34号                                                           2000年7月

 

 

書店員はスリップの夢を見るか?

 再販制の問題が叫ばれて久しいが、出版業界本や業界新聞を読んだりしても、どうもイマイチいいアイデアに出会えなかった。が、先日ついに見つけた。最も現場に即していて、効果的と思われるものを!

 それは本の雑誌8月号の「21世紀書店改造計画私案」という、ジュンクの副店長のご意見である。

 曰く、「書店は小売ではない。問屋から勝手に商品が入ってくるし、即払いの委託というのもおかしい。対策としては委託をやめて買取にし、再販制を残すものは10年間絶版不可。買取は事前注文分は正味(書店の利益)を多くする。つまり、自分の店ならこの本はどのくらい売れるか、きちんと予測できる書店は儲かるような仕組みにして欲しい」というのがその概略。

 業界外の方にはわかりにくいとは思うが、つまり頑張る書店・出版社だけが生き残れるシステムである。私はかなり賛成なのだが。

 

今月の乱読めった斬り!

『慟哭』☆☆☆☆☆(貫井徳郎、創元推理文庫)

 読了後、直ちに決定した。これは今年半期の、いやもしかしたら今年1年を通しての、ワタクシ的ベスト1である。

 …まさに『慟哭』。このタイトルが、すべてを語っている。なんと、なんと辛い物語だろう。これはもはや、悲しみなどというレベルではない。血を吐くほどの魂の叫び、心に空いた深く大きな暗い穴。この「穴」を目の当たりにしたとき、あなたはどうするだろう。私はラストの一行を読み終え、涙が止まらなかった。これは子供を持つ人間には痛過ぎる。本当に。

 ある幼女誘拐殺人事件が発生する。その捜査の担当責任者である捜査一課長、佐伯の章と、もうひとりの男の章が交互に語られる、という形式で物語は進行する。佐伯らの必死の捜査は遅々として進まず、やがて第2、第3の殺人が起きてしまう…。

 著者はこれがデビュー作とか。実に驚くべきことである。すでに全てが見事に完成されているのだ。危なげなところが全くない。まず文章が非常にうまい。洗練された落ち着いた大人の文章といった印象。派手さはないが、読んでいて安心感がある。情景描写もさることながら、人間の心理描写がまた実に巧みで説得力があるのだ。登場人物それぞれの心の痛み、微妙な心の揺れがよく描けている。

 ミステリとしての出来も文句なしに素晴らしい。この手法には深く感嘆させられた。賞賛の溜息をつくのみである。

 トリック構成の見事さと、そして何より読む者の心をえぐらずにはおれない、淡々としながらも心の奥底まで深く突き刺さる心理描写の筆力に、文字通り打ちのめされてしまった。最後にもう一度だけ。「慟哭」。

『エンジン・サマー』☆☆☆☆(ジョン・クロウリー、福武書店)

 実に美しく不思議で、難しい物語だった。文章自体は平易なのだが、すべてが象徴や寓話に満ちていて、意味深なのである。さまざまなキーワードが登場するのだが、著者はあえて説明をしない。おのおの、読者の好きなように解釈せよ、とのことであろう。

 これは、あるインディアン系の少年「灯心草」によって語られる、彼の物語だ。と同時に、彼の住む世界の物語だ。今の文明が「嵐」によってすべて滅亡し、その後のはるか未来、かつての失われた文明の残骸があちこちに残る中、細々と生き残った人々が集落を作り暮らしている時代の物語だ。

 という設定に何かピンときませんか?私は「これは『風の谷のナウシカ』か、はたまた『天空の城ラピュタ』か?」と思ったのだが。

 「灯心草」は、天使と呼ばれる少女に、「真実の語り」を語る。この語りが実に深みがあって素晴らしい。「物語を読む」という喜びに浸れるとはまさしくこのことであろう。それも、子供の頃に大人に聞かせてもらったおとぎ話のような物語だ。しみじみと美しく、牧歌的で、穏やかなインディアンたちの暮らしがとっぷり味わえる物語だ。静かで暖かな気持ちになれる物語だ。いつまでもこの本の中に浸っていたいような物語だ。さらに、これはひとりの少年の成長譚でもある。今の文明への皮肉、警告でもある。それら全てが、宝石のように美しい言葉で語られているのだ。

 と思っていたら、ラストでいっきにSFになったのには驚き。なんともいえない切なさに、じんと心が震えた。世にも美しいSF。

『新生の街』☆☆☆☆(S・J・ローザン、創元推理文庫)

 リディアというニューヨークのチャイナタウンに暮らす中国人の女性探偵と、その相棒である白人中年男性のビルのコンビが活躍するシリーズ第3弾。このシリーズは、一編ごとに主人公が交代するという、なかなかユニークな趣向を凝らしている。今回はリディアが主人公。彼女の請け負った、デビュー目前のデザイナーのスケッチ盗難事件が発端。が、ずるずると芋づる式に厄介事が持ち上がる。

 いわゆる探偵小説。謎解き、というより、探偵であるリディアの活躍がなんといってもメインなのだ。これが実にいい。どんなに危険な目にあっても、母親達から猛反対されようとも、めげることなく探偵という仕事を心から愛し、誇りを持ち、全力をかけて取り組む。この頑張りには、心から応援のエールを送らずにはいられない。

 相棒のビルの、公私共々のさりげないサポートと優しさがまたいい。実はリディアを愛していて、ことあるごとに冗談めかして彼女を口説いてるのだが、決してゴリ押しはしない。彼女はそのアタックに対し、今、心情的に非常に微妙なところにいるのだが、そこをよくわかっていて、すっと引く。この性急にガツガツしないあたりが、オトナの余裕。紳士。実に素敵ではないか。

 また文章が非常にうまい。会話のあとのちょっとした一文などが、心憎いほどにカッコイイのだ。極力抑えたクールな筆致のセンスの良さにほれぼれする。上質な文章を読む幸福に浸れる。

『放課後』☆☆☆(東野圭吾、講談社文庫)

 ほぼ10年ほど前の乱歩賞受賞作。

 舞台はある女子高。主人公は、成り行きでこの職についたという、男性教師。彼は、ここ何度か命を狙われる目にあう。そしてある日、校内の更衣室で、生徒指導の教師が毒殺されるという事件が起きる。やがて、第2の殺人が…。

 著者が、密室トリックというミステリのお約束に、誠心誠意取り組んでいる姿勢に好感が持てる。文章の細部にも気を使い、非常に用意周到に、隙なく計算された緻密な構成は見事。これぞまさしく、推理小説といえるであろう。

 しかし、彼の作品は、どうしてどれもこう読後感が重いのか。心にずしんとくる。故意や純然たる悪意などでなく(それもあるといえばあるが)、人間としてのどうしようもない感情から起きる悲劇。誰が悪いわけでもない。だから、なおさらやりきれない。そんな話が多いように思う。

 

特集 2000年上半期私的ベスト10

 お約束な企画で恐縮だが、今年の1〜6月に私が読んだ本の中からベストを選んでみた。あくまでワタクシ的「面白さ」でセレクトしてみました。
 

★1位 『慟哭』貫井徳郎、創元推理文庫

 これはもう文句ナシ!超決定!どんな方にオススメしてもご満足いただける一冊だと思います。詳しくは今月の乱読をどうぞ。

★2位 『魔法飛行』加納朋子、創元推理文庫

 優しさ・温かさとミステリ手法が見事にマッチした傑作。ラストまで読むと、いかに伏線をうまく張って構成された作品なのかがわかり、改めてうならされる。ふんわりした読後感が魅力のミステリ。

★3位 『雨の檻』菅浩江、ハヤカワ文庫

 切ないとかいうレベルを遥かに超える、心のアキレス腱にささるような痛いSF。著者の瑞々しいセンスがあふれる短篇集。SFモノにはこたえられないでしょう。っていうか皆とっくに読んでるよね。

★4位 『月の裏側』恩田陸、幻冬舎

 某作品のオマージュなので、ストーリー的にはすでにネタバレ同然なのだが、それでも怖かった!それはなんといっても、著者の描写のうまさによるものであろう。田舎の町の、真っ暗な夜の雰囲気、雨の音。それらの雰囲気をまさに肌で感じることができる一冊。登場人物のキャラも立っててよい。

★5位 『エンジン・サマー』ジョン・クロウリー、福武書店

 大傑作なのだが、私は5位。なぜなら、今の私はまだこの作品を正統に評価しうるだけの技量を持ち合わせていないからである。もしかすると、この物語を完全に読み込むには、一生かかっても不可能かもしれない。いつの日か、これを1位に挙げることのできる日が来るだろうか。

★6位 『ハンニバル(上・下)』トマス・ハリス、新潮文庫

 結末その他に賛否両論の本書だが、やはりぐいぐい読ませるあの圧倒的な彼の筆力にはさすがという他ない。エンタテイメントとしては申し分ないでしょう。一度は読んで損はないと思う一冊。で、次回作はまた10年後でしょうか?(笑)

★7位 『quarter mo@n』仲井拓志、角川ホラー文庫

 ネット者にはイチオシ!文章などに多少アラはあるのだが、ネットのなんとも形容しがたい不気味さが非常にうまく表現されていた。実体がなく、感情のみがひとり歩きしてしまう。まさに現代のホラーである。

★8位 『老人と犬』ジャック・ケッチャム、扶桑社文庫

 老人リベンジもの(笑)。宮部みゆきの『クロスファイア』を読んで面白かったとおっしゃる向きには是非オススメ。おじいちゃんがむちゃくちゃカッコイイのだ!

★9位 『薔薇の木枇杷の木檸檬の木』江國香織、集英社

 恋愛小説のお好きな方にオススメしたい一冊。いろんな男性・女性のさまざまな愛が出てきます。自分とは全く違うのに、なぜか共感してしまうのだ、この人の本は。

★10位 『言壷』神林長平、中公文庫

 神林さんの言語実験小説。好みの分かれる本だとは思うが、ワープロやパソコンで文章を書いている人間、あるいは書いたことのある人間なら面白く読めるハズ。あなたの何かを揺さぶられるでしょう。
  

 

ダイジマンのSF出たトコ勝負!

   さてさて、注目の謎の行方は、果たして如何なる結末を迎えるか?とは言えぼく自身、〈悪魔運動〉はもちろん、その後のSF界と接触していないような雰囲気の小堀生の正体に、まさか辿り着ける日が来ようとは思わなかった。SFセミナーで紹介した時でさえ。

 だが真実は、えてして思いがけなく訪れる。あれは、そう「ホシヅルの日」だ。ロビーで出会った牧眞司さんは、ぼくの顔を見るなり、コーラを飲みながらコトも無げに仰った。「ああ、前にセミナーで言ってた同人誌のアレね。調べ物探してたら、たまたま見つけてね」と来たもんだ! どっひゃ〜と驚くと同時に、何かの折に引っかかるべく立てられた、牧さんのアンテナの片鱗を垣間見たような気がした。こう在りたいものである。

 それで〈悪魔運動〉に言及している文献だが、ナント、これがジャパニーズ・ニューウェーヴの総本山、〈季刊NW‐SF〉らしいのだ! それも日本における「スペキュレイティヴ・フィクション」を構築するため、評論の紹介で理論武装に邁進していた、ある意味最もNWらしかった第2号(1970年11月)だなんて、全くの不覚っ!

 ニューウェーヴに関してなら、〈季刊NW‐SF〉の殊に初期ナンバーは、基本中のキホンの基礎資料と言っていいだろう。うーむ、〈悪魔運動〉入手以前には読んだはずでも、ぼくのアンテナじゃちっとも引っかからなかったちゅうことですかい? 帰宅後、早速第2号をめくる。どこだ、どこだ!? おおっ、これだ18ページ。その1ページのコラム「NW・NW・NW」に、ぼくの求めた全てがあった。

 「10年近くも昔の62年に、すでにSFを「スペキュレイティヴ・フィクション」と考えようとする論文を発表していた人がいる。丁度バラードの「内宇宙への道はどれか」と同じ年である。/「悪魔運動」というリトルマガジンに発表された「SF論序」がそれで、著者は小堀生という人である。」

 「むろん、スペキュレイティヴ・フィクションという用語が発明されたのはハインラインによってであるが、それが現在の「ニューウェーヴ」のような作品となって登場したのはバラードによってである。しかしバラードと同時に日本に於いて、同じような意味でSFをスペキュレイティヴ・フィクションと考えたいといっていたのは、一つの発見」

 ああ〜(涙)、つまりナンですか、ぼくは四半世紀ぶりに同じ「発見」を、極めて個人的にしただけなのね。しかも紹介の文脈まで近い気がするし、〈悪魔運動〉からの引用も同じ箇所だし(笑)。気を取り直して続けよう。「さて、この小堀生という耳慣れない名の著者は誰か?」「捜しあてたところ、大久保そりや氏のもう一つのペンネームであることが判った。」って、大久保そりやですか〜〜!!

 SF界に関わりある人物が浮かび上がったので逆に驚いたけど、皆さんはどう? とりあえず「ほんとひみつ」では、三村美衣さんほか数人の方(だけ)は反応があったので一安心。後で〈悪魔運動〉第2号を見直したら、おおくぼそりや名義で「ウツツからサシダシへ」というのも掲載されてるじゃん。

 しかし確かに、言われてみると何から何まで当てはまる。文章がえらく読みにくい所が特に(笑)。ホント言うと「SF論序」には、引用という抜き書きの状態で“使える”文脈は、ぼくが(そして〈季刊NW‐SF〉が)使用した箇所以外に見当たらない。引用が重複するのはむしろ必然であるのだ。

 「次号では当然この「NW‐SF」の先駆者に登場願うつもりであるが、当人の都合さえつけば、おそらく氏の難解な文に接することができることと思う。ともかく、ここではひと昔前の氏のエッセイに敬意を表しておきたい。」と「NW・NW・NW」を結んでいる通り、大久保そりやは第3号(1971年3月)に「共産主義的SF論〈上〉」を引っ提げ、SF界へカムバックを果たす。ヤルな!

 しからば当然、第4号(71年8月)が中か下になるはずかと思えば、さにあらず。「連載評論第2回」と銘打たれ、後記にて「次号第3回で終了予定の、大久保そりや氏「共産主義的SF論」は、予定を変更して長期連載になりました。」という報告がなされる。そこでは同時に、「私(編集人佐藤昇)が氏を訪ねた時、SFに於いてその思弁の方法が問題である、というようなことを言っておられましたが、この評論は、当然今までのSF界には無い、氏独特の厳密さをもったSF論であり、さらに氏の一連の芸術論の集大成とでもいうべきものになりそうです。」とも付記され、著者・編集部双方の思わくの一端が伺われる。

 これがまた、長期も長期の大連載へ発展することになるのだ。第9回(74年9月)掲載の連載第7回末尾には、「今回にて序論が終り、次号からはいよいよ本論に入ります。御期待下さい。(編集部)」なんぞという衝撃の追記(笑)を発見したり、第16号(80年9月)掲載の連載第14回からは、新たに「―ゆかげ・むつろま」という聞き慣れない副題(3段組1ページの「副題について」あり)が加わったり、全く収束する気配がない。そしてついに、〈季刊NW‐SF〉の休刊第18号(82年12月)まで一度も途切れることなく、11年以上に渡る16回の連載を続け、なお未完のままである。※註、既にお気付きかと思うが、〈季刊NW‐SF〉が年に4回出ると思われた方は〈季刊NW‐SF〉を甘く見過ぎている。猛省を望む<ってオイ!

 大久保そりやはその後、『内側の世界』(ロバート・シルヴァーバーグ著、サンリオSF文庫86年)の翻訳(妻の小川みよと共訳)を物すが、表舞台から姿を消す。身近な〈季刊NW‐SF〉関係者の、SFセミナー実行委員長、永田弘太郎さん(NW‐SFワークショップ常連、80年2月第15号に「囚われの時間」発表)に伺ったところ、「山野浩一の友達らしいけど、ぼくは面識ないね」とのことでした。

 「NW・NW・NW」から察するに、どうやら〈悪魔運動〉は、ぼくの所有する第3号までの発行と見てよさそうだ。それから〈季刊NW‐SF〉休刊まで20年。この長い時を費やし、大久保そりやは何を主張しようとしたのか? 「読み切った奴はいない」「いや、3人だけいる」などと、ディレイニーの未訳の大作『Dhalgren』を凌ぐ(笑)噂がまことしやかに囁かれる「共産主義的SF論」だけに、読んでも読んでも分からないどころか、読むことさえ絶対的に拒絶させる難解さに満ちている。テキストあれど、永遠の謎なのだ。 

 

あとがき

 今月は、七夕に「ファイナルファンタジー9」が発売されてしまったため、思いっきり読書ペースが落ちてます〜。すみませ〜ん。さて今回はクリアできるかな?やや不安…。(安田ママ)


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