34号 2000年7月
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ニューウェーヴに関してなら、〈季刊NW‐SF〉の殊に初期ナンバーは、基本中のキホンの基礎資料と言っていいだろう。うーむ、〈悪魔運動〉入手以前には読んだはずでも、ぼくのアンテナじゃちっとも引っかからなかったちゅうことですかい? 帰宅後、早速第2号をめくる。どこだ、どこだ!? おおっ、これだ18ページ。その1ページのコラム「NW・NW・NW」に、ぼくの求めた全てがあった。
「10年近くも昔の62年に、すでにSFを「スペキュレイティヴ・フィクション」と考えようとする論文を発表していた人がいる。丁度バラードの「内宇宙への道はどれか」と同じ年である。/「悪魔運動」というリトルマガジンに発表された「SF論序」がそれで、著者は小堀生という人である。」
「むろん、スペキュレイティヴ・フィクションという用語が発明されたのはハインラインによってであるが、それが現在の「ニューウェーヴ」のような作品となって登場したのはバラードによってである。しかしバラードと同時に日本に於いて、同じような意味でSFをスペキュレイティヴ・フィクションと考えたいといっていたのは、一つの発見」
ああ〜(涙)、つまりナンですか、ぼくは四半世紀ぶりに同じ「発見」を、極めて個人的にしただけなのね。しかも紹介の文脈まで近い気がするし、〈悪魔運動〉からの引用も同じ箇所だし(笑)。気を取り直して続けよう。「さて、この小堀生という耳慣れない名の著者は誰か?」「捜しあてたところ、大久保そりや氏のもう一つのペンネームであることが判った。」って、大久保そりやですか〜〜!!
SF界に関わりある人物が浮かび上がったので逆に驚いたけど、皆さんはどう? とりあえず「ほんとひみつ」では、三村美衣さんほか数人の方(だけ)は反応があったので一安心。後で〈悪魔運動〉第2号を見直したら、おおくぼそりや名義で「ウツツからサシダシへ」というのも掲載されてるじゃん。
しかし確かに、言われてみると何から何まで当てはまる。文章がえらく読みにくい所が特に(笑)。ホント言うと「SF論序」には、引用という抜き書きの状態で“使える”文脈は、ぼくが(そして〈季刊NW‐SF〉が)使用した箇所以外に見当たらない。引用が重複するのはむしろ必然であるのだ。
「次号では当然この「NW‐SF」の先駆者に登場願うつもりであるが、当人の都合さえつけば、おそらく氏の難解な文に接することができることと思う。ともかく、ここではひと昔前の氏のエッセイに敬意を表しておきたい。」と「NW・NW・NW」を結んでいる通り、大久保そりやは第3号(1971年3月)に「共産主義的SF論〈上〉」を引っ提げ、SF界へカムバックを果たす。ヤルな!
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しからば当然、第4号(71年8月)が中か下になるはずかと思えば、さにあらず。「連載評論第2回」と銘打たれ、後記にて「次号第3回で終了予定の、大久保そりや氏「共産主義的SF論」は、予定を変更して長期連載になりました。」という報告がなされる。そこでは同時に、「私(編集人佐藤昇)が氏を訪ねた時、SFに於いてその思弁の方法が問題である、というようなことを言っておられましたが、この評論は、当然今までのSF界には無い、氏独特の厳密さをもったSF論であり、さらに氏の一連の芸術論の集大成とでもいうべきものになりそうです。」とも付記され、著者・編集部双方の思わくの一端が伺われる。
これがまた、長期も長期の大連載へ発展することになるのだ。第9回(74年9月)掲載の連載第7回末尾には、「今回にて序論が終り、次号からはいよいよ本論に入ります。御期待下さい。(編集部)」なんぞという衝撃の追記(笑)を発見したり、第16号(80年9月)掲載の連載第14回からは、新たに「―ゆかげ・むつろま」という聞き慣れない副題(3段組1ページの「副題について」あり)が加わったり、全く収束する気配がない。そしてついに、〈季刊NW‐SF〉の休刊第18号(82年12月)まで一度も途切れることなく、11年以上に渡る16回の連載を続け、なお未完のままである。※註、既にお気付きかと思うが、〈季刊NW‐SF〉が年に4回出ると思われた方は〈季刊NW‐SF〉を甘く見過ぎている。猛省を望む<ってオイ!
大久保そりやはその後、『内側の世界』(ロバート・シルヴァーバーグ著、サンリオSF文庫86年)の翻訳(妻の小川みよと共訳)を物すが、表舞台から姿を消す。身近な〈季刊NW‐SF〉関係者の、SFセミナー実行委員長、永田弘太郎さん(NW‐SFワークショップ常連、80年2月第15号に「囚われの時間」発表)に伺ったところ、「山野浩一の友達らしいけど、ぼくは面識ないね」とのことでした。
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「NW・NW・NW」から察するに、どうやら〈悪魔運動〉は、ぼくの所有する第3号までの発行と見てよさそうだ。それから〈季刊NW‐SF〉休刊まで20年。この長い時を費やし、大久保そりやは何を主張しようとしたのか?
「読み切った奴はいない」「いや、3人だけいる」などと、ディレイニーの未訳の大作『Dhalgren』を凌ぐ(笑)噂がまことしやかに囁かれる「共産主義的SF論」だけに、読んでも読んでも分からないどころか、読むことさえ絶対的に拒絶させる難解さに満ちている。テキストあれど、永遠の謎なのだ。
あとがき
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