今や伝説的になってしまったマーゴ・フォンティーン。 フォンティーンは、1991年パナマで亡くなりました。72歳でした。
私が大切にしているものの一つに「マーゴ・フォンティーン・ストーリー」というレーザーディスクがあります。 これは、パナマ大使であった彼女の夫がなくなる少し前、マーゴが自分の踊りを交えながら、子供の頃からの自分の生涯を振り返っているものです。
英国のテレビで放映されたものをビデオ化したようです。
バレエを習い始めた4歳のころのことから、彼女のバレエ人生やプライベートの生活が語られていきます。
とても興味深いのは、その時々に当時のマーゴの踊りが挿入されていることです。
1937年:ロバート・ヘルプマンと初共演のジゼル
1937年:テレビでのソロ
1937年:アシュトン振り付けのファサード
1957年:眠りの森の美女からローズ・アダージョ
1962年:ヌレエフと初共演のジゼル
1966年:アシュトン振付の水の精オンディーヌ
1966年:マクミラン振付でヌレエフとのロミオとジュリエット
1966年:ヌレエフとの白鳥の湖
1979年:60歳記念公演アシュトン振付のサルー・ダモール
といった具合に、珍しい映像が次々に出てきます。
どれも素敵ですが、ことさら「ローズアダージョ」は魅力的です。モノクロですが、30代半ばのマーゴ絶頂期の映像で、目当てのバランスでは、まるでトウの先に根がはえたように微動だにしません。時間が止まったようでハッと息を呑みます。
こわばった表情で必死にバランスをとっているバレリーナもいる中、フォンティーンは終始柔和な笑顔を崩しません。バランスに絶対の自信を持っているからでしょう。
また、振り付け師フレディリック・アシュトン、ロイヤルバレエの創始者ニネット・ド・ヴァロワ、マーゴのパートナーだったロバート・ヘルプマン、そしてルドルフ・ヌレエフが彼女について語っています。この映像が撮られた当時(LDの発売が1989年ですから、それより数年前と思われます)、マーゴはパナマで銃弾で半身不随になった夫、元パナマ大使のロベルトと引退生活を送っていました。
その後、夫が死に、彼を追うようにしてマーゴも帰らぬ人となりました。
英国の生んだ世紀のバレリーナ、マーゴ・フォンティーンが、彼女自身の口で、彼女の人生を語った、貴重な映像で私の大切な宝物の一つです。
このレーザーディスクの中でマーゴ自身や彼女を取り囲む人たちが語っている言葉を二三挙げてみます。
○アシュトン:(オンディーヌについて)彼女自身の独創力の賜。だから説得力がある。マーゴ自身、オンディーヌは大好きと言っています。
○ヌレエフ:彼女が教えてくれたのはプロ意識。自分に厳しい人で妥協を許さない。家族の一員とも言うべき、かけがえのない人です。
○マーゴ:(ヌレエフについて)彼は23歳、私は42歳。23対42のペアなんて見苦しい。でも私が踊らなければ、誰かが彼と踊ってしまう。勇気を振り絞って踊りました。お互いにしのぎを削って、高めあいました。
ケネス・マクミランは、(パコダの王子の振付に際し)「彼女の頭が首の上に座るさま、肩に首が座るさま、絶妙な身のこなし、華のある音楽性・・・。単に技術という意味では、オーロラを踊った優れたダンサーは枚挙にいとまはないが、彼女ほど理想的なオーロラを表現した人は今日まで出現していない。」と言っていますが、超一流の振付師にここまで言わせるほど、マーゴ・フォンティーンは素晴らしいバレリーナだったといえるのでしょう。
幸運にも、私は彼女の「生」のオーロラ姫を見ることができたました。
それは、1973年の夏。マーゴは東京バレエ団の「眠りの森の美女」公演でオーロラ姫を踊りました。
当時マーゴは既に50歳を越えていましたが、とてもそんな歳には見えず、本当に可愛らしく素敵なオーロラ姫でした。ローズアダージョのビクともしない長いバランスには、観客は総立ちになりました。デジレ王子役は当時まだ20台の永田幹文さん。かなり緊張の様子でした。 若い永田幹文さんにしてみれば、マーゴと踊れるというだけでコチコチになってしまったのも無理もないと思います。
でもマーゴは、そんな永田さんを優しくリードして、二人でとても息のあったパ・ド・ドゥを見せてくれました。マーゴの自信から、自然に出てきた優しさなのでしょう。さすが英国の至宝と言われるバレリーナと思ったものです。
今は無き、不世出のバレリーナ、マーゴ・フォンティーンの踊りを直に見ることが出来た私は、バレエファンとして、最高に幸せ者だと思っています。
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ところで、この映像が最近DVD化されて発売されました。ただし、米国(REGION1)向けのディスクで、日本の通常のDVDプレーヤーでは再生できません。日本向け(REGION2)のディスクが発売されることを期待しています。
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