皇族の呼称その他

【后妃(皇后・女御・更衣)】
 帝の妻であるが、
 ・女御にょうご皇族・大臣家の娘
 ・更衣こうい大中納言・参議の娘
の中から、嫡妻(正妻)である「后きさきが選ばれる。帝と后だけが皇居で崩御できる。
 ふつう、「后」=「皇后」=「中宮」であると理解してさしつかえない。
 天皇即位と同時に后が決まるわけではない。后を立てずに終わる天皇も少なくない。また、東宮の母でありながら、皇后になれなかった一条天皇生母詮子の例もある。

【三后】
 ・皇后:当代(現在の天皇)の嫡妻
 ・皇太后:当代天皇の国母(天皇の生母)
 ・太皇太后:前代の皇后、当代の祖母など
を総称する。それぞれに「中宮職」が置かれた。

【中宮】
 ・「中宮職」は、「三后((皇后・皇太后・太皇太后)に置かれた。
 ・醍醐天皇より前は、「帝の母で后の位にあるもの」を皇太后、「帝の母で妃の位にあるもの」を皇太妃、「帝の母で夫人の位にあるもの」を皇太夫人と呼び、皇太夫人に中宮職を置き、皇后には皇后宮職を置いた。
 ・醍醐天皇の女御藤原穏子が皇后になったとき、中宮職が置かれ、「皇后」=「中宮」の構図となった。
 ・一条天皇の女御藤原定子が立后されたとき、太皇太后は冷泉皇后だった昌子内親王、皇太后は円融女御一条天皇生母藤原詮子、皇后(=中宮)に円融皇后だった藤原遵子がいて定員が埋まっていたので、定子の父摂政藤原道隆が、遵子を皇后として、置かれていた中宮職を「皇后宮職」に改称し、定子を中宮として中宮職を設置した。「皇后」と「中宮」が再分離したわけだ。ただ、この段階では、当代の嫡妻はひとりだけである。
 ・一条天皇の女御藤原彰子が入内したとき、中宮に定子が就いていたので、彰子の父藤原道長が、定子を皇后に、彰子を中宮とした。ここに、当代の嫡妻が二人となった。
 ・その後、嫡妻二人制は踏襲され、新しい方が中宮と呼ばれることになり、さらに、「皇后」は、必ずしも当代の嫡妻を指さなくなった(たとえば、当代の生母や、配偶関係のない内親王などを皇后とすることもあった)。

【上皇】
 「太上天皇」の略で、退位した天皇をいう。
 「院」ともいうが、院は、上皇の他に、法皇や女院およびその御所も指す。
 「法皇」とは、剃髪して仏門に入った上皇をいい、「太上法皇」「禅定法皇」ともいう。
 上皇が二所ある場合、第1を「本院」、第2を「新院」と呼ぶ。三所ある場合は、「本院、中の院、新院」。
 白河院院政(1086)以降、住まいは「仙洞御所」と呼ばれ、「治天の君」と称して、天皇以上の権力を振るった。

【女院にょういん・門院】
 女性の上皇相当の身分で、三后経験者などが就く。
 女院のはじまりは、円融天皇女御・一条天皇母皇太后であった、東三条院詮子(991)。
 門院号のはじまりは、一条天皇中宮であった、上東門院彰子(1026)。

【春宮とうぐう・東宮】
 皇太子(次の天皇)のことで、「日継の御子ひつぎのみこ・儲の君まうけのきみ・坊」とも呼ぶ。

【親王みこ・御子】
 天皇の子孫のうち、「親王宣下」を受けたもの。皇位継承権を持つ。
 一品〜四品の位階があり、官職としては、中務卿・式部卿・兵部卿、弾正尹、上野守・常陸守・上総守、太宰帥があったが、名誉職で、実務には関わらない。
 親王宣下に漏れたものは、四世までは皇親とされて、王と称することができ、五世は王と称することはできたが、皇親とはされなかった。また、賜姓しせいされて、源氏などとなり、臣籍に下ることもある。
 未婚の皇女は、天皇の代替わりごとに、斎宮さいぐう(伊勢神宮)・斎院みこ(賀茂神社)として(それぞれ神に奉仕する職。斎王と総称する)選ばれることもあった。

【摂政・関白】
 天皇に代わって政務を執り行う官。
 ・摂政:天皇幼少時に政務を執る。人臣摂政の始まりは、清和天皇の外祖父太政大臣藤原良房。
 ・関白:天皇元服後に政務を執る。藤原基経が始まり。
 もとは、太政大臣が、摂関に対応する官とされていたが、藤原兼家摂政就任時に、太政大臣藤原頼忠はそのままであったところから分離。
 娘や姉妹を入内させ、生まれた皇子を即位させることで、天皇の外戚(外祖父・外叔父など)となることで藤原氏は勢力を拡大してきたが、その藤原氏の長者は、たいてい摂政・関白に就き、「殿下」と呼ばれ、それが代々継承する所領を、「殿下渡領」という。

【僧の身分(僧綱)】
 ・僧官:僧正・僧都・律師
 ・僧位:法印・法眼・法橋