作曲 長津 義司   監修 武政英策   作詞 北村 小夜子 編曲 酔太

土佐音頭

 1.とろり朝凪 鴎の唄によ 入り江三里は春霞 
   紺の帆傘に 白帆も揺れて 廻し打ちすりや 
   サッサ飛沫が虹を呼ぶ ソレ虹を呼ぶ
 2.高いお城も 薄紅さしてよ 迎え化粧のあで姿 
   日傘紅傘 ぱらっりとさして おどる袂に 
   サッサ吹雪の花が散る ソレ花が散る
 3.風が鳴る鳴る帆綱をかんでよ 船は帆まかせ潮まかせ 
   どうせ持つのなら 室戸の沖で 鯨釣る様な 
   サッサ豪気な男ぶり ソレ男ぶり
 
    浦戸湾(五台山より南方を展望)
 土佐湾の中央にあり、北方へひょうたん型に入り込んで、湾奥部は高知市街に接している。湾口の幅はわずか200mほどで、一説によると、その狭さから「門狭(とさ)」すなわち土佐の地名がしょうじたという。「高知県の歴史散歩より」

 昭和30年代までは風光明媚な入り江三里の浦戸湾だった。土佐音頭は、この情景を唄ったものです。今では、近代化され昔の面影を一部残すのみとなっています。

        高知城
関ヶ原の役の結果、山内一豊が国主となって入国した。一豊は旧領遠州掛川の城にならって大高坂山に高知城を築いた。現在の天守閣は1727(享保12)年の火災後の再建であるが、二重の櫓に大きな入母屋の屋根をかけ、その上に廻縁高覧付きの望楼をのせた初期の天守閣の様式をとっている。

 明治6年に高知公園として解放されたが、102棟の建物はほとんどこわされた。現在では、天守閣・懐徳館・納戸蔵・黒鉄門・西多聞・東多聞・詰門・廊下門・追手門・天守東南矢狭間塀・天守西北狭間塀・黒鉄門西北矢狭間塀・黒鉄門東南矢狭間塀・追手門西南矢狭間塀・追手門東北矢狭間の15棟が残っている。「高知県の歴史散歩・他より」

 追手筋から真正面の追手門むかうと、前面は巨大な石垣でふさがれている。ここが枡形で、敵をはばんで石垣の上にある狭間塀の三方から攻 撃できるようにしてあり、右側にある門は雄大な造りに造りになっている。
 追手門を抜けると、左側の正面に自由民権運動指導者の板垣退助の銅像があり、その左手に有る石段は、登り口は緩やかだが上に行くほど険 しくして、登りにくく下りやすい、防衛上の工夫のひとつである。しか し石段は石垣に突き当たったり曲がってのぼらなければならない。
 次の杉の段にたどりつくと、右手に内助の功で有名な山内一豊の妻の 銅像があり、正面には「秋風のふく里に妹(いも)をおきて安芸の大山 越えかてぬかも」と刻記された幕末の国学者鹿持雅澄の愛妻の碑が建てられている。
 鹿持雅澄の愛妻碑の建てれているところは今花壇公園になっているが、昔は杉の多かった所で、そのながあり北に回った場所に杉林がある。三 の丸へ行く途中に毎日2回この水を汲み上げ、藩主の住む二の丸まで運 んだという深さ18mの古井戸がある。三の丸の入り口にあたる鉄門(くろがねもん)跡は、追手門と同じ様なミニ枡形となっている。
 ここから天守閣の方を見上げると、狭間が並んでいるものや、石落としの装置があるものが目に付き、鉄棒が熊手のように突き出している忍び返しもつけられている。
 三の丸は新年などに家臣を集め儀礼を行う大書院があったところで、今は桜の木の多い公園となっており、春は花見客でにぎわいをみせる。
 二の丸は藩主の居屋敷と奥御殿とがあったところで、南側の下は梅林になっている梅の壇である。ここから本丸に通じる通路は詰門の2階の廊下で、本丸を警備する侍の詰め所になっている。
 本丸の入り口には廊下門があり、この上部に多聞櫓が建てられ、その中に旧藩主や幕末志士らの遺品が展示されている。西側には鉄板を打ち つけた黒鉄門がある。本丸御殿(懐徳館)は大小14室からなり、藩の重要書類を入れておく納戸蔵がついている。
 高さ18mの天守閣は、3層6階で、小規模ながら入母屋破風・千鳥 破風・唐破風などをとりいれており、優美な造りになっている。最上階からは高知市街や周辺の山々などを一望する事が出来る。
 城のふもとには、高知県立図書館・県立郷土文学館・武道館など諸施設があり、武道館の門は藩校であった致道館の 正門で、そのまま保存されている。
    高知県の歴史散歩 より

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