福沢諭吉   慶応義塾の創設者

 

「一身独立し一国独立す」独立自尊の真髄とは

 

ふくざわゆきち(一八三五〜一九〇一)

明治の思想、教育家。豊前中津藩士。緒方洪庵に蘭学を学び、江戸にて洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行して三回欧米に渡る。一八六八年(慶応四)塾を慶應義塾と改名。明六社に参加。明治十五年「時事新報」を創刊。独立自尊と実学を提唱する。

 

『学問のすすめ』は市民平等を訴えたわけでない

 

 福沢諭吉といえば、『学問のすすめ』の冒頭の言葉、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といったことで、あたかも平等主義をうち立てた人物のように言われているが、これは誤解である。

 なぜなら、この本は建前としての平等主義は謳っているが、人間は誰もが平等に“不可侵の人権”をもっているなどといっているわけではない。「生まれたときは平等」だが長ずるにしたがって世の中は不平等にできている。という“現実”を世間に知らしめるために書いたのである。

 その証拠に、先の言葉のあとにはこう続く。

 「されども、いま広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり。おろかなる人あり、貧しき人あり、富める人あり、貴人もあり、下人もありて、そのありさま雲と泥との相異あるに似たるは何ぞや」(日本の名著『福沢諭吉』所収・中央公論社。以下同)

 と、世にはびこる格差を見せ、このような差ができるのは、ひとえに「学ぶと学ばざることにより出来るものなり」と断言し、学ぶことの功利性を説いたのである。その意味では、今日の学歴社会をつくった張本人は福沢諭吉だったといえるが、もちろん福沢のいわんとすることはそんな単純なことではない。

 福沢が『学問のすすめ』を書いた動機は、日本が欧米列強と互した文明国となるためには、これまでの「お上意識」から脱却して、西洋の“市民”すなわち「自由主義」と「個人主義」にもと図いた国民を育てようと思ってのことだった。

 福沢にすれば「一身独立して一国独立す」といっているように、国民の一人ひとりが自立し、賢くなることが国家の近代化と繁栄をもたらすものと考えたのである。それには早く西洋文明を学び、個人の自立のためには何よりも教育が不可欠だといったのである。

 では、その学問の目的はなんだったのか。

 それは、ひとりの人間として独立心と自尊心を築き、どのような立場の人間になろうと、おのれの信念を通す人間となることだった。

 福沢は、学問を学ぶことによって、経済と精神の基盤を両立させ、他人に依存することのない独立心を養い、そのことによって人間ははじめて人間的な生き方、ひいては社会の発展に寄与する生き方ができると考えたからである。

 

 

独立自尊の教えとは?

 

一般に福沢といえば封建制を縛った儒学を「カビの生えた学問」として破棄し、西洋文明を真似た「功利主義」の提唱者となっているが、これは今日の「金儲けのための学問」といった意味ではない。欧米の個人主義(利己主義ではない)を基盤とした自由主義、合理主義を標榜したものであった。

 その骨子となっているのが有名な「独立自尊」という精神である。その中味は「自分で自分の身を支配し、他によりすがる心無きこと」。つまり近代人になるためには、まず自分で考え、自分で行動し、他人に頼らない精神を持つことが必要だと説いたのである。

 なぜ、この精神が必要なのか。

「独立の気力なきものは必ず人に依頼し、人に依頼するものは必ず人を恐れる。人を恐れる者は、必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ、人に諛う者はしだいにこれになれ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえみればただ腰を屈するのみ」

 だからだという。

 つまり、福沢はこうした卑屈な人間になるのは、独立自尊の精神がこれまでの日本人にはなかったからだというのだ。

 明治国家の誕生とともに役人官僚がかっての武士階級の身分となり、日本国中の士族はもちろんのこと、百姓、町人の子弟も、文字がわかると役人になりたがった。あるいは政府に近づいて何か金儲けにならないかと熱心で、その有様は臭い物に蝿がたかるようだったと、福沢は見ていた。

 政府に頼り、みずから「政府の奴隷」として金儲けを追及するのは畜生と同じだというのだ。したがって福沢は、政府から再三の招聘を受けながらも、これを断り、官職には就かなかったばかりか、ブレーン的な御用学者になることすら嫌った。いわばみずから独立自尊を実践した人であったのだ。

 

「痩我慢の説」の真意

 

 この独立自尊の精神をさらに具体的に述べたのが、明治二十年(一八九一)にひそかに書かれた『痩我慢の説』である。

 この論文では、めずらしくも合理主義の福沢が、不合理の権化ともいえる武士道の精神をいたるところでほめている。といっても、人間としての基本をなす「仁・義」を重んじ、「誠」を愛したその武士道的道徳観についてであるが・・・・・・。

 福沢はまずこういう。

 一個の人間もこの世も、あるいは国家でさえ、やせ我慢でできている。国でいえばオランダやベルギーなどの小国が、ドイツ・フランスの間に挟まって苦労しているが、それとて「寄らば大樹の陰」的に大国に合併されれば安楽なのだが、やせ我慢を張って独立しているからこそ立派なのである。人間もそうあらねばならない、と。

 そして、次のように述べる。

「痩我慢とは、個々人についていえば、主に対しての節操であり、その存亡が問われる危機に臨んで、主を守り抜こうとする気概を強くすることである。いたずらな妥協講和などをはかって、もとも子もなくしてしまうような醜さをさらさない。勝敗の打算を度外視して、犠牲になることも惜しまない。この痩我慢こそ、立国の大本となる心情である」

 簡単に言えば「武士は喰わねど高楊枝」という気概の精神だが、これがなくなれば、人は利あればそちらに転び、権力の強いものには、媚び諛うからである。

 そして、ここで話題を転じて、当時の幕閣の首脳だった勝海舟と榎本武揚の身の処し方を攻撃した文章に変わる。

「徳川家の末路に、家臣の一部が、早く大事の去るのを悟り、敵に向かって抵抗を試みず、ただひたすらに和を講じて、自ら家を解きたる(中略)者あり」「小さな虫けらでさえ、百貫目の鉄槌が下されれば、その足を張って抵抗するのに、二百七十年も続いた大政府が何の敵対意識もなく、ひたすら講和し、薩長に哀訴したような振舞いは古今東西に例がない」

 これでは徳川恩顧の幕臣でありながら「義」も「誠」もないではないか。なぜ、やせ我慢を張ってでも戦わなかったのか、と怒るのである。

 とくに勝海舟にたいしては「立国の要素たる痩我慢の士風を損なった責は免れざるべし」とまで決めつけている。

 冷静沈着な福沢にしてはめずらしい激昂ぶりである。福沢が勝を許せなかったのは、維新後、多くの幕臣たちが徳川家の滅亡とともに、それに順じ甘んじて清貧の中で生きたのに対して、勝はいわば敵方の新政府に招かれて、参議兼海軍卿となり、やがては伯爵の身となった人物であった。これを「得々と名利の地位」に就いたと批判したのであった。その出処進退に「節義」がないと。

 もちろん勝海舟という人は、おのれの「利」だけを求めて行動したわけではない。勝は政治家であり、その立場は自分の身よりも、幕末に置いて日本人全体を考えた「ただひとりの日本人」で会った。それに対して福沢は学者であり、口舌の徒であった。しかも、この批判の立場は「幕臣」側からのものである。

 その意味では福沢の批判は私情からでているともいえるが、じつは、福沢が本当に怒っていたのは、勝海舟にたいしてというより「痩我慢の説」を書いた明治二十年当時の“世相”に腹を立てていたのである。

 というのも、当時の世相は、すでに明治維新の高揚たる精神もなくなり、世の中も落ち着いてきた。だが見渡せば、過去を切り捨てて受け入れた西洋文明によって、日本の社会風潮が誠に軽薄浮薄のものとなり、欧米一辺倒の“文明開化”とやらに踊らされている。封建制度がなくなったのはよしとしても、これでは国土が植民地にならなかっただけで、精神的には植民地になったのも等しいではないか、というのである。

 それゆえに福沢は、新しい国家・国民の精神として「独立自尊」を唱え、その本となる「和魂」を伝統的武士道精神に求め、勝海舟を引き合いに出して批判したのである。

 福沢はこの文章を勝に見せて反論を要求した。これに対して勝は「自分が天下のためにやった責任は自分一人にある。その批判は他者にある。どうぞご勝手に」と、さらりと交わしている。勝にしてみれば、幕末のあの騒動の中で何の動きもしなかった福沢が、いまさら何をいうのだとの思いだったのだろう。

 

 

福沢の偉さ

 

 それはともかく福沢の偉さは、そうした啓蒙を平易な文章で説き、かつ自らの生き方で示したことだった。

 たとえば「文明とはなにか」という件では、「文明とは人の身を安楽にして、心を高尚にすることを言うなり。衣食をゆたかにして、人品を貴くすることをいうなり」(『文明論之概略』)といっている。あるいは「独立とは何か」という質問に対しては、「人から物をもらわないという義なり」「他人の厄介にならぬことなり」(同)といっている。

 けだし明言である。今日の社会状況を見るまでもなく、贈収賄は日本社会の習慣とされているが、彼はこれに真っ向から反対し、「タカリ」という言葉を嫌った。尊厳を保つことにおいても、勝海舟をはじめ明治の偉勲が「男の甲斐性」とした畜妾の習慣に対しても潔癖で、妻のみを愛し、浮気もしなかった。自尊に対しては、いかなる人間も平等に扱われたいものとして、年下の者にもかならず「○○さん」で呼んだ。そして、こういうのだ。

 「役人や大企業の人間が威張るのは、そうすることによって儲けた人々がいるからであり、高尚な生き方とは反対の生き方を人たちが招いたものである」と。

 独立自尊。この言葉はいまの時代こそ噛みしめる必要があるようだ。