1998年頃から、私が歩いているのを後ろから見た人に「お尻が曲がっている」という指摘をうけることが多くなりました。特に痛みなどはなく自分自身ではまっすぐにしているつもりだったのですが、右側の尻がつり上がって後ろから見ると身体が腰のところで逆「く」の字型に曲がっていたそうです。(この状態を、自虐的に「尻曲がりケツ之助」と称していました・・・笑)
あまりに頻繁に指摘されるので、隣町の総合病院の整形外科を受診し調べてもらったものの、そこでは特に異常は見つからず、痛み止めの薬をもらったくらいで終わりました。
その後お尻が曲がっているのを見かねた友人が、広島市内に腕の良い医者がいるので一度診てもらったらと勧められたので、東城から2時間ほど自家用車を運転して広島市中区の大田クリニック整形外科を訪れました。
大田クリニック整形外科のO先生(←イニシャルにする意味がないですが・・・苦笑)にこれまでの経過を説明し、腰をX線撮影した上腰部に注射したりして経過を見ましたが、特に改善は見られませんでした。
さらにO先生の指示で、医師会の検査センターに行って腰部をCT撮影して詳細に調べてもらったのですが、ここでも特に異常は見つかりませんでした。
長年の腰痛症から自然に痛めた部分をかばう姿勢になったのではないかということで、痛みもないし一度に元には戻らないだろうからと、腰に骨盤ベルトを巻いて腰痛予防体操をしながら徐々に矯正していくことになりました。
その後も、腰に負担がかかる作業の後に軽い腰痛にかかりながらも、とくに症状の進行も改善もなかったので、普通に生活しておりました。
日が経つに連れて左脚のしびれと痛みがだんだんと強くなってきましたので、仕事を休んで自家用車を運転して、久々に大田クリニック整形外科に受診しました。
とりあえず、O先生に痛み止めの注射をうってもらい薬をもらって1週間経過を見ることになりましたが、翌週になっても痛みが退かなかったので再度受診した際、一度MRIで腰部を撮影してみようということになり、次の金曜日にMRI検査設備がある他の病院へ行った後、撮影したものをもらって来るよう指示を受けました。
その後も左脚の痛みとしびれはさらにひどくなってきて、立ち仕事もできなくなり、自宅から歩いてわずか数分の勤務先に歩いていくのも困難となりましたので、自家用車で勤務先に通わなければならない状態になってしまいました。
幸いなことに左脚に体重がかからない座った状態では余り痛みを感じなかったので、MRI検査を水曜日に早めてもらい、左脚を使わないAT車の自家用車を運転して午前MRI検査を受けに行き、その結果を持って足を引きずりながら午後O先生のところへ行きました。
O先生は、MRI検査の写真を見るやいなや「ひどい椎間板ヘルニアを発症している。これはすぐに入院しないといけない。」と言われてびっくり。MRI写真を見ながら状況を説明してもらいました。
右の写真は、私の身体を縦方向に切断した状態のMRI写真です。(パワーザウルスのデジカメカードで撮影。こんなものまで撮影してしまうワタシっていったい・・・笑)
上側が背中で、その下にごつごつした背骨と腰椎が写っており、腰椎と腰椎の間のクッションの役割を果たしているのが椎間板です。
矢印のところで椎間板が突出しており、背骨と腰椎との間を通っているお尻から脚に行く神経を刺激しているのがわかります。私の場合は、左に行く神経が刺激されていたので、左脚にしびれや痛みが出ていたのでした。
左の写真は、突出している椎間板の部分を横方向に輪切りにした状態のMRI写真です。
右側が背中で次に背骨があり、その左側の椎間板の矢印の部分がぽっこりと出っ張っているのがはっきりわかります。背骨と椎間板の間に神経の束が通っているのですが、これだけ椎間板が出っ張っていると相当神経が刺激を受けているとのことでした。
これだけの出っ張りがあると、もう手術して切除するしか方法がないだろうと言われました。
あまりに突然の入院宣告で私が呆然としている間に、O先生はてきぱきと入院の手配をしていました。医師会名簿らしきものをめくりながら、「県北にはなかなかいい先生がいないなぁ。まあわざわざ広島市内まで来ているんだから、入院も広島市内でしなさい。」と言われましたので、私は「はぁ・・・」としか答えられませんでした。
O先生がすぐに先方の医師に電話をかけて入院可能であることを確認している間、診察室から出て待合室で待っていると、紹介状とMRI写真の入った大きな封筒を手渡しながら、「入院の手配ができたので、これを持って明日10時までに広島鉄道病院の整形外科に行き、そのまま入院して下さい。」と言われました。
こりゃエライことになったと大田クリニック整形外科を出て、自家用車を飛ばして東城に引き返すころには、午後3時くらいになっていました。
このまま急いで帰っても東城に着くのは勤務先の終業時刻の午後5時を過ぎてしまうので、途中のサービスエリアのISDN公衆電話からパワーザウルスのFAX送信機能を使って、緊急入院しなければならなくなった事情を上のMRI写真付きで、勤務先・自宅・明日入院先まで連れていってもらう兄宅に送信しておきました。(パワーザウルスがこんなことに役立つとは・・・)
東城に着くとまず勤務先に寄って、残業していた人に事情を説明するとともに、自分の仕事に関係する他の事業所に緊急入院のため当分不在となる旨のFAXを一斉送信した上で、帰宅しました。
帰宅すると家族が入院に必要なものを一通り用意してくれていたので、荷造りをして明日に備えました。もちろん、自分のホームページの掲示板にも、MRI写真付きで報告したのは言うまでもありません。(笑)
病院玄関からちょっと離れた場所に車を駐車をしたのですが、車を降りて歩くたびに左脚に激痛がはしり、10歩ほどよたよた歩いては立ち止まって痛みが収まるのを待ちまた歩くといった状態を繰り返し、ようやく受付にたどり着きました。
兄夫婦に紹介状とMRI写真の封筒を渡して受け付けをしてもらい、座った状態ではそれほど痛まないので待合室のイスに座って順番を待ちました。
自分の名前が呼ばれ、整形外科部長のS先生の診察を受けました。
これまでの状況をS先生に話し、触診されたり足を上げてみたり、腰をX線撮影して調べられた結果、やはりO先生のお見立て通り「腰椎椎間板ヘルニアが座骨神経痛を起こしている」ということで、そのまま入院することが決定しました。(内心何かの間違いだと言ってほしかったのに・・・)
診察室を出た後、茶髪の若い看護婦さんの案内で、兄に押してもらった車椅子に乗ったまま、北3階病棟の個室へ入室し、ベッドの上に横たわりました。ちょうどお昼を回ったところだったので、初めての病院食を食べ、看護師さんから入院までの状況の聞き取りや入院生活の説明を受けました。
突然の入院だったので、足りなかったものの買い出しに義姉に行ってもらっている間に検査の呼び出しがあり、看護助手の方に車椅子を押してもらい検査室へ行き、CT検査を受けました。
CT検査を終え通路で待っていると、主治医となる若いY先生から「大きなヘルニアですねぇ」と言われて再び気分が落ち込みましたが、落ち込んでいるヒマもなく続いて神経ブロック剤の腰への注入を受けました。
これは神経に直接作用して痛みの伝達を遮断するものなのだそうですが、注入の際にお尻から足の指先まで強烈な電気ショックのような痛みを伴うもので、思わず「ぎょえっ」と小さな悲鳴を上げてしまいました。私の場合は、整体の痛いのを経験していたので何とか我慢ができたのですが、女性などはあまりの痛さに失神してしまう人もいるそうです。
病室に帰ると兄夫婦は書き置きを残して帰路に就いており、独り病室のベッドに横たわり、「これからどうなるんかいな・・・」と思いながら入院初日の夜は更けていったのでした。
入院早々手荒い歓迎となった神経ブロック剤注入でも痛みがほとんど取れなかったので、手術をすることを前提に様々な検査をしていくことになりました。
入院2日目は血液検査、週末を挟んで5日目には鼻腔細菌採取・採尿・肺活量測定・心電図、6日目には心臓エコー検査、7日目には手術後装着するコルセットの型取りと手術準備が着々と進んでいきました。
初めは個室に入っていたのですが、4日目に2人部屋に転室しました。個室というのは結構ヒマを持て余すもので、2人部屋で同室になった大竹市の老人の方と、身の上話や世間話、東城や大竹の話をしていたら結構気が紛れました。
広島鉄道病院の整形外科は、手術の必要な患者さんが各病院から送られてくるらしく、ベッドが空くたびのやりくりが大変なようで、入院9日目には6人部屋に再び転室となりました。
6人部屋だと室料がかからなくなり、同室の方も増えるのでいいのですが、他人のイビキ・歯ぎしり・寝言で夜の安眠を妨げられることもありますので、良し悪しですね。
入院3日目には母が東城から高速バスに乗って様子見に来ました。
7日目には姉が義兄の岩国出張に便乗して新幹線で奈良からわざわざ見舞いに足を運んでくれ、歩けない私の代わりにいろいろと買い出しに行ってくれました。
11日目には、イトコの息子が大学院の考古学の研究調査のためにちょうど広島に来ているとき見舞いに寄ってくれて、パソコン雑誌を差し入れてくれました。
私は歩けないこと以外は特に体調に悪いところがなかったので、皆に安心してくれるよう伝えておきました。
入院12日目の夜、兄夫婦を交えて執刀医のS先生から手術の事前説明を受けました。
写真や模型を示されながらヘルニアの状況と手術の手順、再発の確率などの説明をされました。「手術せずに、神経ブロックを受けながら3か月くらいかけて痛みを取っていく方法もあるのですが・・・」と言われましたが、あの神経ブロックを3ヶ月間もうたれ続ける拷問には耐えられそうになかったので、スパッと切ってもらうことにしました。
手術承諾書に記名捺印して提出し、いよいよ手術を待つばかりとなりました。
手術3日前には、24時間の尿採取を行い、麻酔科の先生から採血とアレルギーの有無などの聞き取りを受けました。また、手術後に履くふんどしのようなT字帯やベッドに敷くバスタオルなどを用意し、手術に備えました。
入院14日目の7月5日、いよいよ手術日を迎えました。
前日夜から絶飲食し、朝下剤でお腹の中身を全て出しました。
午前中個室に転室し、シャワーで身体を洗いハダカの上に手術着だけを着て手術の順番が来るのを待ちました。
15時頃私の手術の順番が来たので、ストレッチャーに横たわり、ガラガラと看護助手の方に押されて手術室に運ばれました。結構緊張していたのですが、運ばれている間看護助手の方に「スッポンポンなので股間がスースーする」などど軽口を叩いていました。
テレビドラマで見たような手術室の中に入り、名前を確認された後手術台に移され、麻酔剤を2回注射されたところで、ストンと意識が無くなりました。
麻酔にかかっている間、背中が切開され背骨の一部が削られて、上下に通ってる神経の束を横にどけて、飛び出ている椎間板を切除摘出したそうです。手術中に夢を見る人もいるようなのですが、私の場合は全く夢も見ず、痛みも感じることはありませんでした。
手術が終わり麻酔から覚め意識が戻ってくると、まず自分がパソコンを操作しているのに画面がぐちゃぐちゃになっていて困惑している夢が出てきて、その後遠くの方で女性がぺちゃくちゃ世間話をしているのが聞こえてきました。
「あら、麻酔が覚めてきたわ。F井さん、F井さん、起きて、起きて」という呼びかけが聞こえてきたので、明るく「は〜い!」とでも答えようとしたのですが、鼻の穴には酸素吸入管が、口には人工呼吸器の管が入っており、モガモガと思うように答えられませんでした。
また、自分で呼吸をしようとしてもままならず、まるで溺れかけたような苦しい状態が続き、大変しんどい思いをしました。人工呼吸器の管が口から外され、自分で呼吸ができるようになったときには、思わず「こりゃしんどいわ。子供や年寄りにはきついで。」と感想を言ってました。
ストレッチャーに載せられて手術室から出て個室に戻り、ベッドに寝たままX線撮影などをされて、落ち着いたところで付き添っていた母に時刻を聞くと19時過ぎになっていました。手術自体は1時間くらいで終わったそうで、麻酔から覚めるのに時間がかかったそうです。
体は動かせないながら落ち着いて周りを見ると、鼻には酸素吸入の管が入り、オチンチンから尿導管が出てベッド横の袋に溜まり、背中からは血抜きの管が出ていて、まるで新スタートレックに出てくるボーグのような改造人間状態でした。
手術の疲れからか、うとうとと眠りについてしまい、手術日は終わりました。
翌朝が来て特に呼吸も苦しくないので、鼻の穴から差し込まれていた酸素吸入管を抜いてもらい、呼吸が楽になりました。
S先生が朝の巡回に来られたときに、紙コップに入った摘出した椎間板を見せてもらいましたが、塩辛のようなものがコップの底に入っていました。通常の場合の2倍以上の大きなヘルニアだったそうです。
手術直後は絶対動いてはならず、テレビを見るためや食事のために体の向きを変えるのにも寝返りを打つのにも、看護師さんの助けを借りることになりました。ただ、痛みもなく気分も良好で、完全看護で特に手が掛かることもないので、一晩付き添ってくれた母には、東城に帰ってもらいました。
手術後2日目には、特に異常がなかったので再び6人部屋に転室となりました。
午後にはストレッチャーに載ってリハビリ室に運ばれ、可動式の台に身体を固定した上、台を立てた状態で10分間我慢する起立訓練をしました。しかしながら、5分を過ぎたところでめまいがしてしまったので、翌日再度挑戦することになりました。
手術後3日目に、再度起立訓練を受けて10分間立っていられたので、Y先生に胴ギプスを巻いてもらいました。
胴ギプスは、水の中に浸けた包帯のようなテープを胸から腰までグルグル巻きにしていくとコチコチに固まってしまうもので、座ったときに太股の部分が邪魔にならないように小さな電気ノコギリのようなもので下の部分が削られ、また食事の後胃が膨れても苦しくないようにお腹には丸い穴が空けられ、手術した部分の消毒とガーゼ交換のために背中にフタが付けられました。まるで「製材される丸太」の気分でした。
胴ギプスを装着した後は自分でトイレに行けるようになりますので、オチンチンに差し込まれていた尿導管を看護師さんに抜いてもらいました。
「痛いですから一気に抜きますよ」といわれ、管を引っ張られると激痛が走り、悲鳴を上げてしまいました。「入れるときはもっと痛いんですよ」と言われて、ああ管を入れられる時は全身麻酔をかけられていて良かった〜と思いました。(笑)
こうしてみると外したJOKEも多かったような気がします。ああ、ウケるJOKEは難しい。
入院44日目の8月4日(金曜日)、広島鉄道病院での長い長い入院生活を終えることになりました。
朝、最後の病院食を食べ終え、帰りの荷造りをし、パジャマを脱いで外出着に着替えました。
その後病院内のATMでお金を引き出し、会計窓口で最後の入院治療費の支払いを行いました。
今回の入院手術に際し、広島鉄道病院に支払った合計は以下の通りです。
項 目 | 金 額 | 内 訳 |
---|---|---|
投薬料 | \314 | |
注射料 | \7,596 | |
処置料 | \1,528 | |
手術料 | \78,376 | |
検査料 | \8,500 | |
X線診断料 | \10,448 | |
理学療法他 | \1,110 | |
入院料 | \130,994 | |
室料差額 | \21,900 | 個室・2人部屋利用分 |
文書料 | \4,500 | 診断書や証明書の発行料 |
食事療養費 | \32,680 | |
その他 | \3,080 | 一日70円のパジャマのレンタル料 |
消費税 | \1,473 | |
支払合計 | \302,503 | 月毎に請求が来て支払い |
病室に戻って待っていると、10時半過ぎに兄夫婦が車で迎えに来てくれましたので、同室の方々に別れを告げ、ナースステーションでお世話になった看護師の皆さんに御礼を述べて、広島鉄道病院を出ました。
こうして、禁固44日間の刑に服した入院生活は、終わりを告げました。
3日間自宅で静養しましたが、体調も良かったので週明けの8月7日から出勤し職場復帰を果たしました。ただし、当分は定時出勤定時退社でデスクワークくらいしかできませんでした。
ただ、私が居ない間も通常の仕事はほとんど問題もなく処理されていたようで、下っ端っていうのは居ても居なくてもあまり関係ないもんだなと思いました。
退院を見越して溜めてあった書類作成依頼の山を処理し、お見舞いをいただいた方々へのお返しを配ったりして、結構忙しい日々を過ごしました。
8月30日には、MRI検査を受けに久々に広島鉄道病院へ行きました。
絶飲食で早起きして東城から2時間車運転して病院に着き、40分間くらいMRI検査を受けた後、検査技師の女性に「気分はいかがですか?」と聞かれて、思わず「お腹が空きました!」と言ったら笑われてしまいました。
検査後病院内食堂で腹ごしらえし、久々に北3階病棟の病室に行ってみると何人か同室だった患者さんがおられ、しばし談笑しました。「あんたがおらんと淋しいんで、もう一度入院しんさい。」と酷なお誘いが・・・(笑)
9月7日に検査の結果を聞きに広島鉄道病院を外来受診したところ、特に再発の兆候は見られないと言うことで、安心しました。なお、主治医のY先生は9月いっぱいで退職されると言うことで、これまでお世話になった御礼を述べておきました。
手術後3か月経った10月3日に外来受診に行ったところ、主治医が新たに着任された若いS先生(執刀医の整形外科部長のS先生とは別人)に代わっていました。
左足裏に残った違和感以外は特に痛みやしびれもなかったので、引き続き様子を見ることになりました。また、寝るときにはコルセットを外してもよくなったので、ちょっと楽になりました。
手術後4か月の11月7日に外来受診に行ったときには、コルセットを外す許可が出ました。コルセットを外して過ごすと、一日の疲労度が格段に違います。
手術後5か月の12月5日の外来受診では、これまで避けていた中腰や前傾姿勢での仕事を、手術後半年となる年明けから再開してみるようにいわれました。退院後も腰に負担をかける仕事は他の人に代行してもらって迷惑をかけていたので、これで完全に通常業務に戻れます。
また、冬になると東城から広島まで車で来るのは大変だろうということで、異常がなければ次の外来受診は、4月で良くなりました。
久々となった手術後9か月の4月19日の外来受診で、冬の間も痛みやしびれが出なかったのと、腰部のX線撮影をして特に異常も見られず、診察で前屈と胸そらしをして充分体を曲げることができたことから再発していないと判断され、異常が出ない限り病院通いは今回で終了ということになりました。
病院通いは終了しましたが、手術を受けた身体のため日々の生活でも決して無理をせず、腹筋・背筋を強化して腰椎に負担をかけないようにしなければなりません。
長文をお読みいただき、ありがとうございました。
健康は、失ってみてそのありがたさが身にしみて分かるものです。皆さんもどうぞお体を大切に!
初回公開:2000年12月
最終更新:2001年 4月