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モーツァルト:交響曲第31番「パリ」   (2008.7.06)
 フランスで作られたモーツァルトの作品 (3)

モーツァルトは、1777年から1778年にかけて、マンハイムからパリに旅行をしました。同伴した母が病死したり、マンハイムで思いを寄せたアロイジア・ウェーバー(後に妻となるコンスタンツェ・ウェーバーの姉)に失恋したり、決して幸福な旅行ではなかったようですが、その反面、以降のウィーン時代に向けて、実りのある旅でもあったようです。
モーツァルトの母
アンナ・マリア・ベルトウル
(1720〜1778)
モーツァルトの熱愛相手
アロイジア・ウェーバー
(1760〜1830)
モーツァルトの妻
コンスタンツェ・ウェーバー
(1762〜1842)
「ピアノに向かうモーツァルト」
(アロイジアの夫ランゲ画)

暗いことが多かったパリで、数少ない明るい話題は、モーツァルトの交響曲第31番ニ長調k297が演奏され、好評を博したことでした。この明るく力強いシンフォニーは、「パリ・シンフォニー」と呼ばれています。 「パリ・シンフォニー」は、モーツァルトがパリ滞在中に、パリの演奏団体コンセール・スピリチュエル支配人ジョセフ・ル・グロから依頼を受けて作曲したものとされています。直前に訪れたマンハイムの優れたオーケストラを意識して書かれたためか楽器編成も大きく、最初にクラリネットを用いた作品としても有名です。 交響曲でのクラリネットの使用やクラリネット協奏曲の作曲など、クラリネットの発展にモーツアルトは大きな功績を残すことになるのですが、モーツァルトは、この時期にマンハイムでクラリネットに親しみ、この楽器に愛着を深めたと言われています。この曲に「パリ」というニックネームの付いているのは、単に「パリ」で作曲したから、というだけの理由だそうです。 この作品は、モーツァルトとしては異例なほど推敲を重ねた上に、ル・グロの注文により第2楽章を書き直すという過程を経て完成し、1778年6月18日のコンセール・スピリチュエルの演奏会で初演され、大成功を収めました。

なお、演奏会場となったコンセール・スピリチェルは、ルーブル美術館とコンコルド広場のあいだの現在はチェイルリー庭園となっているチェイルリー宮殿にありました。モーツアルトは客席で聴衆の反応を窺っていたそうです。惜しいことに、チェイルリー宮殿は、1871年にパリ・コミューンにより焼失してしまったそうです。
また、大成功に終わった演奏会の日、モーツァルトは嬉しさのあまり演奏会を最後まで聴かずに会場を飛び出し、当時パリで最もにぎわっていた広場、パレ・ロワイヤルに行き、ここで大好物のアイスクリームにひとり舌鼓をうったとのことです。 モーツァルトは久々に自信を取り戻し、この直後に父に宛てて書いたと言われる手紙には、大喝采を受けた喜びがあふれています。 「ちょうど第一楽章の真ん中に受けるに違いないとわかっていた部分がありました。聴衆はみんな夢中になって喝采でした。僕はもう嬉しくて交響曲が終わるとパレ・ロワイヤルに行っておいしいアイスクリームを食べました。」     
パレ・ロワイヤルは、ルーブル美術館の北側のすぐ近くにあり、もともと、国王の相談役リシュリュー枢機卿が当時の一流建築家ルメルシエに命じて造らせた自らの宮殿でしたが、 枢機卿の死後はルイ13世に譲られ、王妃が息子の(将来のルイ14世)と移り住んだことからパレ・ロワイヤル(王宮)と称されるようになったそうです。 その後、リシュリュー時代の建物は取り壊されましたが、18世紀後半に庭園を囲む回廊が造られ、住居や店舗として活用されました。
パレ・ロワイヤル

モーツァルト:交響曲第31番ニ長調k297「パリ」
 第1楽章 アレグロ・アッサイ ニ長調 4分の4拍子 ソナタ形式
 第2楽章 アンダンテ ト長調 8分の6拍子 展開部を欠くソナタ形式
  (ル・グロの注文で書き直した第2稿:アンダンテ ト長調4分の3拍子ソナタ形式)
 第3楽章 アレグロ ニ長調 2分の2拍子 ソナタ形式

私のレコードコレクション
 @カール・ベーム指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団(LP)
 Aフランス・ブリュッヘン指揮18世紀管弦楽団(CD)
 Bネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セントマーチン・インザフィールズ(CD)
 Cクリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団(CD)

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