韻が残った本当に素敵なオーロラ姫だったのです。
ロイヤルバレエで勉強した成果が生かされているのでしょう。どこかマーゴ・フォンティーンの踊りに通じるようなところがあるように思いました。
その後の「小林紀子バレエ・シアター」のバレエ団としての雰囲気にも、これを感じます。
お目当てのローズ・アダージョのバランス。それまでの小林紀子の笑顔が一転、険しい表情になりました。彼女の緊張が客席にまで、ひしひしと伝わってきました。
男性に掴まった右腕がギクギク揺れて、なかなか手を離せない。「離せるかな?、離せるかな?」と固唾を呑んで見ていたところ、
恐る恐る、それでも意を決して手を離した・・・。「アッ離せた!!」と思わず席から身を乗り出して見つめました。
ポアントで立った右足の足首が小刻みに震え、必死に揺れを堪えながらも、腕をアンオーまで高々と挙げたのは偉い。そこで歯を食いしばってグッと堪えてバランス・・・。時間が止まったようで息を呑んだ瞬間でした。
「いいぞ、いいぞ!!、堪えて、堪えて!!」と、握り締めた手に汗がにじんだのを覚えています。
この場面、サポーターから手を離して横滑りするだけで精一杯というベテランのバレリーナも多い中、アンオーまで手を挙げてしっかり静止できたのは偉い。血の滲むような稽古の成果でしょう。
この後、今までうつむき加減だった顔をすっと上げて、ほんのり笑みを浮かべてから、ゆっくり手を下ろし、サポートの男性の手を握ったのです。
死力を尽くして至難な技を成し遂げた小林紀子、何と素晴らしいバレリーナでしょう。体全体から溢れ出る気品に溢れ、この世のものとも思えぬ、高貴なまでの美しさに、私は、瞬きすら忘れて見入っていました。
その後、ローズアダージョ最大の難関、最後のアチチュード・アン・プロムナードも無事クリアーして、フィニッシュ。
ホッとした彼女の笑顔は、なんとも言えず美しく、私はわれを忘れて拍手をしていました。これほど興奮したのは、それまでも、それ以降もありません。
小林紀子のバランスは、最近の一部のダンサーに見られるような、
ビクともしない、超長時間のものではなく、男性陣の手を頼りにしたハラハラ、ドキドキと手に汗握るものでした。
けれどもこれが、倒れそうでいて倒れない彫刻のような「不安定の安定」の美を醸し出していました。
批評家の佐々木涼子が「オーロラ姫にしても、なにも、完璧にバランスを保つ必要はないのだ。一人で立っていられない心許なさこそが、オーロラ姫の初々しさを強調しているのだから。そもそもそれが、本来の振り付けの意図だったのではないだろうか」(文春新書:バレエの宇宙)と書いておられますが、紀子さんの踊りには、本当に、この「心許なさの中の初々しさ」という表現がふさわしいように思います。
小林紀子は、公演後に出演したテレビ番組で、故葦原英了氏にローズアダージョの難しさについて訪ねられて、
「ローズアダージョは、パドゥドゥと違って、4人の男性と組むのですが、4人のサポートの仕方が様々で・・・バランスをとるのが難しい・・」と言いかけ、
口ごもった彼女に代わって、夫の小林功氏が「4人の男性達は、それぞれクセがあるので、サポートを受ける女性は、これに合わせなくてはならず、他の作品にはない難しさを感じるのではないでしょうか」という助け船を出し、
この言葉に、大きく頷いていたのが印象的でした。
そういえば、最近、「ルドルフ・ヌレエフの世界」というビデオで、パリ・オペラ座のエリザベート・プラテルが、「『ローズ・アダージョ』には極度の集中力とテクニックが要求されます。オーロラは慎み深く無邪気で可憐でなければなりません。一人の男性と踊るパドドゥと違って、四人の男性と踊るのですから、バランスをとるのがものすごく大変です。四人の王子の手を順にとりながらアチチュードのバランスをとるところはもっとも集中しなければなりません。どこに意識を集中するかは相手によって違います。軸足の時もあるしあげている足の時もあります。相手役もいろいろで、助けようとしてくれる人もいれば、近寄ってくる人もいます。中には突き放す人もいます、だから自分がしっかりしていなければだめなんです」と「ローズアダージョ」のバランスの難しさを語っていました。
第一幕での16歳の王女の初々しさ、第二幕幻想の場で王子の心に映った幻のもつ神秘性や叙情性を見事に表現された小林紀子は、満ち足りた花嫁の一点の曇りもない晴れがましさと成熟を、第三幕パ・ド・ドゥによって披露しました。夫の小林功との息はぴったり、愛し合っている夫婦の幸せ一杯の姫の気持ちを全身で表現した、ほおえましい踊りでした。
ただ、日本人女性としては背の高い小林紀子を十分にリードするには、小林功はやや背が低く、小林紀子を支えるのに苦労していたようだったのを覚えています。
二夜連続のこの公演、私は、初日に見に行ったのですが、どうしても小林紀子の踊りをもう一度観たくなり、翌日も劇場に足を運びました。
二日目も、ローズアダージョでは、手に汗握って、興奮したのを覚えています。後にも先にも、二日続けて、同じステージを見たのはこれだけです。
それほど、プレッシャーと戦いながら必死にステージを務めていた小林紀子の姿は、感動的だったのです。
小林紀子の組織された「小林紀子バレエシアター」からは、下村由理恵、草刈民代と言った、トップスターが育っています。
このバレエ団はダンス・クラシックにこだわっていて、現代物をほとんど手がけないようなのですが、この生き方に、私は好感をもっています。
なまじ現代物を手がけるより、純粋にバレエの原点に返って古典を追求してこそ、クラシック・バレエの良さである、上品さ、優雅さを保ち続けられると思うのです。
今でも、小林紀子がもう少し長く踊っていたら、もっともっと素敵な踊りが見れたに違いないと思うことがありますが、
一方、早く辞めて、後進を育ててくれたからこそ、下村由理恵のような素晴らしいバレリーナが生まれたようにも思います。
ともあれ、小林紀子は、日本を代表する最高に魅力的なバレリーナの一人だったに違い有りません。
1972年7月31日,8月1日
東京シティバレエ団公演、東京文化会館
演出:有馬五郎、振付:小林功
オーロラ姫:小林紀子 、デジレ王子:小林 功 、カラボス:石井清子
指揮:若杉弘、演奏:NHK交響楽団
|
|