第10号 1998年7月
おかげさまで、ホームページ版の「銀河通信オンライン」も好調にアクセス数を伸ばしております。スタートした時は、「1ヶ月で10件来ればいい方だろう」などと思っていたのに、現在、ほぼひと月で700件以上!見ず知らずの方から、「リンク設定しました」などとメールをもらったり、うれしい限りです。本当にありがとうございます。
話は変わるが、今、私は胸を痛めている事がひとつある。それは、本が劣化するという、この世では避けられない事態である。
大好きな大島弓子や清水玲子のコミック本がどんどん茶色くなってゆき、ページもポロポロと背からはがれそうになりつつあるのだ。
このままでは、私がおばあさんになる頃には、もう読めないかもしれない。ど、どうしたらいいんだあ!
ドラえもんのタイムふろしきが欲しいよお、と切に願う今日この頃である。私がおばあさんになるまでに、誰か発明してくれい!
『雪が降る』☆☆☆☆(藤原伊織、講談社)
苦しい時やつらい時、たいていの人は自分のことで手一杯になるものだ。周りを見る余裕、ましてや他人を思いやることなど後回しになってしまう。
だが、この短篇集に出てくる登場人物は皆この例にあたらない。自分がどんな逆境に陥っている時でも、他人を思いやり、なんの得もない無償の行為に走る。そして自らも傷を負う。
それは彼らが人の心の痛みをよく知っている人間だからである。自分もつらい目にあったことがあるからこそ、理解できる痛み。そのために、自らの身を犠牲にしてまで行動する登場人物たちに、深い感慨を覚えずにはいられない。
この小説には、六つの短篇が収められている。
「台風」では、会社で上司から人間の尊厳を踏みにじるようないじめにあった社員が、その上司を刺してしまう。それを知っていて阻止できなかった主人公は、何の関係もない隣の課の課長なのに、辞表を出す決心をする。それは、父親の苦い思い出と、自分自身がダブるからであった。
昔、殺人をくい止められなかった父。自分も同じ致命的なミスを犯したと、主人公は自分を責める。人間の優しさと誇りを感じさせる、深い一篇。
他、「雪が降る」「銀の塩」「紅の樹」が秀逸。著者は今年で50歳。年齢の深みが漂う名作。
『野生の風』☆☆☆(村山由佳、集英社文庫)
著者は女流作家というより、恋愛作家といった方がぴったりくる人である。どの著書も、恋愛というものを中心にでんとすえて書かれている。
この著者の作品は文章にくせがないので、読みやすく、わかりやすい。従って、はっきり言うと筋書きもだいたい読める。だいたい推測どおりに決着する。もう少し変化球を出して、読者の予想を裏切ってみてもいいのではないか、とも思うのだが、彼女はいつもきっぱり豪快なストレートを投げてくる。
これは、孤高の染織家・飛鳥と、野生動物を撮るカメラマン・一馬の物語。ストーリー的には、陳腐の一歩手前なのだが、彼女にはそれを上回る何かがある。この小説でいうなら、“鮮やかさ”か。
アフリカのフラミンゴの群れ、青いタペストリーなど、目の前に情景が見えるような錯覚を覚える。
また、キャラクターの性格の“鮮やかさ”もある。周りに合わせるのを嫌い、いつも一人でいる飛鳥。プライド高く、凛とした魂を持つ彼女と、どこか似た志を持つ一馬。この二人の魅力に負うところも大。
ドラマティックな恋愛を堪能できるが、いい作家だからこそ、話にもうひとひねりほしいという欲が出てしまう。次回作に期待したい。
『邪馬台国はどこですか?』☆☆☆(鯨統一郎、創元推理文庫)
この短篇集は、96年の第三回創元推理短篇賞の応募作に加筆したものである。これをミステリとするかしないかで、選考委員はかなり悩んだらしいが、結局は最終選考までいったそうである。
歴史の中には、まだ解明されていない謎が山のようにある。例えば、表題作の「邪馬台国」にしても、いまだに九州説と畿内説の決着がついていない。そこへ、著者はさまざまな文献を引っぱり出して、綿密な推理と大胆な発想で、「邪馬台国は東北にあった」という、常識をくつがえす新説を導き出してしまうのだ。
マジメな歴史研究家が読んだら湯気を立てて怒り出すに違いない。それほどに著者の新説は斬新で、すっとぼけている。
だが、一読者として読むには実に面白い。最初はこじつけに過ぎないむちゃくちゃな発想だと笑っていても、たたみかけるような理論攻めにあい、いつのまにか著者のペースに乗せられてしまう。結末を読む頃には、「うんうん、そう考える以外にないよなあ」と納得させられてしまうのだ。
しかも、設定がバーテンダーと客の、酒を飲みながらの与太話というところも、いかにもありそう。
私のような歴史にうとい者でも面白おかしく読める、歴史エンターテイメントといった感じの小説である。著者の茶目っ気がおかしい。
『地球の緑の丘』☆☆☆☆1/2(ロバート・A・ハインライン、ハヤカワ文庫)
実はこれ、ダイジマンお勧めのSF短篇集。万人にお勧めしたい、ソフトな?SF(ハードSFより読みやすく、とっつきやすい)。
この物語は、著者の考え出した「未来史」である。全三巻で、短篇連作になっており、人間が宇宙に乗り出していく様を、時代を追って描いていくという形式になっている(発表年代はこの順ではない)。どの短篇にも、宇宙への夢と憧れがあふれている。
まるで見てきたかのような月や金星や宇宙船の様子はちっとも違和感がなく、するりと物語の中に入っていける。古めかしさもない。
簡潔で親しみやすい文章で描かれる人間たちの営みは、やはり今と全く変わらない。子供は月の上で迷子になるし、宇宙操縦士の妻は夫の身が心配で仕方ない。この、永遠に愚かで愛しい人間というものを描写する暖かいまなざしが、ハインラインの味であろう。
「鎮魂曲」「果てしない監視」は泣かせる。「帰郷」もいいぞ。ああ、私もいつか絶対月に行きたいなあ!
『ルパン三世』(モンキー・パンチ原作&監修、双葉社)
あのルパンが復活した!
このコミック、ちょっと面白いつくりになっている。というのは、脚本があの高口里純なのである。(「花のあすか組!」などが有名だが、最近はちょっとヤバイ系も書いてるらしい。)
彼女はTVの旧ルパン全作品の大ファンで、再放送をテープレコーダーで声だけ録音したそうだ。(ビデオがなかったのよ、その頃!私にも覚えがあるなあ、これ。)
で、ルパンを愛するあまり、自分でオリジナル・ストーリーを作ってしまったわけ。画は、Shusay(シューセーと読む)という別の人が書いている。
これがけっこういけてる。旧ルパンの雰囲気がよく出てるのだ。カッコよくて、大人の男で、女にめちゃ弱く、ホットなハートを持ったスーパーヒーロー。
ストーリーも大人向けでCOOLだし、絵も、かなり努力してTVのタッチに似せてある。
あのルパンシリーズを見てた方には、絶対お勧めの一冊!
ちょっと電車に乗った時、待ち合わせの相手を待つ間、お昼休みのひととき、こんなふと空いた時間に短篇はいかが?
発行人の独断だが、ハズレはないと胸をはって言えるお勧め短篇集をいくつかご紹介しよう。(持ち運びを考えて、今回は文庫に限定してセレクトしてます。)
『あなたに似た人』(ロアルド・ダール、ハヤカワ文庫
ちょっとブラックな短篇集。どの話も、人間の持つほんの少しの狂気と、それによって引き起こされる恐怖の結末が用意されている。背中がひんやりするような、夏向けのちょっとコワイお話が楽しめる。
「あなたに似た人」というこの題名は、ちょっと異様なこの登場人物たちは、あなたの中にもいませんか、実はあなたに似ていませんか?≠ニいう意味の皮肉である。
『ゲイルズバーグの春を愛す』(ジャック・フィニィ、ハヤカワ文庫)
こちらはファンタジックな短篇集。
古くて美しい街、ゲイルズバーグ。ここに開発の手が伸びようとすると、なぜかそれは処処の事情によりストップしてしまう。もう走ってないはずの路面電車が夜中にふと現れたり、ずっと昔の消防士たちが現れ、火事を消したりするのだ。それは、街の過去が、現在を撃退しているのだ…。
このような表題作ほか、どこかノスタルジックで甘く美しいおとぎ話のようなストーリーがいっぱいの短篇集である。ほかに、「悪の魔力」「独房ファンタジア」「愛の手紙」などが秀逸。
『九マイルは遠すぎる』(ハリイ・ケメルマン、ハヤカワミステリ文庫)
「推理小説は本質的に短篇であると感じていた」という著者の序文のとおりに、これは無駄な肉を一切削ぎ落とした、本格推理短篇集の古典的名作である。
「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」たったこれだけの文章から推理に推理を重ねて、なんと殺人事件の真相を暴き出してしまう表題作は、あまりにも有名である。この一文からミステリを作ってしまうという、著者のアイデアには全く恐れ入る。
推理の醍醐味が味わえる、ミステリの原点ともいうべき小説。ミステリファン、必読!(あ、もうとっくに読んでました?失礼)
『ニューヨーク・ブルース』(ウィリアム・アイリッシュ、創元推理文庫)
これもよく出来たミステリ短篇集。ただ『九マイル〜』と異なるのは、前者が謎解きを軸にしているのに対し、こちらは人間の心理を中心に据えて書かれている。
「三時」は、妻の不貞を疑った夫が妻を殺そうとするのだが、泥棒によって、自ら仕掛けた時限爆弾と共に地下室に閉じ込められてしまう話。
三時になる前に妻に発見してもらわねば、自分はお陀仏だ。だが、帰宅した妻は全く気づかず、どんどん時計は三時に近づいていく。この夫の緊迫した心理がスリル満点。最後のひねりも見事。
著者は、暗く果てない迷宮のような人の心こそが最大のミステリだと考えているのではないだろうか。
『O・ヘンリー名作集』(O・ヘンリー、講談社文庫ほか)
私の持っている、講談社文庫版は現在品切れ未定。今、入手するなら新潮社文庫の全三巻がある。が、私個人の趣味では、新潮の大久保康雄訳より、講談社の多田幸蔵訳の方がより古典ぽくて好みなのだが。(「訳者の私見で思いきった訳をつけたところがままある」とのこと。この著者の翻訳は、古典作家の名文句や故事などが随所に入っていて、けっこう難しいらしい)
「なあんだ、O・ヘンリーかあ」と言うなかれ。有名な「最後の一葉」や「賢者の贈り物」のような、感動ものだけがO・ヘンリーだと思ってはいけない。案外、彼はシニカルな作品も多いのだ。
彼は、人間の喜怒哀楽のひとつひとつを凝縮して、ひとつの物語としてつむぎ出す。誰しも覚えのある心情だからこそ、こうして長く人々に愛され続けているのだろう。ハッピーエンドもあれば、めちゃ暗い話もある。さまざまなドラマを生み出す、生粋のストーリーテラーといえるだろう。
「二十年後」は、昔ここで二十年後の今日、再会する約束をした友人を待つ男の話(これを読んで、自分もやってみようと思った読者が、少なからずいたはずだ!)。だが、二十年の歳月は、二人の境遇を大きく変えていた。これは、皮肉な結末に終わる典型。他にも、「警官と賛美歌」などが、改心しようとした人間の良心を皮肉っていて面白い。
いやー、やっぱイイッスね。まだ始まったばかりだけど、このテのお話を語らせたら、さすがというか当然というか、もう独壇場である。なんたってネタの仕込みが違いますゼ、旦那。まったくもって、木曜の夜が楽しみである。
もうお解りですね?そうです、そうです。NHKです。人間大学です。野田昌宏です!もし皆さんの中に…否そのやうな人のゐるわけが…文字通り万に一つの可能性ながらも、まだご覧になっていないという奇特な御仁がおられるとすれば、持てる演技力の限りを振り絞り涼しい顔でさり気なさを演出しつつ、明日にでもテキストを入手なさる事をお勧めする。
焦って開店前に行かないように注意してネ(笑)。
今月は、ラヴクラフトの主要な発表舞台となった〈ウィアード・テールズ〉を取り上げます。イヤしかし〈ウィアード・テールズ〉(以下「WT」と略)ほど作品内容うんぬんを超えた、伝説の雑誌も珍しいだろう。20世紀前半アメリカにおいて大量発生しては消えていった、安価なパルプを使用した粗悪な用紙の大衆娯楽読み物雑誌、いわゆる「パルプ・マガジン」を見渡してみると、WTの30年という歴史は、単純にそのこと自体特筆すべきものがある。だが今日WTを伝説たらしめているのは、掲載作品や作家達がのちに広汎な読者を獲得したこと、そして刊行当時WTの売れ行きがそれほど芳しくなく、今となっては入手が難しいことなど様々である。
WT全279冊の中には、こんな作品、あのシリーズも…とやり始めるとそれだけで終わってしまうので、日本におけるWTアンソロジーを紹介しよう。だいたいそのテの物が複数あるだけでスゴイと思いません?他に思い付くのは、1950年の『アメージング・ストーリーズ日本語版』全7巻や、〈プラネット・ストーリーズ〉から選んだ『お祖母ちゃんと宇宙海賊』、〈ギャラクシー〉傑作選『ギャラクシー』上下巻ぐらいか。
個々の作品を越えて、初めてWT自体を特集したのが〈幻想と怪奇〉74年10月12号(終刊号)である。
「与えられた条件のなかで精いっぱい努力したことだけは、自信をもって言っておこう。」(荒俣宏)という一冊。その他には青心社やソノラマ文庫等いくつかあるが、ちょっと珍しい所で『慄然の書』(継書房75年)を挙げておこう。
マーケット・リサーチの為、内容の一部を書き込んだ不思議なハガキ≠数千人に送りつけ(いいのか?)警察に通報もされたという。造本も結構アヤシげ。
しかし何といっても、国書刊行会の『ウィアードテールズ』全5巻別巻1(84〜88年)にトドメを刺す。判型・イラスト・目次・広告・レイアウトから手紙欄、紙質に至るまで再現された、掛け値なしに素晴らしいシリーズである。ま〜ったく、日本に存在しないパルプ・サイズの本をよく出したもんじゃ。
本物WTの書影はまた別の機会に!
前回のあとがきでは妙な反響を呼んでしまい、大変お騒がせ致しました(笑)。誤解を招くようでは、まだ未熟者ですね。陳謝。(安田ママ)