作編集曲 武政英策
1.南国土佐を後にして 都へ来てから幾歳ぞ 思い出します故郷の友が 門出に歌ったよさこい節を 土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た |
2.月の浜辺でたき火を囲み しばし娯楽のひとときを 俺も自慢の声張り上げて 門出に唄ったよさこい節を みませみせましょ浦戸をあけて 月の名所は桂浜 |
3.国のおやじが室戸の沖で 鯨釣ったと云うたより 僕も負けずに励んだ後で 唄うよ土佐のよさこい節を 云うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 潮吹く鯨が泳ぎよる よさこいよさこい |
戦前から戦中にかけて、NHK京都和洋管弦楽団の指揮者や映画音楽の作曲家で知られた武政英策さんは大阪の空襲で自宅焼失、昭和20年7月に先妻・貴美恵さん(25年没)の養家のある南国市に疎開、終戦後も中央に戻らず高知市内に居を構えた。以来37年余を比類なき音楽家として活動した。
『南国土佐を後にして』の原曲を耳にしたのは戦後まもないころ。酒が入った席で兵隊帰りの人が時々歌っていた。歌詞を聴いていると、中国派遣鯨部隊(四国混成部隊)の兵隊さんたちの苦労がしのばれるものだった。ただ、曲になると人によって少しずつ違う。結局、採譜した節も一部生かして、私の曲として最終的に仕上げたのが昭和27年頃。それが30年になってNHK高知放送局の電波に乗りレコード化され」、ついにペギー葉山が歌って大ヒット。発表当時は、おほめの言葉も受けたが、「戦地じゃあこんな軟弱な歌い方をしなかった」のおしかりもあった。男のバンカラ調から、似て非なる女性的なきれいなメロディーになったから、それもそうだろう。ただ、私は作曲家として私の曲を作った。自分のスタイルの曲だとの自負があった。
東京電気学校(4年生)に通学、高度の技術を身につける。
卒業後就職せず音楽一筋の道を選ぶ。後の主な実績。京都の醸造機械製作会社に入り機会改良や発明、特許申請500件前後になる。後、大阪大学航空学研究室の研究員になり、風洞実験、カタパルト技能の向上オートジャイロの低速飛行の開発にもあたった。
音楽理論の第一人者、門馬直衛や山田耕筰から音楽理論と作曲を徹底的に学んだ。昭和12年NHK京都放送局和洋管弦楽団初代指揮者。映画音楽の分野でも5年間活躍。タイトルに音楽監督として名がでたものだけで、50〜60本は数えた。市川右太衛門、大友柳太郎の主演作品や、森光子のミュージカル調の映画を担当した。
終戦後、大学の研究室はマッカーサー指令で研究室は閉鎖されたが、大学か他科へ移ってもよい」との連絡を受けた。だが残る人生を高知で音楽をやっていこうと決心、大学復帰を断る。高知での活躍。
土地土地の風土・行事を織り込んだ新しい民謡の作曲、各地の民謡・童歌の採譜。NHK高知放送局RKサロンアンサンブル指揮・作曲・編曲、素人のど自慢地区大会本番演奏、ローカル音楽番組、放送劇の音楽。アマチュアバンドの育成に力を注ぎ多くのバンドが誕生した。高知県警音楽隊、高知県職バンドも指導した。武政英策作品集 土佐ふるさとのうた より