47号                                                           2001年8月

 

 

書店員はスリップの夢を見るか?

 先日読んだ、『センセイの鞄』(川上弘美、平凡社)にむちゃくちゃ感動してしまった。すっかり川上弘美にホレこみ、この方の本で在庫してるものを、店からほぼありったけ買い込んでしまった。もったいないのでまだ全部は読んでない。ちびりちびりと味わうつもりである。

 『センセイの鞄』はどうやら各所で絶賛されており、そのため平凡社もどかっと増刷してくれて、好調に売れているようである。何がうれしいって、自分の好きな本が売れるほど、書店員にとってうれしいことはない。

 この勢いに乗じて、当店ではなんと「恋愛小説フェア」まで展開してしまった(笑)。が、ただ漫然と並べただけでは、今のお客様はお財布の紐がなかなか固くて難しい。で、思い切って、80点ほぼ全部に、手書きのオススメ帯を書いてみた。例えば『眠れるラプンツェル』(山本文緒、幻冬舎文庫)では「今でこそフツーの設定ですが、これが出た当時はこの年齢差はけっこう衝撃的でした」とか、『あなたが欲しい』(唯川恵、新潮文庫)では「これ、実はけっこうブラックな話なんですよ。女はこわい〜」とか、『800』(川端誠、マガジンハウス)では「『GO』がお気に召した方にぜひ!」とか。『センセイの鞄』は、もちろん「今年出た恋愛小説の、堂々ベスト1!!ぜひご一読を!!」です(笑)。

 まあ、これがどれだけ効果があるかは謎だが、1冊でも多く売れて欲しい今日この頃である。

 

今月の乱読めった斬り!

『本の業界 真空とびひざ蹴り』☆☆☆☆1/2 本の雑誌編集部 (本の雑誌社、01年6月刊)

 「真空とびひざ蹴り」とは、ご存知の方も多いと思うが、ずっと長いこと「本の雑誌」の巻頭を飾っていた名物コラムである。2001年2月号をもって、目黒考二氏が発行人を降りることになり、この連載もついに幕を閉じることとなった。このコラムの長年のファンとしては非常に残念である。その連載をまとめたのが本書である。

 改めてまとめて25年分を一気に読んだわけだが、なんというか非常に感動してしまった。いいこと書いてあるのよ、ホント。ここに書かれている業界への言葉は、どこをとっても実に深く、ずっしりと現実的重みがある。そして何より、あふれるまでの本(やその周辺の人間)への愛がある。この帯にあるように、「本を愛するすべての人へ!」あてて書かれている。出版界における問題点を、こんなにぐっさり書いた本は、いまだかつてないのではなかろうか。

 書店について、お客について、編集者について、ベスト10について、さらには図書館、古本屋、サン・ジョルディの日までと、本当に本の周辺のありとあらゆることが、多岐にわたって俎上に乗せられている。「ああ、そんなこと昔あったねえ、懐かしいなあ」というネタもあれば、「これ、今でも全然変わってないなあ」というネタもある。「ああっ、すみませんすみません〜」と、本書に平謝りしたくなる、書店員叱咤の話もある。が、書店員支援のほうが圧倒的に多くとりあげられていて、感涙モノ。ああ、よくぞ言ってくださった!と快哉を叫びたい話も幾つかある。今更ながら、目からウロコの落ちることもいっぱいあった。

 私達は、やはりこの時代の速度や出版洪水に流されて、何かとても大切なものを見失っている気がする。それを、はっと思い出させてくれるのがこの本だ。とにかくここに書かれてる意見の全てが、実に健全でまっとうなのだ。それは、本書がどこかエラソウに業界を見下した意見ではないからだ。そうではなく、逆に業界を支える底辺である読者側から、本を愛する一個人として、この業界への素朴で率直な疑問と、心からのエールが発信されているからだ。だからこそ、激しく強く共感を呼ぶのである。

 本を愛する一般読書人はもちろんのこと、全ての業界人に真摯な気持ちで読んで欲しい1冊。これを読まずに、ここ4半世紀の出版界を語るなかれ。もちろん、「本の雑誌」を一度も読んだことのない方でもオッケーですよ!

『鳥の歌いまは絶え』☆☆☆☆ ケイト・ウイルヘルム(サンリオSF文庫、82年7月刊)

 kashibaさん@猟奇の鉄人感想(2000年10月5日)を読んで以来、ずっと気になっていた本。やっと人からお借りして、読むことができた。現在の入手はかなり困難で、古書価も高いらしい。が、それだけの価値に見合う名作、傑作といっていいと思う。

 近未来。人間の環境破壊や放射能汚染により、地球上のあらゆる生物は滅びかけていた。人間もまたしかり。人口は減りつづけ、さらに加速度を増すばかり。ついに、デヴィッドの一族は、とある谷で病院を建設し、そこで禁断の実験を開始する…。

 美しくも淡々とした描写は、穏やかにゆっくりと悲劇へ向かっていく。が、その中に描かれるのは男女の愛、親子の愛、そして何より他者への愛だ。自分と他人は違うということ。だからこそどの人間もいとおしい存在であるということ。この小説は他にも非常にいろんな問題を提示しているが、私にはこのアイデンティティの問題が最も印象的であった。それはつまり、著者自身の、人間への愛だといってもいいのではないだろうか。

 環境の激変した地球で、残された人々が小さな谷でひっそりと暮らすという設定は、どこか「風の谷のナウシカ」を連想させる。どこか悲しい、ふうっと溜め息が出るような読後感も少し似ている。が、○○○○が出てくるところが、この物語をややSF色の強いものにしている(先に述べたアイデンティティの問題も、ここから発生している)。けれど、「SF」と身構えて読む必要は全くない。「ナウシカ」が多くの人にごく自然に受け入れられているように。

 豊饒な文章と、深みのある物語に惹き込まれる。ここには、SFに限らずあらゆる小説の醍醐味が含まれている。「物語」を愛する人なら、誰もがこの壮大なスケールの物語には満足の溜め息をつくであろう。出版以来、こんなに長い時を経ていても、今なお全く色褪せていない、そしてこれからも色褪せることのないであろう傑作。

『9つの殺人メルヘン』☆☆☆1/2 鯨統一郎 光文社カッパノベルス(01年、6月刊)

 グリム童話になぞらえて解かれる、9つの殺人事件。『邪馬台国はどこですか?』(創元推理文庫)をほうふつとさせる、軽妙なミステリ短篇集。やっぱ、こういう路線が鯨さんらしくていいと思うなあ。鯨さんというジャンルとして、確立させましょうよ!(と勝手なことを言ってみたり)

 とある日本酒バーでの、客たちとマスターのたあいないおしゃべりが、客のひとりである美女にかかるといつのまにかグリム童話の新解釈を使った、あっと驚くアリバイ崩しに。有栖川有栖の裏表紙の解説によると、有栖川氏がある小説の中で、アリバイ・トリックを9つのパターンに分類したことがあり(なんていう本?ご存知の方はご一報を!)、鯨氏は本書でその全てのパターンを並べることに挑戦したそうな。なーるほど、そういう実験小説でもあったのね。

 本筋には関係ないけど、なにげに挿入されたマニアックな懐かしアニメや映画やテレビ番組の話がまたおかしいのだ。30代後半〜40代くらいの方なら笑えること確実(私はほとんどわからなかったんだけど)。

 肩の力を抜いて軽〜く読める、ミステリ短篇集。軽妙で飄々とした味わいの鯨ミステリをお楽しみください。そうねえ、呑んべえの方は傍らにお酒も用意して読むともっと楽しめるのではないでしょうか(笑)。

『ぬかるんでから』☆☆☆ 佐藤哲也 文芸春秋(01年、5月刊)

 う〜ん、これはどう解釈すればいいのだろう?幻想小説?SF?ファンタジー?ワタクシ的には、「本の雑誌」8月号の「新刊めったくたガイド」で大森望氏が書いていた、「超常小説」という言い回しが一番近いだろうか。そう、椎名誠の『水域』とかの感覚に近い。

 13の短篇が収録されている。はあ、なんというか、常識を超えている。むちゃくちゃ。ああ、そうだなあ、明け方にみた奇妙でイヤ〜な悪夢を小説に仕立てたような、といってもいいのかもしれない。とにかくブッ飛んでいる。「やもりのかば」なんてアナタ、でっかいかばが天井にやもりのように張り付いたまま住んでいるんですよ(笑)。なんともいえず怖い話も多い。人間大のキリギリスはとてつもなく怖いです…。

 ただ、筆致は至って真面目。ふざけてない。非常に文章のうまい方という印象を受ける。センテンスが短いのも特徴。たたみかけるような、それでいて冷静な文体が、その異様な情景や主人公の不安感を際立たせる。

 一番好きな話は「春の訪れ」。妻が出てくる短篇はどれもすごくいい味。愛がある。「ぬかるんでから」や「記念樹」も傑作。「とかげまいり」は…あれも愛、ですよね?(笑)

 万人向けの、誰もが面白いと思ってくれる本とは言わないが、シーナ的超常小説がオッケーな方ならぜひ。

『インターネット的』☆☆☆☆ 糸井重里(PHP新書、01.7月刊)

 糸井重里といえば、あの「ほぼ日刊イトイ新聞」で驚異的なアクセス数(1日35万!)を誇るお方。今、ネットについて最も的確な意見を述べられる人といったら彼しかいないだろう!と思ってたら、どんぴしゃ。ネット者には、この本、大いに共感できること間違いナシ。なぜなら、これはあのうさんくさいeビジネスだとかIT関連みたいなインターネットの本ではなく、ずばりそのコンテンツについて書かれているからだ。そうなの、私たちがやってるのはそういうことなのよね、イトイさん!世の中のネットの何たるかを介さない人々に、この面白さを理解できない人々に、もうどんどん言ってやってクダサイ!(笑)

 ここには、「インターネットってつまるところナニ?」ってことが書かれている。今までは、インターネットってのは、コンピュータとかデジタルとかとごっちゃになった切り口で語られていた、と著者は言う。でも、ネットってのは単なる通信の道具、商売の道具じゃないのだ。人と人をつなぐもの、「人の思いが楽々と自由に無限に開放されてゆく空間」なのだ。これを著者は「インターネット的」と表現しており、もはや、こういった情報社会に生きている私達の考え方や生き方までもが「インターネット的」になってきていると述べている。

 著者は、「インターネット的」という言葉を、3つのキーワードで説明している。「リンク」と「フラット」と「シェア」。これもネット者としては、実にわかりやすく納得できる考え方だ。「リンク」はいうまでもなく、「フラット」はハンドルネームなどで肩書きをはずし、誰もが平らな位置で語れるということ。「シェア」は無償で情報を交換しあうことにより、楽しいことを共有しましょう、ということ。おいしいものは皆で一緒に食べたほうが楽しいよね、と。

 著者はインターネットの登場により、社会そのものが変革していってると述べる。更には思考法、表現法、マーケティングや消費についてまで。彼は、インターネットから発生した「インターネット的」なものの考え方いっさいがっさいを曖昧で未完成なまま、全部ひっくるめて前向きに肯定している。そこにとても好感を持った。ネットには確かに悪意も存在するけれど、それを大きく上回る、無償の善意や好意といったものが存在するということを、「ほぼ日」によって彼はいやというほどよくわかっているのだ。

 器(情報を載せて届けるお皿>ネットのしくみ)のことについての本はいっぱいあるけど、料理(人間の生み出す情報そのもの>コンテンツ)についての本はあまりない、と著者は言う。そのとおりだと思う。その意味で、この本は画期的である。ネット者の方にも、そうでない方にも、多くの方に読まれて欲しい本だ。

『ほぼ日刊イトイ新聞の本』☆☆☆☆ 糸井重里(講談社、01.4月刊)

 上記の『インターネット的』とだいぶネタがかぶってるが、こちらも非常に面白い。まさに「ほぼ日」ができるまでとその後の話なのだが、サイトを立ち上げる時のわくわく感が実によく書けている。ああ、その気持ちよくわかるよくわかる!さすがにやることのスケールは違うけど、そのサイトにかける熱い思いは、私たちと全く同じだ。毎日更新を継続するしんどさも(やっぱり彼もひどい睡眠不足に悩まされている。おお、同志よ!^^)。こんなに大変な苦労をしてるのに、1銭も儲かっていないことも。そして、そんなにキツいのに、楽しくて楽しくて仕方ない、というところも。

 『インターネット的』と違い、時系列で書かれているので、彼の気持ちや考え方の変化もよくわかって興味深い。これはまさに「ほぼ日」誕生記&成長記なので、こういう本を書いておくことは、後でとても意義あることではないか、とちょっと思った。さあ、今後、「ほぼ日」がどこに行くのか。それがとても楽しみだ。「ほぼ日」に一度もアクセスしてない方でも、じゅうぶん楽しめる1冊。

 

 

このコミックがいい!

 『西洋骨董洋菓子店』1,2巻(よしながふみ、新書館)

 とっくに紹介したつもりでいたが、まだこのコラムでは書いてなかったのね。

 これは実はサイトウマサトク@月下工房書評系さんから教わったコミック。このなんとな〜く耽美くさい絵の雰囲気に、書店で手に取っては元に戻す、を何度か繰り返していたのだが(笑)、彼に背中を押されたらかなわない!意を決して読み始めたら…これが!いいっ!!

 うん、確かにホモは若干入ってる(笑)。だが、この物語の主題というわけではない。主題は…ええと、何だろう…?(笑)そういう固いこと全くヌキで、とにかく問答無用で楽しめる話だ。舞台は、とある住宅街にぽつんと建ったケーキ屋。いろいろとワケありの超ユニークな男たち3人が働くこの店で、さまざまな人間ドラマが起こるわけ。

 このよしながふみってのは、抜群のストーリーテラーだ。いやあ、耽美界もバカにしちゃいけないね!(おっ、失礼^^)めちゃくちゃコミカルでありながら、絶妙の間で人間の心の機敏を描くのだよ、彼女。もっと言うと、オトコとかオンナとか、彼女にとってはあまり意味がないのかもしれない。人と人をつなぐ何か。ふとした心のつながり。それは愛とも呼べるかもしれないけど、そんなふうに言葉にしちゃうとなんだかそらぞらしい。強いて言うなら空気、かもしれない。「あ、今、この人とわかりあえたかも」といった一瞬の、その場の空気。そんなものが、この漫画には表現されている。大笑いさせられながらも、どこかちょっと切なく、くっと胸がつまる。そんな話だ。

 これにハマって、彼女の作品を買いまくり読みまくってしまったが、どれもオススメ。ちょっとホモ色が濃いのもありますが(笑)。でもよしながふみはイイです!出会えてよかった。マサトクさん、ありがとうっ!(ちなみに、これ、今秋ドラマ化だそうで。伝説のホモが、なんと藤井直人だっ!)

西洋骨董洋菓子店1

 

特集 SF大会「SF2001」に参加して

 今年も熱い夏がやってきた。夏といえばSF者の祭典、SF大会だ!(笑)2001年にして第40回という記念すべき大会が、地元千葉の幕張メッセにて、8月18日(土)〜19日(日)に開かれました。いつもならここで恒例のSF大会レポ(ダイジェスト版)をアップするところなのだが、今さら書き直してもアレなので、今年はパス。で、何を書くかというと、レポではなく、大会に参加していろいろ自分の中で考えたことを書いてみようと思う。

 さて、なぜ今回に限りこういう形にしたかというと。今回のSF大会で参加した企画が、どれも「SFとは何だろう?」ということを痛切に考えさせられる内容だったからである。並べてみると「SF/ミステリの今」「瀬名秀明 SFとのセカンドコンタクト」「SF作家と呼ばないで?トランスジャンル作家パネル」といったもの。どちらかというと、SF者ど真ん中企画ではなく、SFというジャンルを外側から見て、SFって何なのか、ひいては自分にとってのSFって何なのか、ということを改めて再認識させられるものばかりだったのだ。己を振り返るという点で、大いに収穫のあった大会であった。

 「SF/ミステリの今」は、その名のとおり、SFに割と近いところに位置するミステリ作家にお越しいただいて、あれこれしゃべってもらうという企画である。具体的には西澤保彦、森博嗣、綾辻行人、山田正紀が登場し、大森望が司会という形で行われた。

 ここではミステリ作家のSF観が見えて、とても面白かった。やっぱり、ミステリ作家からみたSFの定義は「難しい」らしい(笑)。「狭い」とも感じられてるような印象だった。興味深かったのは、森氏の発言で、「ミステリって、そもそもリアリティに書かれてるけど、書きたいのはアンリアリティなんですよね。SFは、書いてるのは超自然的なのに、それをどうリアルに見せるか。ロジックの見せ方が反対なんですよね」という部分。なるほどー、そういうふうに考えたことはなかったな。SFは本1冊かけて、世界を説明するとか、うなずけること多し。ミステリの場合は、ラストで一気に説明するためにいろいろ隠してなきゃいけないので、そのあたりが大変らしい。

 「瀬名秀明 SFとのセカンドコンタクト」は、最もSFとその外部との感覚のズレが如実に出た企画だったと思う。SF代表が野尻抱介と野田令子、外部側が瀬名秀明という形。これは今年のSFセミナーのリベンジみたいな企画だったのだが、あの時の一方的に瀬名さんが問いかける形式より、今回のようにSF側の人間とじかに対談する形式のほうが、ずっと明確に互いの違いが浮き彫りになって(さらには考えのすり合わせ、歩みよりもできて)よかったと思う。

 まず前半は相互理解の話、後半はSFの未来をどうしていけばいいのか、が語られた。聞いているうちに、『パラサイト・イヴ』が一部のSFファンにボコボコにされる理由が、やっとだんだんわかりかけてきた。実は今まで、あのSFファン側の拒絶反応が私には全然理解できなかったのだ。

 つまりは(ここで語られた見解では)SFって現実からSF世界へ飛躍するレベルというか段階があって、その上まできっちりと飛べば『パライヴ』は立派にSFと認められたらしい。が、いいとこまで行っておきながら、彼はそのレベルの途中までしか飛ばなかった。なので、本格SFと思って読んでたのに期待を裏切られた格好になったSFファンが怒った、といういうことらしい。

 他にもSFファンとのあれこれ(主にハードSFファン、かな)なども話題に。「これはSFではない」発言禁止などについても。私はやっぱり一部のSFファンは偏屈に見えるなあ、なんて思ってしまうのだが、このあたりのこともやっと少し理解できるようになった。これは水鏡子さんの発言がきっかけ。

 要するにSFファンの「あれはSFではない、これがSFだ」発言は、正確には「あれは(オレの考える)SFではない、これが(オレの考える)SFだ」ってことらしい。つまり人によってSFの定義ってものが全く異なるため、どれをオレ的SFと認めるかというのが、一種の自己表現、自己主張であるらしいのだ。SFファンたちの間ではそれは暗黙の了解事項であるらしいのだが、その外では通用しないので、「どうもあの人たちの言ってることはうるさそうだよね、こわいよね〜」ってな風に取られてしまっているわけだ。つまりつまり、「あれはSFではない」という発言は、あくまでその発言者個人の好みのSFじゃないってだけであって、その発言がすべて、その小説をSFから追い出そうとしてるわけではない、ということだったらしいのだ。ふへー。結局はその人の、SFへの愛ゆえの発言だったわけね。やっと、やっとつかみかけてきたよ。SF大会参加4年目にして初めて、SFファンの気持ちのはしっこが、少し見えてきた気がする。

 で、それじゃあ私の考えるSFの定義って何だろう?とちょっと考えてみた。といっても、私なんてそんな濃いSF読みでもないし、カッコイイ評論めいたことなぞ全然書けないのだが。いや、定義とちょっと違うかも。あくまで、安田ママ的SFの魅力・面白さについて(すごくおおざっぱに言っちゃうと、私はどれがSFだろうとSFでなかろうと、別に全然かまわない。SFというくくりに何をどう入れるか、なんてこたあどうでもいいです。「ふーん」てなもんです。大事なのは、その作品自体が「面白いか」!それに尽きるでしょ?だから、「面白いSFって何か」について書いてみようと思うのです)。

 ワタクシ的SFの面白さは、やっぱり、ひとことで言うなら「びっくり!」です。今現実に自分が当たり前に生きてるこの世界の常識を、ぐるりんと根底からひっくり返されちゃう驚き。例えば『さよならダイノサウルス』(ロバート・J・ソウヤー、ハヤカワ文庫SF)の、恐竜の○○の原因があーんなことだったんだよ、とか。読者の想像もつかないことを持ってきて、世界をひっくり返す、一本背負いの見事さ。この投げがいかに豪快に決まるか、だと思うのですよ。

 もうひとつは、この現実と全く異なるもうひとつの世界を、文章だけで創造しちゃうその「想像力」のすごさ。例えば『ハイペリオン』(ダン・シモンズ、ハヤカワ文庫SF)。宇宙を駆け巡る、とてつもなく壮大な物語が、この小さな文庫2冊にぎゅっと詰まってる。そのギャップの愉快さ。現実からぽーんと放り投げられて、宇宙や時間を自在に飛び交う、ひとときの夢の世界。SFは、想像力の文学だと思う。その翼をどれだけ広げ、どこまで飛べるか。

 これからまたいろいろ自分の中で変化があるかもしれないけれど、今、これを書いている2001年9月の時点では、私にとってのSFはこんなカンジ。こういったことを改めて自分自身に問い直すことができたという意味で、実に今年のSF大会は有意義でありました。来年もぜひ参加したいです。島根は遠いけどねえ〜。う〜ん。                                                                            

 

あとがき

 またしても月遅れのアップです〜>今更何を

 今回の特集を書いていて、ワタクシ的に本の面白さの大事な要素として、「驚き」が必要だったんだな、というのがなんとなくわかりました。SFに限らず、ミステリでも純文学でも、コミックでも。(安田ママ)


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