ブロードウェイを行進した武士たち

 

 では、江戸三百年の教養主義に鍛えられたサムライたちが、どれほど“美しき日本人”であったのか。論より証拠。まずは外国人から見て、これぞ“武士道の結晶”と賞賛をあびた歴史的事実から話を進めていこう。

 時は万延元年(一八六〇)、明治政府が誕生する八年前の春、五月のことであった。江戸幕府が日米修好条約の批准のために、はじめて外国に派遣した「遺米使節団」の一行が、はるばる太平洋を渡って、ニュウヨークのブロードウェイを行進していた。

 すでに使節団はワシントンで米大統領ブキャナンと会見し、そのニュースはアメリカ全土に広がっていたので、ブロードウェイは「東方の神秘なる国から来た日本人」を一目見ようとする市民たちで、黒山の人だかりであった。

 使節団は、正史である新見正興を筆頭に、福祉村垣範正(のりまさ)、目付小栗忠正(ただまさ)ほか数十人。彼らはニューヨーク市がお膳立てしてくれた四輪馬車に乗り、正装である紋付き袴をつけ、腰に日本刀を下げて、歓呼のなかを粛々と行進した。

 アメリカ人たちはそれ以前に中国人を見ていたが、日本人を見るのはこれが最初だった。彼らは、顔をまっすぐ正面に向け、背筋をピンと伸ばしたサムライの姿に、他の外国人とは比べることのできない“気品のよさ”を発見するのだった。

 その黒山の観衆の中に四十一歳になるウォルト・ホイットマンの姿があった。彼は日本でも『草の葉』で知られる詩人だが、その彼が、その日見たサムライの感想を『草の葉』の中で書き残していたのである。

「西の海を越えて遥か日本から渡来した、頬が日焼けし、刀を二本手挟んだ礼儀正しい使節たち」

(岩波文庫・酒本雅之訳)ではじまるその詩は、タイトルを「ブロードウェーの華麗な行列」(A BROADWAY PAGEANT)といい、彼ははじめて見るサムライの印象を、考え深げ黙想と真摯な輝く目であったと、最高の賛辞を贈っているのだ。

 ホイットマンは日本人を詩にした最初の欧米人であったと思われるが、その印象は多くのアメリカ人が共有したものであったろう。なぜなら、彼らは未開の野蛮国としか思っていなかった日本人が、これほどまでに堂々と、礼儀正しく、気品に満ちた姿で行進するなどとは考えてもいなかったからだ。精神はその人の目つき、顔つき、挙指動作に表れるとされるが、アメリカ人はその毅然たる態度に度肝を抜かれたのである。

 おそらく、この行列は後世の我々から見ても驚嘆に値するものといえたであろう。というもの「経済大国ニッポン」の上にあぐらをかき、倣岸不遜と嘲笑される現在の日本人が、いまふたたび同じようにブロードウェイを行進したとしても、これほどの賛辞を得ることなどできるとは思えないからだ

 諸外国から金儲け主義の「エコノミック・アニマル」と屈辱され、「ブランド店に群がるニホン人」と揶揄される現在の日本人にとって、遣米使節団のような毅然たる挙指動作など、いまや遠い昔のお伽噺(とぎばなし)になってしまっているのである。