備後東城の里は、太古の昔から現在に至るまで人々の生活が息づく歴史と伝統のある街です。
ここでは、備後東城の里が歩んできた歴史を、時代を追って簡単に振り返ってみましょう。
旧石器時代の遺物が出土したのは、東城町帝釈始終の帝釈馬渡岩陰遺跡と神石町永野の帝釈観音堂洞窟遺跡の2カ所です。
東城近辺では、古墳時代から砂鉄を原料とした製鉄が始まったものとみられ、東城町内の古墳からは鉄斧・鉄やじり・鉄刀が発見されています。
古墳時代の当地は、大和朝廷の吉備勢力と出雲勢力の境界付近に当たり、古墳に横穴式石室が多いことから出雲勢力の支配下にあったものと推定されます。
奈良時代には仏教による国家鎮護の思想が広まったため、朝廷が全国に国分寺・国分尼寺を建立し仏教信仰が奨励されましたが、当地においても帝釈の永明寺や川東の千手寺(右写真)が、当時の豪族勢力を背景に奈良時代に創建されたと伝えられています。
平安時代後期になると武士勢力が台頭してきて、源氏や平氏が大きな勢力を持つようになってきました。
『吾妻鏡』・『平家物語』・『源平盛衰記』によれば、備後国に奴可入道西寂という武士がいて、源頼朝の挙兵に応じて高縄城に籠城した伊予の住人河野通清を、平氏の命により攻めて殺したという記述があります。
この奴可入道西寂は、平氏関係の荘園であった奴可郡一帯を支配していた武士と考えられ、江戸時代の文献には小奴可の亀山城が西寂の居城であったとの伝えを載せています。(左写真は亀山城跡の山)
一方、大和国宇多郡を領有していた宮利吉(前述の宮氏とは別)が山名氏清の謀反に加担したことが発覚し、室町幕府は宮利吉の領地を没収したため、応永六年(1399)に宮利吉は三十余人の家臣と共に東城町久代に移り、その後比田山城を築きました。(久代宮氏の始まり。右の写真は東城町久代宮原の比田山城跡の山)
久代宮氏はその後勢力を広げ、宮利吉から五代目の宮景友のときに現在の東城町川西に五本竹(五品嶽)城を築き、その次の宮高盛の時に現在の西城町に大富山城を築いて本拠としたことから、以後「東城」・「西城」という名称が使われるようになりました。(左写真は、東城の街を見下ろす五品嶽城跡の山)
久代宮氏は戦国時代には毛利氏に属し、天文二年(1533)に尼子方の軍勢が備後国へ侵入してきたのを備中神代(現在の岡山県神郷町)の合戦で敗退させており、天文五年(1536)秋には尼子経久の軍勢が大富田城を攻めてきたものを、優勢の内に和睦し撤退させました。
なお、平安後期に奴可入道西寂の居城であったとされる小奴可の亀山城は、元弘年間(1331〜34)には奴可源吾が、明徳年間(1390〜1394)には奴可平四郎が居城したと伝えられますが、戦国時代には久代宮氏の一族の小奴可氏が本拠を置いたと言われています。
毛利氏の後に安芸国・備後国の太守に任ぜられた福島正則は、三家老の一人である長尾隼人正一勝を五品嶽城主に任命しました。
長尾一勝は、街づくりを積極的に推進し都市計画に基づく街路の区割りを定めており、現在の東城の中心街の原型はこのときに整ったものと考えられています。(右写真は、昔の武家屋敷の名残を残す館町の街並み)
また長尾一勝は、菩提寺を千手寺に祈願寺を法恩寺に定め、法恩寺に大般若経を寄進したり、徳了寺の敷地を寄進し、帝釈の永明寺に鰐口を寄進するなど、寺院の保護にも力を入れていたようです。
長尾隼人正一勝の死後、その子勝行が父の供養のため、地輪の正面に父一勝の略歴を刻んだ五輪塔を建立したものが、現在も千手寺に残っております。(左写真)
この五輪塔は形が整いかつ大変大きいので長尾氏の勢力が大きかったことを示しています。
また、長尾氏の軍勢の様子は、毎年秋に東城で行われる「お通り」の武者行列に再現されています。(右写真)
長尾氏は二代目の勝行の時に、主君福島正則が改易になったため東城を去り、以後津山藩主に仕えました。
元和五年(1619)に福島正則が改易された後、浅野長晨が広島城に入り、安芸国全部と備後国八郡を治めることになりました。(浅野藩の始まり)
東城には当初家老の亀田大隅守高綱が配備されましたが、他の家老との確執から浅野藩を退藩する事件あり、寛永五年(1628)に郡を治めるのに功績のあった浅野高英を家老に取り立てて東城に配備し、以後浅野藩の三家老のひとつ東城浅野家として、代々東城の地を明治維新まで治めることとなりました。
なお、東城浅野家の家老が家来を引き連れ、主君のご神幸に随行した大名行列を再現したものも、秋の「お通り」で見ることができます。(左写真)
東城の街は周辺の村々からの鉄の集散地として栄え、集められた鉄は主として馬により備中吹屋(現在の岡山県成羽町吹屋)や川之瀬(現在の岡山県新見市正田)に送られたり、いかだや川舟で東城川下流の成羽に運ばれ、高梁川下流の玉島を経由して大阪や四国高松に送って販売されました。
川舟の発着場だった東城川沿いの場所が、現在も「浜栄町」という地名で当時の繁栄を物語っています。(右写真は現在の浜栄町)
『国郡志』に記載されている東城の町家の業種としては、酒造・塩噌・質屋・小間物・反物類・古手物・薬店・かざり屋・塗師・紺屋・菓子屋・ろうそく・鬚付・木地細工・紙類・灯油・煙草・鉄商・雑穀・素麺師・下鍛冶・巧道・屋根葺・木挽・桶屋・畳刺・左官・石工・瓦焼・旅籠屋・豆腐・こんにゃく・髪結・馬口労など多種にわたっており、当時から商工の街として栄えていたようです。(左写真は古い商家の雰囲気を残す新町の街並み)
戸数は、寛永十七年(1640)に156戸であったものが、文政八年(1825)には325戸と倍増しており、江戸時代における東城の街の発展ぶりがわかります。
その後たたら製鉄を集約する形で、木炭を燃料としながら砂鉄などを洋式炉で製鉄する東城製鉄や、輸入鉄鉱石を主原料に木炭を燃料にして製鉄する帝国製鉄が設立されましたが、結局廃業・倒産してしまいました。
たたら製鉄の衰退と消滅により地元産業は転換を余儀なくされ、農家の副業として行われていた製炭は家庭用の良質な白炭生産に切り替えられ、輸送用の馬の飼育は和牛の飼育へと変わっていくことになりました。その結果、現在の東城の畜産は、全国の品評会で最優秀賞を受けるほどの良質な和牛の産地となっています。
また、たたら産業への労務提供の機会が失われた明治三十年代から都市への出稼ぎが盛んになり、明治末期から昭和初期にかけては朝鮮・満州(現中国東北部)・台湾への移住も流行しました。
鉄道は、昭和五年(1930)に伯備線備中神代−東城間が開通し、昭和十年(1935)には東城−小奴可間が延長され、翌年には小奴可−備後落合間が開通して東城と広島を結ぶ国鉄芸備線が全線開通しました。
第二次世界大戦後には、広島行きの急行「たいしゃく号」なども運行されるようになり、国鉄芸備線は中国山地の木材や産物を都市部に運ぶ物流の動脈として、また東城と広島・岡山を結ぶ旅客の足として、長い間大きな役割を果たしておりました。
しかしながら、自動車輸送の発達と道路網の整備により鉄道が交通輸送に占める割合は次第に低下していくとともに、芸備線でも広島行き急行列車や貨物輸送が廃止になり、国鉄が民営化されてJRになると芸備線の新見−備後落合間は1両編成のワンマン運行となってしまいました。
現在の東城駅(右写真)をはじめ東城町内の駅はすべて無人駅になってしまいましたが、JR芸備線は住民の通勤・通学・通院の貴重な足として利用されています。
一方、道路網の整備としては、昭和五十八年(1983)に中国自動車道が全線開通し、東城町川東にも東城インターチェンジ(左写真)が開設され、東城町も高速交通時代の幕が開きました。その後、周辺の一般道路の整備も進んでいきました。
それにより、中国自動車道や国道を利用してトラックで東城の産物を全国各地へ素早く運べるようになったと共に、豊かな自然を求めてやってくる観光バス・自家用車が東城を訪れやすくなり、さらに東城−新大阪間・東城−広島バスセンター間の高速バスが運行されるなど、新しい交通の動脈となっています。
林業の分野では、建築用製材のみならず製紙原料となる木材のチップ化工場が稼働するなど、豊富な森林資源の有効利用が図られています。
農業の分野では、第二次世界大戦後に小奴可地区で始まったリンゴ栽培が東城町内各地に広まり、東城で栽培されるリンゴは比較的糖度が高く新鮮なことから、東城の新しい特産品として親しまれています。
また、食品に対する安全性の追求と生産者と消費者の間の信頼関係の構築を目的に、合鴨農法や有機肥料を使用して減農薬・無農薬を目指す米作り・野菜づくりなどの試みも推進されつつあります。
昭和38年(1963)には東城町北部の道後山と南西部の帝釈峡が比婆道後帝釈国定公園に指定されたことから、春の新緑・夏の避暑・秋の紅葉・冬のスキーに多くの観光客が東城を訪れており、観光業も東城町の中心的な産業になっています。
以上のように、豊かな自然と大地の恵みである森林資源や地下資源を有効に活用しつつ、東城の産業は環境に優しく調和のとれた発展を目指しています。
合併特例法による全国的な市町村合併の動きの中で、東城町でも住民が合併推進派と単独町政継続派に分かれた激しい論争が起き、合併推進を表明した町長と単独町制継続を決議した町議会が対立するなど町政が混乱しました。その混乱を収拾すべく何度かの選挙と住民投票が行われた結果、町議会で合併推進派が多数を占め、比婆郡他町・庄原市・総領町の合併に参加することが決定しました。
