備 後 東 城 の 歴 史

 備後東城の里は、太古の昔から現在に至るまで人々の生活が息づく歴史と伝統のある街です。
 ここでは、備後東城の里が歩んできた歴史を、時代を追って簡単に振り返ってみましょう。


旧石器時代〜縄文・弥生時代

 東城町とその周辺の石灰岩台地を中心として、数々の原始古代人の住居跡の遺跡が確認されています。
 この付近の原始古代人は、冬暖かく夏涼しい石灰岩台地の洞窟や岩陰を住居にして、当時たくさん生息していた猪や鹿を狩猟したり、川の魚や貝類をとったり、木の実や山芋を採取したりして、豊かな生活を営んでいたようです。
 また、この付近の原始古代人は、瀬戸内沿岸部との交流があったようで、この地方にはない安山岩や黒曜石製の石器や石片、腕輪や首飾りなどの海産貝の装身具が遺跡から出土しています。
 東城町周辺の各遺跡では、同じ遺跡から縄文時代から弥生時代にかけての各時期にわたる遺物が出土しており、長い間にわたって原始古代人の生活の場となっていたようです。

旧石器時代(約2万年前)の遺跡
帝釈馬渡岩陰遺跡  旧石器時代の遺物が出土したのは、東城町帝釈始終の帝釈馬渡岩陰遺跡と神石町永野の帝釈観音堂洞窟遺跡の2カ所です。
 帝釈馬渡岩陰遺跡(右の写真)からは、安山岩製の刃器や石片、現在は絶滅しているヤベオオツノジカの顎骨が出土しており、約2万年前にこの地で人間が生活していたことを示しています。

縄文時代(約1万年前〜2300年前)の遺跡
 東城町帝釈未渡の寄倉岩陰遺跡や前述の帝釈観音堂遺跡からは、縄文時代各時期のほとんどすべての土器が年代順に出土しており、長期にわたって原始古代人が生活していたことを示しています。
 また、帝釈未渡の名越(なごえ)遺跡から出土した縄文晩期の土器の底に、稲籾の痕が残っていたことから、帝釈川の下流となる高梁川の周辺では、すでに稲作が始まっていたと推定されます。
 久代の長者が原遺跡からは、祭儀に用いられたと考えられる安山岩製の石棒が出土し、小奴可の持丸遺跡からも縄文土器の小破片が多数散乱出土していることから、現在の東城町全域にわたって縄文人が生活していたものと考えられます。

弥生時代(約2300年前〜1700年前)の遺跡
 弥生時代になると水稲栽培が本格的に普及し、人々の生活の場は狩猟に好都合な山岳丘陵地帯から水田耕作に向いた低地に移ってきました。
 東城町内の弥生遺跡としては、帝釈の多くの縄文時代の遺跡からも弥生時代各期の土器や石器も出土していると共に、福代の平谷遺跡から弥生中期の土器片、川西の若松遺跡では竪穴式住居跡から弥生後期の土器片が出土しています。
 他にも、川西の浪方洞窟遺跡、戸宇の津々良遺跡、川東の久松遺跡などからも弥生式土器片などが出土していることからも、弥生人が東城川の両岸で稲作をしながら生活をしていたものと推定されます。
 また、戸宇の大仙山遺跡牛川遺跡からは弥生時代から古墳時代までの土壙墓が出土しています。


古墳時代

 大和朝廷が成立した3世紀後半から、畿内から瀬戸内海沿岸にかけて当時の権力者の墓所である古墳が数多く発生しましたが、東城町内にも300を超える古墳が確認されています。
 古墳の形式は、8基が前方後円墳(帆立貝式を含む)の他は円墳で横穴式石室のものがほとんどで、谷間や盆地を見下ろす小高い丘や尾根の上、あるいは山腹の斜面などに築かれております。

 東城近辺では、古墳時代から砂鉄を原料とした製鉄が始まったものとみられ、東城町内の古墳からは鉄斧・鉄やじり・鉄刀が発見されています。

 古墳時代の当地は、大和朝廷の吉備勢力と出雲勢力の境界付近に当たり、古墳に横穴式石室が多いことから出雲勢力の支配下にあったものと推定されます。


奈良時代・平安時代

 現在の東城町と隣の西城町の範囲は、古くは「奴可(ぬか)郡」と呼ばれていました。東城町の北部にある小奴可という地名は、その名残です。
 奈良時代の大化改新以後の律令制のもとで税制が整えられ、養蚕による絹糸にて納税するようになっていましたが、当地が養蚕に向かず製鉄が適していたため、延暦二十四年(805)に備後国の奴可郡など八郡においては、今後永久に絹糸の代わりに鍬や鉄で納税することを朝廷に請願して許されたという記録があります。このことからも、平安時代にはすでに当地の製鉄が相当盛んであったということがわかります。

千手寺  奈良時代には仏教による国家鎮護の思想が広まったため、朝廷が全国に国分寺・国分尼寺を建立し仏教信仰が奨励されましたが、当地においても帝釈の永明寺や川東の千手寺(右写真)が、当時の豪族勢力を背景に奈良時代に創建されたと伝えられています。

 平安時代後期になると武士勢力が台頭してきて、源氏や平氏が大きな勢力を持つようになってきました。
亀山城跡  『吾妻鏡』・『平家物語』・『源平盛衰記』によれば、備後国に奴可入道西寂という武士がいて、源頼朝の挙兵に応じて高縄城に籠城した伊予の住人河野通清を、平氏の命により攻めて殺したという記述があります。
 この奴可入道西寂は、平氏関係の荘園であった奴可郡一帯を支配していた武士と考えられ、江戸時代の文献には小奴可の亀山城が西寂の居城であったとの伝えを載せています。(左写真は亀山城跡の山)


鎌倉時代

 建長二年(1250)の『九条道家惣処分状』によると、鎌倉時代のはじめ「備後国奴可東条」が関白九条家を本所とし、光明峯寺を領家とする荘園になったという記述があります。
 奴可入道西寂を荘官として平氏が所有していた奴可郡一帯の荘園を鎌倉幕府が没収の上、「奴可西条」(現在の西城町)と「奴可東条」(現在の東城町)に分割して、奴可東条が関白九条家に寄進されたようです。
 なお、「奴可東条」の呼び名は、江戸時代のはじめまで使用されていました。


室町時代

 南北朝時代から品治郡新市(現在の芦品郡新市町)の亀寿山城に本拠を置いた宮盛重とその一族が備後国南部に支配を広げ、奴可郡もその勢力下に置くようになりました。
 記録によれば、宮盛重は「東条之内宇計原村」(東城町受原)を中興寺に寄進し、宮満重は貞治六年(1367)から応安元年(1368)にかけて千手寺を再建し、宮政盛は文安三年(1446)から長禄元年(1457)にかけて菅の徳雲寺を建立するなど、亀寿山城の宮氏と東城とは深いつながりがあったようです。
 亀寿山城の宮氏による支配は戦国時代まで続きましたが、戦国時代には尼子方についていたため、天文三年(1534)大内氏の命を受けた毛利元就の攻撃を受けて、宮直信は急病死し、その嫡子元盛は降伏して毛利氏の家臣となりました。

比田山城跡の山  一方、大和国宇多郡を領有していた宮利吉(前述の宮氏とは別)が山名氏清の謀反に加担したことが発覚し、室町幕府は宮利吉の領地を没収したため、応永六年(1399)に宮利吉は三十余人の家臣と共に東城町久代に移り、その後比田山城を築きました。(久代宮氏の始まり。右の写真は東城町久代宮原の比田山城跡の山)

五品嶽城跡の山  久代宮氏はその後勢力を広げ、宮利吉から五代目の宮景友のときに現在の東城町川西に五本竹(五品嶽)城を築き、その次の宮高盛の時に現在の西城町に大富山城を築いて本拠としたことから、以後「東城」・「西城」という名称が使われるようになりました。(左写真は、東城の街を見下ろす五品嶽城跡の山)
 久代宮氏は戦国時代には毛利氏に属し、天文二年(1533)に尼子方の軍勢が備後国へ侵入してきたのを備中神代(現在の岡山県神郷町)の合戦で敗退させており、天文五年(1536)秋には尼子経久の軍勢が大富田城を攻めてきたものを、優勢の内に和睦し撤退させました。

 なお、平安後期に奴可入道西寂の居城であったとされる小奴可の亀山城は、元弘年間(1331〜34)には奴可源吾が、明徳年間(1390〜1394)には奴可平四郎が居城したと伝えられますが、戦国時代には久代宮氏の一族の小奴可氏が本拠を置いたと言われています。


安土桃山時代

 久代宮氏は長く東城を治めていましたが、毛利輝元が豊臣秀吉の命により朝鮮へ出兵した際に家臣の知行高を調査したところ、宮広尚が虚偽の過少申告をしたことで輝元の怒りを買い、天正十八年(1590)に出雲塩谷城主であった天野新兵衛尉元嘉と国替えとなり、東城の地を去りました。
 その翌年、毛利氏の家臣である佐波越後守広忠が東城に赴任し、奴可・神石両郡約一万石を領有したものと考えられています。


江戸時代

統治者の変遷
 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利氏が石田三成側の西軍についたため、西軍が敗れると毛利氏は周防・長門の二カ国に減封され山口県の萩へ移ったのと同時に、家臣の佐波広忠も東城の地を離れ萩に移りました。

 毛利氏の後に安芸国・備後国の太守に任ぜられた福島正則は、三家老の一人である長尾隼人正一勝を五品嶽城主に任命しました。
館町の街並み  長尾一勝は、街づくりを積極的に推進し都市計画に基づく街路の区割りを定めており、現在の東城の中心街の原型はこのときに整ったものと考えられています。(右写真は、昔の武家屋敷の名残を残す館町の街並み)
 また長尾一勝は、菩提寺を千手寺に祈願寺を法恩寺に定め、法恩寺に大般若経を寄進したり、徳了寺の敷地を寄進し、帝釈の永明寺に鰐口を寄進するなど、寺院の保護にも力を入れていたようです。
五輪塔  長尾隼人正一勝の死後、その子勝行が父の供養のため、地輪の正面に父一勝の略歴を刻んだ五輪塔を建立したものが、現在も千手寺に残っております。(左写真)
 この五輪塔は形が整いかつ大変大きいので長尾氏の勢力が大きかったことを示しています。
「お通り」の武者行列  また、長尾氏の軍勢の様子は、毎年秋に東城で行われる「お通り」の武者行列に再現されています。(右写真)
 長尾氏は二代目の勝行の時に、主君福島正則が改易になったため東城を去り、以後津山藩主に仕えました。

 元和五年(1619)に福島正則が改易された後、浅野長晨が広島城に入り、安芸国全部と備後国八郡を治めることになりました。(浅野藩の始まり)
 東城には当初家老の亀田大隅守高綱が配備されましたが、他の家老との確執から浅野藩を退藩する事件あり、寛永五年(1628)に郡を治めるのに功績のあった浅野高英を家老に取り立てて東城に配備し、以後浅野藩の三家老のひとつ東城浅野家として、代々東城の地を明治維新まで治めることとなりました。
「お通り」の大名行列  なお、東城浅野家の家老が家来を引き連れ、主君のご神幸に随行した大名行列を再現したものも、秋の「お通り」で見ることができます。(左写真)

たたら製鉄の発展
 中国山地には良質の砂鉄を含む岩石が分布し、古くから砂鉄を原料とした「たたら製鉄」が盛んでした。
 江戸時代においては、山土から砂鉄を採取する「鉄穴流し」(かんなながし)が各村々の農家の副業として行われており、鍛冶屋での労務に地元農民が雇用されたり、砂鉄を溶融するのに使う木炭の生産や駄馬運送により、農家の家計を大いに潤わせていたようです。
 ただ、たたら製鉄の発展は鉄穴流しによる水質汚濁の問題を発生していたようで、東城川下流の村々から鉄穴流しの中止を求める紛争が何度も起こり、最後には幕府へ訴えるまでになったとの記録があります。(ちなみに、宮崎駿監督のアニメ映画『もののけ姫』は、たたら製鉄に伴う自然破壊を題材にしたものと言われています。)

浜栄町の町並み  東城の街は周辺の村々からの鉄の集散地として栄え、集められた鉄は主として馬により備中吹屋(現在の岡山県成羽町吹屋)や川之瀬(現在の岡山県新見市正田)に送られたり、いかだや川舟で東城川下流の成羽に運ばれ、高梁川下流の玉島を経由して大阪や四国高松に送って販売されました。
 川舟の発着場だった東城川沿いの場所が、現在も「浜栄町」という地名で当時の繁栄を物語っています。(右写真は現在の浜栄町)

江戸時代の東城の街の様子
 天明年間(1781〜89)に大火があり街の家屋のほとんどが消失したため、それまでの家屋がほとんど藁葺きであったものが、以後瓦葺きになり街の景観が整いました。

新町の街並み  『国郡志』に記載されている東城の町家の業種としては、酒造・塩噌・質屋・小間物・反物類・古手物・薬店・かざり屋・塗師・紺屋・菓子屋・ろうそく・鬚付・木地細工・紙類・灯油・煙草・鉄商・雑穀・素麺師・下鍛冶・巧道・屋根葺・木挽・桶屋・畳刺・左官・石工・瓦焼・旅籠屋・豆腐・こんにゃく・髪結・馬口労など多種にわたっており、当時から商工の街として栄えていたようです。(左写真は古い商家の雰囲気を残す新町の街並み)

 戸数は、寛永十七年(1640)に156戸であったものが、文政八年(1825)には325戸と倍増しており、江戸時代における東城の街の発展ぶりがわかります。

 
明治時代・大正時代

町村の合併
 現在の東城町のうち奴可郡に含まれていたものは、江戸時代には1町26村に分かれていました。
 明治政府は地方行政機構を効率化するため、明治二十二年(1889)四月に町村制を施行したのに伴い、奴可郡に含まれていた現在の東城町の部分は、小奴可村・田森村・八幡村・帝釈村・東城村・久代村の合計六村にまとめられ、神石郡に含まれていた部分は新坂村となりました。
 明治三十一年(1898)東城村は町制をしき東城町となり、奴可郡・三上郡・恵蘇郡が一緒となって比婆郡になりました。
 ちなみに、東城は東城川を利用した水運により昔から岡山県との結びつきが強かったため、明治二十九年と大正七年に広島県から岡山県に編入させようという運動が起こりましたが、結局実現しませんでした。

たたら製鉄の衰退・消滅
 江戸時代まで備後東城を繁栄させていたたたら製鉄関連産業でしたが、明治時代になると輸入鉄鉱石を原料として洋式製鉄法を用いた釜石製鉄所(岩手県)や八幡製鉄所(福岡県)の操業により、「たたら製鉄」は価格競争力を失い、急速に衰退し消滅していきました。東城町のたたらは、内堀の見取原たたらを最後に、大正十年(1921)に消滅しました。
ヤマモトロックマシン  その後たたら製鉄を集約する形で、木炭を燃料としながら砂鉄などを洋式炉で製鉄する東城製鉄や、輸入鉄鉱石を主原料に木炭を燃料にして製鉄する帝国製鉄が設立されましたが、結局廃業・倒産してしまいました。
 東城町における古くからの鉄関係の企業で現在も存続しているものは、鋳鉄業を発展させて日本有数の削岩機メーカーとなったヤマモトロックマシン(旧 山本鉄工所、右写真)だけとなっています。

 たたら製鉄の衰退と消滅により地元産業は転換を余儀なくされ、農家の副業として行われていた製炭は家庭用の良質な白炭生産に切り替えられ、輸送用の馬の飼育は和牛の飼育へと変わっていくことになりました。その結果、現在の東城の畜産は、全国の品評会で最優秀賞を受けるほどの良質な和牛の産地となっています。
 また、たたら産業への労務提供の機会が失われた明治三十年代から都市への出稼ぎが盛んになり、明治末期から昭和初期にかけては朝鮮・満州(現中国東北部)・台湾への移住も流行しました。


昭和時代

交通網の整備
 明治時代までの交通輸送の手段は、川舟・馬・荷車・人力車でしたが、大正八年(1919)になると東城−福山間の乗合自動車が登場し、その後東城−新見間、東城−庄原間とバス路線を広げていきました。

 鉄道は、昭和五年(1930)に伯備線備中神代−東城間が開通し、昭和十年(1935)には東城−小奴可間が延長され、翌年には小奴可−備後落合間が開通して東城と広島を結ぶ国鉄芸備線が全線開通しました。
 第二次世界大戦後には、広島行きの急行「たいしゃく号」なども運行されるようになり、国鉄芸備線は中国山地の木材や産物を都市部に運ぶ物流の動脈として、また東城と広島・岡山を結ぶ旅客の足として、長い間大きな役割を果たしておりました。
JR東城駅  しかしながら、自動車輸送の発達と道路網の整備により鉄道が交通輸送に占める割合は次第に低下していくとともに、芸備線でも広島行き急行列車や貨物輸送が廃止になり、国鉄が民営化されてJRになると芸備線の新見−備後落合間は1両編成のワンマン運行となってしまいました。
 現在の東城駅(右写真)をはじめ東城町内の駅はすべて無人駅になってしまいましたが、JR芸備線は住民の通勤・通学・通院の貴重な足として利用されています。

東城インターチェンジ  一方、道路網の整備としては、昭和五十八年(1983)に中国自動車道が全線開通し、東城町川東にも東城インターチェンジ(左写真)が開設され、東城町も高速交通時代の幕が開きました。その後、周辺の一般道路の整備も進んでいきました。
 それにより、中国自動車道や国道を利用してトラックで東城の産物を全国各地へ素早く運べるようになったと共に、豊かな自然を求めてやってくる観光バス・自家用車が東城を訪れやすくなり、さらに東城−新大阪間・東城−広島バスセンター間の高速バスが運行されるなど、新しい交通の動脈となっています。

新しい比婆郡東城町の成立
 町村合併促進法に基づき、比婆郡の旧東城町と小奴可村・八幡村・田森村・久代村・帝釈村および神石郡の新坂村のうちの新免地区の北半分と三坂地区が合併して、昭和三十年(1955)に現在の東城町が成立しました。
 かつての東城町役場は五品嶽城跡の山(通称城山)の麓にありましたが、老朽化により川東の東城中学校跡地に新築移転しました。

新しい産業の登場
 たたら製鉄の衰退・消滅とともに縮小していった東城の産業でしたが、第二次世界大戦後の石油化学工業の発展と共に、江戸時代から盆栽用の『備後砂』として珍重されていた当地に豊富に埋蔵されている良質な結晶質石灰石を原料に、昭和30年(1955)前後に重質炭酸カルシウム製造工場が次々と建設され、様々な工業製品の原料として日本全国のみならず海外でも幅広く使われるようになりました。
 また、福代地区に東城工業団地が造成され、化学工場・機械工場・食品工場・製薬工場などが進出して、いろいろな製品の製造を行っています。

 林業の分野では、建築用製材のみならず製紙原料となる木材のチップ化工場が稼働するなど、豊富な森林資源の有効利用が図られています。
 農業の分野では、第二次世界大戦後に小奴可地区で始まったリンゴ栽培が東城町内各地に広まり、東城で栽培されるリンゴは比較的糖度が高く新鮮なことから、東城の新しい特産品として親しまれています。
 また、食品に対する安全性の追求と生産者と消費者の間の信頼関係の構築を目的に、合鴨農法や有機肥料を使用して減農薬・無農薬を目指す米作り・野菜づくりなどの試みも推進されつつあります。

 昭和38年(1963)には東城町北部の道後山と南西部の帝釈峡が比婆道後帝釈国定公園に指定されたことから、春の新緑・夏の避暑・秋の紅葉・冬のスキーに多くの観光客が東城を訪れており、観光業も東城町の中心的な産業になっています。

 以上のように、豊かな自然と大地の恵みである森林資源や地下資源を有効に活用しつつ、東城の産業は環境に優しく調和のとれた発展を目指しています。


平成時代

比婆郡東城町閉町と庄原市への合併
庄原市役所東城支所  合併特例法による全国的な市町村合併の動きの中で、東城町でも住民が合併推進派と単独町政継続派に分かれた激しい論争が起き、合併推進を表明した町長と単独町制継続を決議した町議会が対立するなど町政が混乱しました。その混乱を収拾すべく何度かの選挙と住民投票が行われた結果、町議会で合併推進派が多数を占め、比婆郡他町・庄原市・総領町の合併に参加することが決定しました。
 比婆郡東城町は五十年の歴史を閉じ、平成一七年(2005)三月末日より庄原市東城町として再出発することとなりました。


 以上の「備後東城の歴史」のページの作成に際しましては、以下の文献を参考にさせていただきました。

 もし記載内容に誤りがありましたら、ご指摘いただければ幸いです。
 長文をお読みいただき、ありがとうございました。

もどる
もどる