ファイル:古代大輪田泊の石椋(いわくら)   iwakura.jpg
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  昭和27年(1952年)、新川橋西の、 新川運河 浚渫工事の際に、 約.4トンの巨石20数個と、一定の間隔で打込まれた松材の杭とともに発見された。
 発見 当時は平清盛が築いた経ヶ島の一部ではないかと考えられていたが、2003年、確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から平安時代の中頃の大溝と
 建物の一部が発見された。このことにより、出土した石材は、古代大輪田泊 の石椋(いわくら)の石材であったと推定されている。  
神戸市教育委員会 兵庫区役所( 現地案内板より要約 ) 
 
  大輪田泊は、奈良時代に行基が築いたされる五泊のひとつである。神宮皇后伝説が、神戸市内各所にあり、奈良時代以前から港として知られていたと考えられる。
 平安時代には、たえず修築が行われたが、律令国家の衰退とともに放置されるようになっていた。この石材は奈良時代から平安時代中頃のものと推定されている。
 平清盛は、大輪田泊のある神戸市兵庫区を中心に、福原京を建設、遷都し、人工島を築くなど、港の整備、拡充を計った。
 
 
 来迎寺   神戸市兵庫区島上町2-1-3
 妓王・妓女の塔 ( 清盛の寵姫 妓王と妓女の墓 ) 松王小児入海之碑
  妓王,妓女は、嵯峨野に庵を結び仏門に入った。その後、平家が壇之浦で 経が島 築造の人柱となった松王丸の菩提を弔うため、一条天皇の勅命により建立。
 滅亡すると平家ゆかりの兵庫の八棟寺に住持して一門の菩提を弔った。 
 八棟寺は、現在の能福寺と考えられる。 / 八棟寺と法華堂の場所  
   
  来迎寺は、市営地下鉄海岸線、中央市場を下車してすぐ目の前の筑島橋をわたってすぐのところにある。門前に筑島寺という石碑が立っているが来迎寺である。
 古代大輪田泊の石椋は、来迎寺から運河沿いに西すぐの道路脇にある。すぐ後は、はしけ溜りになっている。
 新川運河 、清盛塚、萱の御所跡、清盛の墓など、いずれもこの近辺である。    /  平清盛の大輪田の泊を見る  / 
 
 





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