備後東城タイムマシン

 勤務先の工場事務所に、明治40年(1907年)頃の東城の風景を何枚か撮影し横に貼り合わせた白黒パノラマ写真が掲示されています。
 そこで、平成16年(2004年)の東城の風景をほぼ同じ場所から撮影し、上下に並べてみました。


明治40年頃の東城

平成16年の東城

【 解 説 】

 上の明治40年頃の写真は、千手寺境内から撮影されたものです。写真右端の広場に万国旗のようなものが見えますので、運動会のような催しの時に撮影されたもののようです。
 川の手前側に架かっている木造の橋が大橋で、岡山県からの街道が東城の中心街に至るところ架けられていました。このころにはまだ国鉄芸備線は開通していませんでしたから、川より手前の川東地区は、街道沿いに商家が連なる以外はほとんどが水田でした。
 川下側に見える橋が、現在の栃木橋のところに架かっていた射場橋です。射場橋の左側に見える白い建物は、隔離病舎だそうです。
 大橋の右斜め上の城山のふもとに見える2階建ての建物が、小学校の校舎です。当時の小学校は東城の街の中にありました。なお、この頃中学校はまだありませんでした。
 当時の東城中心街の街並は、現在の上の町あたりから始まり新町・新丁まで家屋が途切れることなく続いていたことがわかります。

 昭和のはじめに国鉄芸備線が開通し東城駅が開設され、それに伴う道路整備が進んだことにより、川東側にも家屋が建ち並び、平成16年の写真には水田が全く見えなくなりました。
 さらに平成16年春に国道314号線川西バイパスが開通したため、城山の下の方にはコンクリート製の大きな擁壁ができました。
 今から90年後には、備後東城の里はどのように変わっているでしょうか?


 どちらの写真も横長のためご覧のディスプレイ解像度によっては画面から大きくはみ出してしまい、多少見にくかったことをお許し下さい。

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