3月 作家とイラスト

 今月は読者リクエスト企画第2弾、「作家とイラスト」特集が実現だ!

 映画を引き合いに出すまでもなく、SFにヴィジュアルな要素は欠かせない。多くの絵師がSF作品を彩ってきたが、中でも「この作家にこの画家あり」という、切っても切れない名コンビが存在する。

 代表はやっぱり星新一=真鍋博で決まり。同じく和田誠という強力なラインも見逃し難いけど、ぼくは真鍋博こそが星新一のベストパートナーだと譲らないのダ。

 真鍋博は早くから数多くのSFイラストを手掛けたほか、ハヤカワ文庫版アガサ・クリスティ表紙などで御記憶の方も多いだろう。シンプルで奇妙に図案化された、キラキラと楽しげで、どこか未来的印象を醸し出すイラスト…。主人公の名を記号にしてまで風俗描写を排除し、物語とアイデアの魅力で勝負することを自分に課した星新一の挑戦は、直線を多用した真鍋博の特異な画法を得て完成した、とさえ言えるのではないだろうか。

 でも、単行本での二人のコンビは、意外にも第二短篇集『ようこそ地球さん』(新潮社1961年8月)からであって、最初の『人造美人』(同2月)の表紙は、らしくないけど「ショート・ミステリイ」との副題にはピッタリな、六浦光雄のものである。

 ちなみにぼくのこの2冊は、新潮文庫版『宇宙のあいさつ』解説を担当している百目鬼恭三郎宛の、献呈署名本だったりします。

 さて、皆さんも「絵で買う」という経験が、多分(きっと)おありでしょう。ぼくにもそんな行為に走ってしまった、忘れられない本があります。さあ、何でしょう?

 刊行当時ぼくのバイブルだった『SFハンドブック』(早川書房編集部編ハヤカワ文庫SF1990年)の口絵ページで出会ったその絵のインパクトは、ガツン!と効いた。
 その本とはジョー・ホールドマン『終りなき戦い』(ハヤカワ文庫SF1985年)である。

 何処とも知れぬ惑星上、パワード・スーツに身を包んだ瀕死の機動歩兵が、独り取り残され、傷ついた体は今にも崩れ落ちる寸前。だが、それでもなお一矢を報いる。残された命を放出するかのように…。そんなまさに泥沼の構図が、『終りなき戦い』という題名を劇的なまでに表現し尽くしていた。

 ヒューゴー/ネビュラ賞ダブルクラウンとか、70年代版『宇宙の戦士』だとかの評価は後の話。加藤直之の表紙がぼくを動かしたのだ。

 デビュー直後からSFアートのトップに踊り出た加藤直之は、現在も第一線で活躍を続け、ある意味でSF画を体現する存在と言えよう。メカ描写に優れた才能を示す一方、武部本一郎に私淑し、E・R・バローズや初期《グイン・サーガ》など、冒険小説系の画風もこなす幅の広さを併せ持つ。CGを駆使した近作は、貫禄の筆致で好み。

 だが実のところ、ぼくは加藤直之の絵を“上手い”とは思わないのだ。仕事が多過ぎることもあるが、正直イタダケない出来の作品もまた、少なくない。それでも第一人者であり続けるのは何故だろうか?

 理由は言うまでもないだろう。見る者に“ホンモノ”を感じさせるツボは、技術的ファクターなどものともせずに凌駕する、強固に構築された世界観にある。どんなに空想の翼を広げようとも、その裏打ちが、ぼくたちに確かな手応えを与えてくれるのだ。SFの心の琴線に触れる“ワンダー”として。

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2月 ジュヴナイルSFはタイヘン!

 どりゃ〜!買っちまったゼ、例の本。言わずと知れた『星新一ショートショート1001』(3冊セット、新潮社98年)であります。

 星新一の業績がどうの、この本の意義がどうの、そんな事を今更言うまい。ぼくはただ、星新一という稀有なる小説家が、生涯をかけて磨き抜いた“物語の結晶”として本書を受けとめた。
 遥かな高みに登り詰めた、まさにワン・アンド・オンリーの作家であった。

 話は替わるが、最近ぼくのブックハンティング(?)の領域が、困ったことにちょっとずつ広がっている気がする。どうも気のせいではないらしい(笑)。新たなターゲットのひとつがジュヴナイルSFなのだが、これには逆の意味で困ってしまった。どうにも“本が集まらない”のである。

 執念に欠けるためなのか、この手の本にはとんとお目にかかれない。理由も無いわけじゃない。まずそもそもの部数が多くないし、子供は大体乱読だから、図書館のお世話になることは皆さんにも思い当たるでしょう?出版社側も図書館需要で成り立っている節があり、基本的にこれらは古書市場に出て来ない。たまに一般家庭からのものを見掛けたとしても、子供は文字通りの意味で“乱読”だから、落書き上等、函もカバーもあったもんじゃない(笑)。という次第で、ジュヴナイルSFにはオソロシク苦戦を強いられているが、何とか紹介できそうな本を見つけてきた(ってこれだけネ)。

 古手のSFファンなら、あるいは子供の頃に楽しんだことを懐かしく思い出されるかもしれない。レスター・デル・リーの『火星号不時着』と聞いて、「おっ、石泉社か」とピンと来た方は、かなりの通である(なんのだ?)。

 石泉社の《少年少女科学小説選集》は日本初の翻訳ジュヴナイルSFシリーズとして、1955年から21冊刊行された。中でもこの『火星号不時着』は、横田順彌の『日本SFこてん古典』の第24回で、ダイジェストを織り混ぜて詳しく紹介されている。

 面白いのは、「チャック(主人公)の大の親友となり、チャックと力をあわせ、さまざまの危険をのりこえてゆく。勇ましく思いやりのある少年。」という日本人、リューイチ・ヤマムラ(山村隆一)が活躍すること。子供たちにとても喜ばれたのではないだろうか。

 ところが!ぼくの本は石泉社ではないのだ。先の『日本SFこてん古典』の文中、「現在入手することは非常に困難だが、中でも新紀元社版『火星号不時着』は珍しい本」とされた、その新紀元社のものなのだ。表紙絵も同じ構図ながら微妙に違っている。

 この本は、59年に石泉社のシリーズを再編集のうえ出し直した、新紀元社の《宇宙科学小説集》全24巻の一冊目である。であるのはいいのだが、このシリーズ、実は『火星号不時着』を発売したのみで消えちゃった(!)幻のシリーズなのだ。よっぽど売れなかったのか、珍本たる所以である。

 「この小説は、いまから三十年ほどのちに、世界ぢゅうの人々が力をあわせてつくった、火星探検隊のロケットが、長い宇宙旅行をして、はじめて火星を探検する、空想の小説です。」という書き出しの、翻訳者福島正実のまえがき「火星は近づく」が実に泣かせる。追い討ちをかけるような、この小説の冒頭一行目はこうだ。
 「一九九〇年の春……。」

 今ぼくたちは、かつて誰も想像し得なかったような、突進するテクノロジーに囲まれている。しかし一面では、ああ、なんと未来から取り残された世界にいるのだろう!

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 99.1月 98年度ダイジマン流SF総括

 え〜、我ながら意外な展開なんだけど、チョット気が向いたもんで、98年度SFトピックを振り返ってみよう。ダイジマン流SF総括だ!

 まず年明け早々に飛び込んできた星新一の訃報に触れないようでは、すでにして何も語る資格を持ちえないであろう。ぼくはいまだに、星新一の良き読者とはとても言えない。が、影響は思わぬ所に波及した。日本SFを発見したのだ。

 おかしな言い草である。何を今更。でもね、ぼくにとってはホントの事。まあ「コロンブスの新大陸発見」みたいなものである。まっとうな読書体験を経ていないぼくは、とても尋常ではないんだけど、本当に翻訳しか読まずに生きてきた。選択したのは海外SFであり、物理的金銭的制約の下、それ以外には手を広げ(られ)なかった。あるいは、気分的にも。

 ぼくがSFにどう接してきたか、という複雑怪奇かつ単純明快な成長の過程(笑)はこの際どうでもいい。しかし、亡くなる数ヶ月前から何となく気になり始めていたとは言え、躊躇していた日本SFをためらいなく手にさせたのは、間違いなく星新一のおかげである。

 また、時期も良かった。〈SFマガジン〉500号記念オールタイム・ベストにランクインしながら入手困難であった名作群を中心に、新興のハルキ文庫が精力的に日本SFの紹介を開始したのだ。夏には「20年ぶりにSFが復活する!」のコピーでフェアを開催する程の充実を示し、文庫の柱に成長した。

 この一年で刊行された半村、小松、光瀬、山田、眉村らのズラリ並んだタイトルを見てフと思う。これらが発表されていた時代を、人は黄金時代と呼んだのではなかったか。ならば名のみ知る名作群に初めて出会うぼくらにとって、それは何を意味するのか…と。小松左京の精選短篇集などの、単なる復刻を超える活動も見せ始めて、当分目が離せそうにない。注目だ!ハルキ文庫は本気である。

 対するは、「全篇新作書下ろし」の文字が眩しい《異形コレクション》シリーズの登場である。廣済堂文庫は時代小説のイメージが強いが、コンビニ配本を背景に、ドッコイかなりの売れ行きを記録中。最初はホラー短篇集ということで敬遠してしまったが、第2弾『侵略!』の監修者井上雅彦による編集序文を読んで、心底シビレた。

 《異形コレクション》の成功は、今までにない書下ろしテーマアンソロジーシリーズという企画力も然る事ながら、プロデュースする井上雅彦の博識と情熱(!)、それを感じる作家たち(及び読者たち)の勝利であると言って良い。

 「異形」をキーワードに集うこのシリーズは、確実に短篇の新たな市場/読者を開拓した。いつの日か、これはひとつの運動であった、と評価される時が来るのかもしれない。そんなバカな?しかしぼくは期待したい。そう、日本の『危険なヴィジョン』となる日を…。

 印象判断を許して頂ければ、今年のSF界には「ジャンルとしてのSF」を確認しようとする動きが感じられた。いわゆるクズ論争≠ノ対する反応と受け止めている。個々の成立事情はどうあれ『SF大百科事典』(ジョン・クルート、グラフィック社)、『現代SF最前線』(森下一仁、双葉社)という超弩級評論資料の双璧などには、今必要とされる見取図として機能貢献している点を評価したい。

 初めての画期的なジャンルSF講座であり、ぼくたちに忘れがたい印象を刻んだ「宇宙を空想してきた人々」(野田昌宏、NHK教育)も、SFの新たな楽しみ方として特筆しておく。付け加えれば、SFは単発企画なんぞには、あまりにもったいないネタです(でしょ?)。続編の放映を切に望みます。

 さあどうだ。このSFの豊饒さ!待望の「日本SF新人賞」も設立された。氷河は溶け始めたのだ。ぼくが「SF夏の時代」説を唱える時は、(笑)マーク付き一種の逆説としてであった。だが、そろそろ…そろそろ外してもいいのではないか。そう思い始めている。

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