「オウム信者」と「援助交際」を招いた真犯人は

 

 ついで象徴的だったのは一連の「オウム事件」である。地下鉄サリン事件には、事件そのものの残忍さや無法ぶりにも震撼されたが、それ以上にわれわれを驚かせたのは、なぜ、一流大学を卒業した折り紙つきの学歴エリートたちが、あのような反社会的大事件を起こし得たのか、ということだった。社会的生活の向上のために活用されるべき知識や技術が、通常の目的とは正反対の犯罪に利用されたのである。これは何を物語っているのか。

 ある意味では、戦後の豊かさと経済一辺倒の価値観が、オウムのみならず雨後の竹の子のように発生する「新・宗教」にたわむれる若者たちをつくりあげたといってもよい。彼らは何不自由のない豊かな社会で過保護に育ち、自分自身を鍛えるといった発想もなく、すべてを他人に依存し、それが当然のごとく育ってきた。したがって彼らには「自我の確立」はいうにおよばず自主性といったものもない。その多くは自己中心的、あるいは面倒なことには関わりたくないという自己閉鎖的な若者である。個室の中でファミコン・ゲームと楽しむことを唯一の楽しみにしている彼らは、他人とどう接すればいいのかもわからず、ことを荒立てないのを優しさと勘違いしている傾向がある。

 だが、それにもましてもっとも重要な問題は、こうした彼らを誰がつくったのか、ということである。

 相対的にいえば、われわれが築いた戦後社会であり、そのもとでの親の育て方、教育や躾ではなかったのか。サリン事件当時、ある大学教授が「ここ二、三十年の教育の特徴である偏差値の重視を考えざるを得ない」と反省していたが、要するに受験競争のための猛烈な偏差値教育が、人間としての豊かな情操を養う時間さえ奪ったからだというのだ。

 だが、その受験競争がなぜに生れたのかを考えると、これは親や教師ばかりを攻めるわけにも行かない。高学歴−いい就職―高収入―安定した生活、といった先ほどの功利主義的価値観が現代社会に歴然とあったからだ。したがって、もし批判だれるとしたら、それはこうした社会的状況の舵取りをしてきた政治家だったというべきであろう。だが、それにも無理がある。なぜなら、民主主義社会の主役は「民」であり、そうした政治家を選んだのはわれわれ国民自身だからだ。要するに、われわれの一人ひとりが経済至上主義のもとで「戦後」を作ってきたのであり、すべてはわれわれの責任の上にあるのである。

 九十五年に起きた象徴的な出来事は、まだある。

 オウム・ショックの覚めやらぬこの年の夏、経営難に陥った兵庫銀行と木津信用組合の二つの金融機関が破綻した。これは戦後初の銀行倒産であり、銀行は絶対つぶれないと固く信じてきた「戦後神話」の崩壊を意味した。だが、政府の対応はここでも遅れ、二年後には「山一・拓銀」が破綻し、日本における金融システム全体の危機へと発展し経済不況は一層の拍車をかけることになった。続いて「長銀・日本債銀」の倒産へと規模を拡大し、政府は景気高揚策としていまやマンネリとなった好況投資をつぎ込んだが、それでもいっこうに景気はよくならず、ただただ国家財政の赤字が膨れたにすぎなかった。

 そして、それよりゆゆしきことは、この九十五年に流行語として「援助交際」なる言葉が巷で飛び交ったことだった。援助交際というなんとなく助け合いのように聞こえるが、いうまでもなくその実態は女子高生らの「売買春」である。

 翌年の「ニューズウィーク」誌がこの問題を取り上げ、貧しくもない家庭の子女が「物を買うため」というだだそれだけの理由で、いともたやすく買春行為をする国はほかにはないとして、戦後の“エコノミック・アニマル”の行き着く先だったのとの旨を論じていたが、それはまさに正鵠(せいこく)を射た評論で日本側もなんの反論もできなかった。結局のところ、この異常なまでの金銭感覚を蔓延させて発展してきた戦後とは、恥じも外聞もなく、ただただ金権亡者の国民をつくったにすぎなかったのである。