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ドイツ・オーストリアの旅        (2000.08.25)

2000年8月5日から8日間、ヨーロッパ旅行に行ってきました!!
 
今回は結婚25周年の銀婚旅行だったのですが、「モーツァルトのゆかりの地を訪ねる」という、私のわがままを押し通してのドイツ・オーストリア旅行でした。
 
私がもっとも「好き」な作曲家が「W.A.Mozart」。
彼を好きになって30年。「いつか彼の生誕の地へ訪れたい」、これが夢でした。
この夢がとうとう叶う時が来たのです。
 
今回のツアーの名称は「ロマンチック街道とザルツブルグ・ウィーン8日間」。
ほとんどの行程がモーツァルトゆかりの地であるというところが憎い。モーツァルト生誕の地ザルツブルク、音楽の都ウィーンはもちろんのこと、子供の時旅をした、フランクフルトやハイデルベルク・・・
最初に降り立つフランクフルトでは、モーツァルトは7歳のときにピアノを弾いているし、一日目のハイデルベルクの教会でもオルガンを弾いているのです。また、ドナウ河クルーズで下船するクレムスは、モーツァルト研究家ケッフェルの生まれた街なのです。
ツアーでなければとてもこういう日程は組めないでしょう。
 

 
8月5日(第1日目:出発の日)
成田エクスプレスで成田空港へ。
円をマルクやシリングに両替したり、今回のツアー参加者と初顔合わせをしたりしました。
今回のツアーは総勢16名!。結構な人数です。女性の二人組、夫婦、家族連れ・・・等様々で計6組。
添乗員は橋本さん。とても気さくで感じの良い素敵な女性。ガイドよろしくお願いいたします。
モーツァルト好きはいるかな、と思いながら飛行機に乗り込みました。目指すはドイツ・フランクフルト「ライン・マイン空港」!!。約8,700qの空の旅です。

搭乗のフランクフルト行き全日空機
ANAのジャンボ機は、13:30定刻成田空港を飛び立ち、真夏の積乱雲を突き抜けて水平飛行に。そこには青空が広がっていました。雲の間に見える日本とは、しばしのお別れです。
 
機内のモニターテレビは、パバロフスク上空を高度10700m、時速900qで飛行中と表示。雲の切れ目には、広大な大地が見えます。ロシアに入ったのです。
 

日本時間23:00、現地時間16:00、ヘルシンキの近くを通過。眼下にバルト海が広がります。フランクフルトはもうすぐです。
 

途中で機内食を2度とり、日本を発って11時間。フランクフルトについたのは午後6時過ぎでした。 現在サマータイムですから日本より7時間遅いのです。用意していた現地時間の腕時計に替えました。
空港からバスに揺られて1時間、宿のあるハイデルベルクに到着。ハイデルベルクはゲーテをはじめ、詩人や芸術家に愛された街です。
少しずつ日が傾きはじめたのくらいなのに、もう8時過ぎ!!。ヨーロッパの夏は、日が長いのです。
               (ハイデルブルクのクイーンズホテル泊)

8月6日 (第2日目:ハイデルベルク〜ローテンブルク)
(ハイデルベルク城カールテオドール橋〜学生牢〜ハイデルベルク大学を観光)。
ハイデルベルクは「学生の街」として知られています。1368年創立のハイデルベルク大学。この大学、すでにノーベル賞受賞者を7人も輩出して いる名門です。
学生牢も見てきました。風紀を乱す学生を監禁したが、学生達はむしろ牢にいれられることを誇りに思っていたと言われています。
ハイデルベルク城は赤色砂岩、薔薇色のお城で、約400年かけて築かれ、完成して間もなく身内の争いで廃城となったという歴史を持つ城です。さまざまな建築様式を見ることができるし、戦争の傷跡も生々しく残っていて、その傷跡がまた芸術的です。 世界最大のワインの大樽が圧巻でした。

ハイデルベルク城
ハイデルベルク城からネッカー川、カールテオドール橋の眺めは絵はがきのように美しく最高です。

ネッカー河とカールテオドール橋
 
ハイデルベルクを後にし、ローテンブルクに向かいます。古城街道、アウトバーンを通って約二時間のバスの旅でした。
私たちが命を預けるバスの運転手は、ムスタファ、トルコ人の青年です。とても人が良さそうで、添乗員の橋本さんと良く気が合っているようでした。安全運転でお願いします。
(聖ヤコブ教会〜マルクト広場〜ブルク公園を観光。)
聖ヤコブ教会の礼拝堂は、ステンドグラスが美しく、大パイプオルガンが壮観です。また、二階にある木彫りの最後の晩餐も見事です。
                   

聖ヤコブ教会(外観・礼拝堂・木彫りの最後の晩餐)

ドイツ・オーストリアには「burg」が語尾につく街が数多く存在します。この「burg」とは「城塞」のこと。ローテンブルクの旧市街も高い城壁に囲まれています。
また、城壁の中の家々はぴったりとくっついて建てられています。万が一、城壁が破られても、家並みが第二、第三の城壁となって街を守るよう 当時の人たちの知恵なのです。
この街のマルクト広場にある時計台は、可愛らしい仕掛け時計になっています。
         

マルクト広場
                     (ローテンベルクのライヒツ・キュッヘンマイスター・ホテル泊)

 
8月7日 (第3日目:ローテンブルク〜バイエルン州)
(リンダーホフ城〜ノイシュヴァーンシュタイン城観光。)
リンダーホフ城はベルサイユ宮殿を模した美しい庭園を持つお城です。人間嫌いの王は「ビーナスの洞窟」で金の小舟を浮かべ白鳥に餌をやって過ごしたということです。

リンダーホフ城
ローゼンベルクを出て3時間バスはアウトバーンをバイエルン州に向けて走ります。アウトバーンは速度無制限。でもバスは安全運転、といっても時速120qです。
ノイシュヴァーンシュタイン城へ向かう手前にアマガウオーバー村へ立ち寄りました。
この村の家々の壁画はとても美しいのです。今年は10年に一度のキリスト受難劇の行われる年。村は大勢の人たちでにぎわっていました。

アマガウオーバー村の壁画
またヴィース教会へも立ち寄りました。この教会はロココ風の建物。室内の天井画が素晴らしいのです。ヴィース教会を行程に取り入れているツアーは少ないし、近々内部は非公開になるとのことで、私たちは大変ラッキーだったと言えるでしょう。
         

ヴィース教会

ノイシュヴァーンシュタイン城は、東京ディズニーランド・シンデレラ城のモデルとなった美しいお城です。この城を建てた時のバイエルン王ルードヴィッヒUは、ワーグナーの大ファンで、彼のパトロンとなり国庫を彼につぎ込んだり、ワーグナーと引き離されたあとは城を造ることに専念し、またもや国庫を浪費し始めたために大臣たちに「狂人」とされ、ついにはシュタンベルク湖で謎の水死となってしまったのです。
城内はワーグナーのオペラのモチーフがそこかしこに見られます。ルードヴィッヒUはこの城の建設に17年の歳月をかけたのですが、完成を見ずに死んでしまいました。
         

ノイシュヴァーンシュタイン城
絶壁に架かる吊り橋「マリエン橋」からの眺めが最高です。
この吊り橋まで行かないと、この景色は拝めません。まったくこのお城はなんて所に建っているのでしょう。また、ルードヴィヒ二世がいかにロマンチックな王であったかは、この城を訪ねれば疑う余地がありません。
この城は小高い山の上に聳えています。 その麓、もう一つの小さな岡の上にもう一つ黄色い城があります。 ルードヴィヒ二世の父親マクシミリアン二世が立てたホーエンシュヴァンガウ城です。 ルードヴィヒ二世はこの城の窓から、ノイシュバインシュタイン城が建っていくのを見守っていたとのことです。
   
   

        ホーエンシュヴァンガウ城 と ルードヴィヒ二世
 

フッセンはオーストリア国境に近い美しい街です。
この辺にくると、「こんにちは」はオーストリア方言のグリュスゴッド(神のご加護を)となるそうです。
フッセンのホテルはすぐ一杯になってしまうので、私達がここに泊まれるたのは非常にラッキーなのだそうです。
                  (フュッセン近郊のルイホルドパークホテル泊)

8月8日(第4日:バイエルン州〜ザルツブルク)
 
ヘレンキームゼー城は、キーム湖の小島にあり、オリエンタル文化の影響を受けた豪華な宮殿です。
ルードヴィヒ2世が最初に建てたお城です。室内の調度品や、ベルサイユ宮殿を模した室内は目を見張るものがあります。リンダーホフ城のように金ぴかではなく、しっとりとしていて好感が持てました。

ヘレンキームゼー城
 

午後、ドイツから国境を越えてオーストリア入りをしました。目的地はザルツブルク。モーツァルト生誕の地です。
 
国境を越えるのは簡単。EUに統合されてからヨーロッパはパスポートなしで行き来できるのです。 バスにオーストリアを走って良いというステッカーを張るだけです。ただし、通貨は、まだユーロで統一されておらず、シリングに両替をする必要があります。
高速道路を走り、見えてきたザルツブルク。モーツァルトはザルツブルクで生まれ、この地で才能を開花させました。ザルツァッハ河が流れ、ホーエンザルツブルク城がそびえ立つ美しい街です。
この旅行の私の最大の目的地が、このザルツブルクです。
         
ザルツァッハ河とホーエンザルツブルク城
 

<モーツァルト生家〜ゲトライデガッセ〜大聖堂〜レジデンツ広場〜ミラベル宮殿>
中央を流れるのはザルツァッハ河。ザルツとは「塩」、ブルクとは「城」のこと。ここザルツブルクは 塩の交易で栄えた街です。塩は高価だったため、街は潤い、ローマから直接大司教が派遣され、この地を 統治したとのこと。
         

ホーエンザルツブルク城
シュターツ橋をわたって旧市街に向かいました。8月はザルツブルクは音楽祭の真っ最中。たくさんの観光客が訪れています。
市街に入って、黄色い家が視界に飛び込んできました。夢にまで見た、モーツァルトの生家でした。
         

モーツァルトの生家
モーツァルトの生家は観光客で一杯。モーツァルトが晩年使用したピアノ。モーツァルトの直筆譜。 ここで、モーツァルトは生まれたのです。
この家で、モーツァルトは誰からも教えられずに4歳でバイオリンを弾き、姉ナンネルのピアノを耳で聞いてたちまち弾きこなしたのです。彼の音楽は この家なくしては生まれ得なかったに違いありません。
 
モーツァルトの生家を出てから、大聖堂や祝祭劇場を観光し、レジデンツ広場に立ち寄ってから旧市街を抜けてミラベル宮殿に 向かいました。
       

大聖堂と祝祭劇場
映画「サウンドオブミュージック」でも有名になったザルツブルク。
「サウンドオブミュージック」の「ドレミの歌」の舞台にもなったのがここミラベル宮殿です。噴水の向こうにはホーエンサルツブルク城が見えます。ドレミの階段、ドレミのトンネル・・・、マリアと子供達の歌声が聞こえてくるようでした。

ミラベル宮殿(右)「ドレミの歌」の映画の場面
 
このあと夕食をし、このミラベル宮殿での室内楽の演奏会に行きました。
まさか演奏会に行けるとは思ってもみなかったのですが、現地のガイドさんの思わぬ心遣いにより、切符を手に入れることが出来たのです。
曲目はモーツァルト:ヴァイオリンソナタ 25番 ト長調 K.301
    ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ 第2番 ハ短調 OP.30
    フランク:ヴァイオリンソナタ 第2番 イ長調
    演奏は、Luz LESKOWITZ(Violine)、Vassily LOBANOV(Klavier)
最高の思い出になりました。
                        (ザルツブルクのルネッサンスホテル泊)

8月9日(第5日:ザルツカンマーグート〜ウィーン)
 
<ザルツカンマーグート観光>
ミュージカル「サウンドオブミュージック」の舞台となったのが、ザルツブルクとザルツカンマーグート。ザルツカンマーグートは、ザルツブルクからバスで1時間程行った山間にある美しい場所。マリアがオープニングで歌った場所です。山々の間からヘリコプターを急降下させたところにマリア(ジュリー・アンドリュース)が立っていて、これを大写しするという方法で、幾度も撮り直しをしたそうです。
パノラマ写真のような景色が えんえんと続いています。

ザルツカンマーグートとサウンド・オブ・ミュージックの画面
 
その後、モント湖を眺めてザンクトヴォルフガンク湖に向かいました。ここでは、有名な「カイザーヴィラ」を観て、近くで昼食をとりました。 「カイザーヴィラ」は、ザルツカンマーグトの中心の街、バート・イシュルにあります。 19世紀、ハプスブルク家最後の皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世が、 皇后エリザベートのために建てた、夏の別荘です。
この辺りは、高い塩分を含む温泉があり皇帝や貴族の保養地でした。 フランツ・ヨーゼフも両親が、ここで温泉療養をしていた時に、 授かった子どもだといわれており、彼もここがお気に入りで、よく訪れたといわれています。
カイザー・ヴィラの中には、フランツ・ヨーゼフ1世 の愛用品など当時の生活を垣間見ることができます。

カイザーヴィラとエリザベート(愛称シシ)
 

後ろ髪引かれる思いでザルツブルクを後にしました。
ドナウクルーズへ向かう途中、川岸近くのメルク修道院に立ち寄りました。
メルク修道院の礼拝堂のドームは巨大です。

メルク修道院
このあと、約2時間のドナウクルーズをしてウィーンに向かいました。
両岸には、シェーンビューエル城、デュルンシュタインなどの古城が見られます。
船を下りたところは、クレムス。モーツァルト研究家ケッフェルの故郷です。ゴシック、ルネッサンス、バロックの美しい町並みは「ドナウのローテンブルク」と呼ばれています。

クレムス
 
今日訪れるウィーンも私にとっては憧れの街です。モーツァルトを知ってから、この街に一度は訪れたいと思っていました。
 
モーツァルト、ベートーベン、シューベルト・・・。多くの偉大な作曲家がここに暮らし、多くの音楽家がここで生まれました。音楽の都、ウィーン。古今東西、西洋音楽を志す者の全てが憧れる街です。
市庁舎地下の「ラートハウスケラー」でウィーナー・シュニツェル(ウィーン風カツレツ)の夕食。
 
夕食後、宿泊予定のホテルへ行ったところで、トラブルが発生しました。
予定されていたホテルの予約がとれていなかったのです。
ホテルとウィーンの旅行社との間の連絡漏れが原因でした。
でも何とか近くのホテルが確保され無事泊まることができました。
気の毒なのは、矢面に立たされた添乗員さん。でも、橋本さんは落ち着いて適切に処理してくれました。お若いのにとてもしっかりした方で、大したものです。
                        (ウィーンのカントリホテル泊)

8月10日(第6日:ウィーン)
 
<ヨハンシュトラウス像、シュテファン寺院、カプツィーナ教会、シェンブルン宮殿、美術史美術館、シェーンブルン・コンサート>
ウィーンにはたくさんの偉人たちの像があります。ゲーテ、ベートーベン、モーツァルト、シューベルト、ヨハンシュトラウス。そして、多くの天才、英雄たちがハプスブルク家のお膝元で大活躍しました。
         

ヨハンシュトラウス像と、自然史博物館
マリアテレジアは夫フランツシュテファンと恋愛結婚をしたのですが、フランツは最初からよそ者扱いにされ、 結局マリアテレジアがハプスブルク家を継ぎました。彼女の娘の一人に、有名なフランス王妃マリーアントワネットがいます。モーツァルトは6歳の時にシェーンブルン宮殿で、彼女の前で演奏をしています。彼は女帝の膝に乗って、さんざん首にキスをしたということです。
マリーアントワネットが、宮殿内ですべって転んだモーツァルトを助け起こした時、モーツァルトはマリーアントワネットに「お礼にぼくのお嫁さんにしてあげる!」と言ったとか。真実かどうかわからないけれど、いかにもモーツァルトらしいエピソードです。
 
ウイーンのシンボル「シュテファン寺院」は、1276年に建てられ、1433年に高さ136.7メートルの塔が完成しました。
モーツアルトは1782年8月4日に、父の承諾が得られないまま、このシュテファン教会でコンスタンツエと結婚式を挙げました。 すでに母親は亡くなっていましたが、父レオポルドはこの結婚には猛反対だったとのことです。
モ−ツアルトは、1791年12月5日午前0時55分ウイ−ンの自宅で死亡しましたが,葬儀は12月6日または7日(?)に,コンスタンツエと結婚式を挙げたと同じこのシュテファン教会の脇の屋外で行われました。
         

シュテファン寺院
カプツィナー教会は1632年に建てられたカプツィン派修道会の 教会で、1633年からはハプスブルグ家の墓所として使われて きました。マティアス帝からフランツ・ヨーゼフまでの ほとんどの棺がここに収められています。 この皇帝の地下納骨所をカイザーグルフトといい、 138人ものハプスブルグ一族の遺体が収まっています。 ここに入っていない皇帝は1637年に死亡してグラーツに埋葬された フェルディナント2世と、ハプスブルグ家の最後の皇帝となった カール1世だけです。カール1世は1922年にマディラで 死亡し、彼の地に葬られました。 大きな比翼の合同棺にはマリア・テレジアとその夫である フランツ・シュテファンが一緒に納まっており、また一角には フランツ・ヨーゼフとエリーザベト、ルードルフのの棺が 三つ並んで置かれています。 ハプスブルグの皇帝は、心臓はアウグスティナー教会、 内蔵はシュテファン寺院に安置され、棺はカプツィナー教会という ように分散保管されているとのことです。

カプツィーナ教会

ウィーンの街の真ん中には、「ウィーン国立歌劇場」があります。世界のオペラファン・バレエファンたちの夢の殿堂です。
1869年、モーツァルトの「ドンジョバンニ」でこけら落としが行われ、第二次大戦で崩壊したが1955年に造り直されてベーム指揮による ベートーベン「フィデリオ」で息を吹き返したのです。
このオペラ座、夏は休業なのです。お隣のザルツブルク音楽祭に演奏家がこぞっていってしまうからです。

ウィーン国立歌劇場
女帝マリア・テレジアによって大幅に改修された シェーンブルン宮殿、マリー・アントワネットもここで、育ちました。悲劇の皇妃エリザベートもウィーン滞在中は この宮殿にいました。 贅をこらした内装には、思わずため息が出てしまいます。
シェーンブルン宮殿は外観は黄色だが、これは金色だとお金がかかるというのでマリアテレジアが黄色にさせたということで「マリアテレジア色」と呼ばれています。

シェーンブルン宮殿
 
 夜にはシェーンブルン宮殿のコンサートに行きました。モーツァルトとヨハンシュトラウス演奏、オペラのアリアあり、バレエありと肩の凝らない演奏会。楽しんできました。
こんな音楽会が毎日開かれているのです。羨ましい限りです。
                        (ウィーンのフォーラムホテル泊)

8月11日(第7日:帰路)
 
ドイツ・オーストリアの旅も今日が最終日です。
帰路の飛行機はオーストリア航空のA-340/200。行きのジャンボよりこじんまりして、むしろ親しみが沸きます。オーストリア航空のステュワーデスは真っ赤なユニホーム。ANAのスチュアーデスが乗っているので、ドイツ語の出来ない私も安心でした。
機内のバックグラウンドミュージックはヨハンシュトラウスのワルツ。やはりオーストリアですね。

オーストリア航空A-340/200
13:30離陸、ウィーン〜成田間は、8,900q。行きの成田〜フランクフルトより長いのですが、偏西風に押されるので、ほぼ同じ時間で飛べるのです。機内モニターを見ると、時速950q。やはり行きより、少し速いようです。
 
                                 (機内泊)

8月12日(第7日:日本着)
飛行機の中で1泊し、4:40頃、シベリアの終端、バイカル湖近くの上空で遠くに日の出を見ました。私の席は進行方向左側だったので常に北極の方向を見ていたことになり、機外はずっと昼でした。

シベリアの日の出
「モーツァルトにじかに触れてくる」をメインテーマと定めて出発した今回の旅。自分なりにモーツァルトに出会えてこれたような気がします。
日本に近づくに連れ、私の頭の中の音楽も、モーツァルトとウィンナワルツから、日本の曲に変わりました。
8:30分、定刻通り、成田着
ただいま!!。
無事戻ってきました。

今回のツアーは16名でしたが、皆さんととても良い方で、楽しく旅を続けることができました。
ドイツ語はおろか英語すらろくに話せない私でしたが、それでもなんとか旅をすることができました。
 
ドイツ・オーストリアとも、いろいろと感心させられた国でした。
自動車のアイドリング完全ストップに代表される環境重視、ゴミの少ない街角、ゴミの完全分別、電線のない街角、トロリーバスや路面電車という無公害交通機関、宣伝の看板がない街角、古い物を大切にする心・・・
日本も大いに学ぶべきところがあるように思います。


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