武士道は過去の異物か
現代人にとって武士道などといえば、それは封建社会の主従関係を中心とした過去の精神だと、むしろ否定されるのが落ちだろうが、果たしてそうか。
たしかに、武士道に結晶したその精神は、封建社会の消滅と同時にその主役たる武士階級がなくなるにつれ、近代国家を目指した日本人にとっては歴史的遺物とめなされようになった。特に戦後の民主主義社会においては、まさしく時代錯誤的な言葉として死語と化しているといってもよい。
ところが、われわれは今日でも日常会話のなかでは、「彼はサムライだ」といったような表現をつかっている。こうした日常会話に登場する「サムライ」とは、その人が封建的だとか、権威主義だとかのマイナスイのメージで使われているわけではない。むしろ、不正を許さない正義漢とか、筋を曲げない信念の持ち主とか、決断力のある果敢な性格とか、責任感の強い人とか、肯定的な評価としてつかわれる場合が多い。ということは、現代人のわれわれの中にも、武士道を意識するとしないにかかわらず、武士道精神の美しき残燭が残っていることを証明するもの、といえはしまいか。
たしかに武士道という言葉は消えた。だが、その崇高なる精神は時代の変遷とともに武士階級から広く一般の庶民階級までに浸透し、いまや忘れ去られようとしてはいるが、今日でも日本人の道徳規範の根源にながれている、ともいえるのである。なぜなら、そもそも武士道とは「人としての正しい道」を目指した普遍的な人倫の思想であり、それゆえにこそその精神は日本の長い歴史の中で、たんに武士階級のみにとどまらず、広く一般の人々の倫理として受取られてきたからである。それは「人としての正しい道」に武士とか町人とか百姓とか、そんな区別があろうはずがないからだ。したがって、その崇高なる精神は過去の遺物どころか、今日にあってもなお、日本人が外国人に誇りうる美的精神だったといえるのである。