有栖に架ける橋
(2012年1月23日内容更新)

 東城盆地の真ん中を流れる成羽川(通称:東城川)は、古くは有栖川(ありすがわ)と呼ばれ、備後東城の里を東西に分けて美しい水が絶え間なく流れています。
 その清流有栖川には、古くから地域の中心地として栄えた東城に続く道に架けられた橋をはじめ、住民の往来を支える橋が何本も架けられています。
 このページでは、東城盆地を流れる有栖川に現在架かっている橋を、上流から下流に向かってたどってみたいと思います。


猿渡橋
猿渡橋  東城川の水流を利用した川西発電所横で、上川西地区と比奈地区を結んで架けられているのが猿渡橋(さるおばし)です。
 この橋を渡って直進する道は、リフレッシュハウス東城温泉がある粟田地区や別尺桜がある千鳥地区へと続きます。また、国道314号線の旧道は、この橋を渡ってすぐの踏切の手前を左折する狭い道だったのですが、現在は道幅の広い国道314号線バイパスが開通しており、崖崩れにより通行できなくなっています。
 昔の猿渡橋は、現在より上流のJR鉄橋のあたりに架かっていましたが、県道建設に伴い現在の場所へ木造橋が架けられ、昭和二年(1927年)九月にこのあたりでは初めての鉄筋コンクリート橋に架け替えられました。
 長い間トラック一台が通れるだけの幅しかなかったのですが、すぐ横に上下一車線の新しい橋が架けられて、前の猿渡橋は歩道として残っています。


八幡橋
八幡橋  雇用促進と定住者住宅確保を目的とした宮平団地が造成されましたが、国道314線と宮平団地を結ぶために架けられたのが八幡橋(はちまんばし)です。この橋は上下一車線づつの道路と歩道が確保された新しい橋です。
 名前の由来は、近くにある川西八幡神社にちなんだものと思われます。ただし、宮平団地と川西八幡神社との間にJR芸備線が横切っていますので、この橋を渡っては八幡神社には参拝できません。
 宮平団地にはたくさんの一戸建て住宅とアパートが建ち並び、新しい街並みを作っています。


宮平橋
宮平橋  国道314号線から老人ホーム東寿園の前の小道を入っていくと、トラック一台が通行できる車道と歩道のついた宮平橋(みやびらばし)を渡ります。
 突き当たりの踏切を渡ると、左へは川西八幡神社へ続く道が、右へは若松地区を通って千手寺前から市頭地区へ続く道があります。
 かつて、ここには国鉄線路に敷く砂利の採取場があり、引き込み線路に砂利運搬専用貨車が止まって、時々SLが引っ張っていたのを覚えています。今では砂利の採取は行われておらず、むき出しの岩肌だけが当時の面影を残しているだけです。


若松橋
若松橋  国道314号線をさらに川下方向に走り、東城高校の手前で若松地区にある日東粉化工業東城工場との間に架かっているのが、若松橋(わかまつばし)です。この橋は、普通乗用車1台がぎりぎり通れるだけの幅しかありません。
 若松橋付近の川岸は上車(かみぐるま)と呼ばれ、流れが緩くなって川幅が広く深さもあることから、学校にプールがなかった昔から子供達の水泳の場所になっていたところです。学校にプールができた今では遊泳禁止となっているようで、泳ぎに来る地元の子供はほとんどいなくなっています。
 昔子供同士で勇気の有無を試す方法として、上車の高い岩場から川の深みに飛び込めるかどうかどうかを競っていた思い出があります。年長者の中には、若松橋の上から川に飛び込んでいた強者もいました。


駅前橋
駅前橋  東城の住宅密集地に入り、JR東城駅前から上市地区を抜けて国道314号線川西バイパスへ延びる道に架かっているのが駅前橋(えきまえばし)です。列車・バス通学の高校生は、東城駅前からこの橋を渡って東城高校へ向かいます。
 駅前橋は、昭和五年(1930年)に東城駅が開設されたことから、上市地区に通じる私道を造り、川下の大橋の古材の払い下げを受けて当初は木造橋として架けられましたが、昭和十二年(1937年)に鉄筋コンクリート橋に架け替えられました。
 長年駅前からの往来を支えていた前の駅前橋も老朽化がはげしくなり、大型車同士がすれ違いができるだけの幅がなかったため、都市計画に基づき駅前からの道路が拡幅され、平成一六年(2004年)に歩道を備えた道幅の広い新しい橋へ架け替えられました。


大 橋
大橋  昔の備中国からの街道が備後国に入って旧東城の街につながる道に架けられた橋が、大橋(おおはし)です。大橋を渡って東城中心街に入るあたりを「備中町(びっちゅうまち)」と呼ぶのはその名残です。
 かつての大橋は木造の板橋でしたが、国鉄芸備線が開通した昭和五年(1930年)ごろに「備中町」の道幅が拡張されたことに伴い、現在の鉄筋コンクリート橋に架け替えられました。
 大橋付近の川底には、甌穴(おうけつ)と呼ばれる円形のくぼみが多数見られ、県の天然記念物に指定されています。


中央橋
中央橋  旧東城市街地の中心であった本町地区から桜町地区へ渡るのに便利なように架けられた橋が中央橋(ちゅうおうばし)です。
 中央橋ができるまでは、本町地区から桜町地区へ渡るのには上流の大橋か下流の栃木橋へ遠回りしなければならなかったため、地域住民の要望により昭和四十二年(1967年)に架けられました。
 中央橋の東側には川に沿って桜の木がたくさん植えられており、桜の開花時期には桜町通りを散歩する住民の目を楽しませています。


城山橋
城山橋  平成16年(2004年)春に開通した東城郵便局前交差点から国道314号線川西バイパスに接続するための城山の麓へ向かう直線道路のために架けられた橋が城山橋(しろやまはし)です。
 城山橋の欄干には、東城の伝統行事「お通り」をかたどったレリーフが組み込まれており、橋を歩いて渡る人々の目を楽しませています。


栃木橋
栃木橋  新町地区から東城小学校正門に続く道に架けられているのが栃木橋(とちぎばし)です。旧東城市街地から学校に通う子供達の多くがこの橋を渡ります。
 かつてこの付近にあった射場のところに架かっていた木造橋を射場橋(いばばし)と呼んでいましたが、昭和二十五年の豪雨により流失したため、昭和二十六年(1951年)八月に現在の鉄筋コンクリート橋に架け替えられました。
 橋の架け替えにあたり、現在の東城小学校校舎建築に多額の寄付をして学校教育振興に大きな貢献をされた東城町福代出身の実業家栃木順作氏の功績を讃えて、栃木橋と改名されました。


五反田橋
五反田橋  国道182号線が上帝釈・庄原方面に向かう県道につながるところに架けられているのが、五反田橋(ごたんだばし)です。国道橋ですので、十分な車道幅と歩道が備えられています。
 五反田橋が架けられる前には上流30メートルあたりに木造橋が架けられていましたが、昭和三十六年(1961年)九月の洪水で流出してしまいました。
 当時の都市計画で現在の大橋東詰交差点から東城消防署横の交差点までの産業道路の建設が進められていましたので、産業道路と上帝釈・庄原方面への県道をつなぐ道として現在の五反田橋に架け替えられました。


新大橋
新大橋  福山方面へ向かう国道182号線と神龍湖に向かう県道が分岐する友末交差点から、中国自動車道東城インターチェンジへつながる国道バイパスに架けられているのが新大橋(しんおおはし)です。新大橋は、左折車線を含む三車線の車道と車道の両側に歩道を備えた幅の広い橋です。新大橋のすぐ下流では、中国自動車道が川を跨いでいます。
 かつてこの場所には川の東側にあった鯉の池や農地へ渡る手段として使われていた鉄筋コンクリート製の幅の狭い農道橋がありましたが、昭和五十三年(1978年)の中国自動車道開通にあわせて建設された国道182号線バイパスの一部として架け替えられました。


 新大橋と中国自動車道をくぐった有栖川は、東城盆地に別れを告げて下滝峡谷の間を南へと流れていきます。

 有栖川に架かるこれらの橋は、備後東城の里で生活する人々の往来を静かに支えています。

参考資料:東城小学校創立百周年記念誌『五品嶽』(昭和58年発行)

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