伊庭貞剛   出処進退の潔さ

 

 功なり名を遂げて身退くは男の花道なり

 

いばさだのり(一八四七〜一九二六)

実業家。近江国の人。叔父の住友家総理事広瀬宰平の招きにより、司法官から転じて住友に入る。別子鉱業所支配人を経て第二代総理事となる。

 

 出処進退で男の価値は決まる。

 

「功なり名を遂げて身退くは天の道なり」とは老子の言葉である。大自然には法則というものがある。春は春のなすべきことを終えれば、その地位を夏にゆずり、夏はその役割を果たすと秋にゆずる。同じように人間にも道あり。功なり名を遂げたら、いつまでも綿々とその地位にしがみつかないで、次にゆずるのが人として立派なことだ、との意味である。こういう人を“出来た人”というのである。

 にもかかわらず、世の中には出世すればするほど、その地位にしがみつき、すでに“老害”と呼ばれ、組織の弊害になっているのも気がつかず、会長とか相談役とか最高顧問とかの肩書きをつけ、組織そのものを衰退させる原因となっている経営者がいかに多いことか。社長の上にこうした「エセ権威者」がいる会社ほど保守的で進歩のない会社とみなすべきである。

 そうした中にあって伊庭貞剛という人は、会社に対する貢献もさることながら、先の言葉の、「天の道」を「男の花道」に変え、その引き際の見事さは名だたる経営者の中でもピカ一だったといってよい。

 貞剛自身も、「経営者がもっとも大事なことは後継者を選ぶことである。さらに大事なことは、退く時期を選ぶことである」なる言葉を残しているが、要するに、出処進退、とくに「退」をどう計らうか、経営者の人格はここで決まるのである。

 伊庭貞剛といっても、いまや知らない人のほうが多いだろう。この人は今日の住友財閥の基礎を築いた大総帥・広瀬宰平のあとを受けて、二代目の住友総理事となった人である。

 だが貞剛が総理事として活躍した時期は、明治三十三年(一九〇〇)から三十七年(一九〇四)にかけてのわずか四年半にすぎなかった。ところが、その四年有余の間に貞剛は、住友銀行をつくり、日本製銅を買収して住友銅場を設立し、日本鋳銅所を買収して住友鋳銅所を開設するなど、いわゆる“住友三本柱”といわれる銀行、銅山、金属工業の基礎をかためて、それまでの単なる富豪から財閥への道を敷いた人だったのだ。

 しかも貞剛は、居合抜きの名人で、その剣の修行から東洋思想や禅の奥義を学び取り、「高徳の士」と称された。いまなお住友マンたちにかぎりなく敬愛され、守銭奴的財界人が跋扈するこの世界にあって、めずらしいほどの清廉潔白な人物だったのである。

 それほどの人物だっただけに、彼は一片の私欲もなく、ましてや地位や名誉に対する未練もなく、自分の役目が終わると、さっさと辞表を出し、練袂(れんぺい)辞職する部下を振り切って、五十七歳で隠棲してしまうのである。財界人でこれほど潔い人を私は知らない。

 

 「心の人、徳の人」

 

 伊庭貞剛は江戸末期の弘化四年(一八四七)、近江の蒲生郡西宿村(現在の近江八幡市西宿町)

で武士の子として生れた。

 幕末時、勤王の志士であった貞剛は、明治新政府が誕生したときには京都御所警護隊員だったが、のちに司法官僚の道を選び、明治十一年(一八七八)には三十三歳にして大阪上等裁判所判事となっていた。だが、倣岸不遜な官僚機構に愛想をつかして、その職を辞めてしまう。清廉の士には耐えがたい何かがあったのだろう。

 大阪を去るにあったって、叔父である。広瀬宰平のもとに挨拶に行った。(貞剛は広瀬の実姉の息子)。広瀬は住友の救世主として「東の渋沢、西の広瀬」と並び称され、当時の財界人で知らぬものはいない存在。久しぶりに会う貞剛の姿に広瀬は昔日の自分を見る思いがした。気概がある。そこを見込んで、こういった。

「官界から民間に使えるのは格落ちと思うが知れないが、商人といえども住友は国家のために働いている。どうだ、番頭として俺の下で働かないか」

 貞剛は宰平の目をじっとみつめ、

「わかりました」

 と二つ返事で承諾した。

 宰平は“炎の人”と異名をとるほどの熱血漢。いっぽうの貞剛も居合抜きの名人だけに剛毅の人。意気に感じる。といった呼吸だった。役職は住友本店支配人。給料は官尊民卑の時代だったので、判事のころの半分だったが、カネのために就職するのではなかったので文句はない。明治十二年、貞剛三十二歳の時であった。

 この二人の人物像を、昭和初期の住友本社常務理事で、高名な家人でもあり、かつまた“老いらくの恋”で話題をまいた川田順が『住友回想記』(中央文庫)の中でこう書いている。

 「広瀬さんはいうなれば、他をねじ伏せてでも我が道をゆく力の人・策の人であった。伊庭さんは剣客でありながらも太刀を抜かぬ心の人・徳の人であった。力の人のあとに心の人がリーダーになった偶然は、住友にとって幸運以外のなにものでもなかった。実業人は物欲にのみ終始するものと思うは、伊庭さんごとき人物を知らざる愚蒙の考えである」

 その「心の人・徳の人」のエピソードが次の話だ。

 明治二十七年(一八九四)、住友最大の危機といわれた「新浜煙害問題」が起きた。別子銅山から掘り出した銅精錬の煙が公害問題になったのだ。原因は広瀬の住民を無視した超ワンマン支配にあった。住友内部でも紛争に便乗して反広瀬派が台頭し、銅山は開店休業の状態となっていた。その解決に乗り出したのが本店支配人だった貞剛だった。

 彼は我山(がざん)老子に贈られた『臨済録』と懐に入れて単身で別子に現れた。そのときの心境を親友の品川弥次郎(明治の政治家)にあてた手紙のこう書いている。

「一身、密かに覚悟を定め、妻を捨て、子を捨て、家を捨て、初めて自由の働き活発なる妙境にも達し候わば、(中略)ここに籠城を覚悟して別子山の鬼ともなるべし、また仏ともなるべし」

 貞剛は、この言葉通り、単身で新居浜の質素な家に寝起きして、高山夫たちになにが不満かを聞いて歩いた。広瀬からは人員整理の命令が下っていたが、貞剛は「力の解決」より「和の解決」を望んだ。いかなる企業も安心して働く社員がいて会社が成り立つことを知っていたからである。

 遅々として進まぬ方策に業を煮やした広瀬から大阪二呼ばれ、不満分子の更送を命じられた。だが、このときも、貞剛はそれを発表するどころか、謡曲の師匠を伴って戻り、それを習い始めた。ときどき新居浜と鉱山を往復し、「ご苦労さん」と声をかけて、ただ労働者たちの姿をじっと見ているだけである。

「拙者は月に三回わらじを履きて鉱山に登り、鉱石を掘り取るを見ては歓び、また数千の稼ぎ人があぶら汗を流して働くを見ては気の毒に思い、また下りては精煉銅の高を聞いて歓び、職人の汗を流すを見ては気の毒に思い、時としては代わりてもやりたくも思うくらいなり」

 こうした貞剛の思いが通じたのか、やがて荒くれ不満分子たちも平静を取り戻し、いつしか紛争も収まってしまった。

 だが、彼にはいまひとつしなければならない大仕事が残っていた。いまや“老害”となっていた広瀬宰平に引導を渡すことだ。住友を近代化するにあたっては広瀬の独裁支配では事業が混迷するばかりだったからである。

「誰がネコ(広瀬)の首に鈴をかけるか」

 本来なら住友家当主の役割だったが、“中興の祖”である広瀬には恩義があった。当主からはいいだせない。諌言するとなれば、その役目は貞剛をおいてほかにいなかった。

「叔父はこういうときのために、腕に覚えのある介錯人として私を住友に入れたのでしょう」

 当主に胸中を打ち明けられた貞剛は、静かにそういった。

 住友ではすでに「当主は君臨すれども統治せず」の家風ができあがっていたので、貞剛はその役割をみずから実行した。貞剛は自分も刺し違える(辞職する)つもりで、大恩ある叔父にむかって住友の総意を述べた。

「そうか、わかった。お前に言われたら仕方がない。次の総理事にはお前を指名する。これは最後の俺の命令だ」

 と、それだけいった。士魂が相通ずる決着だった。ときに明治二十七年、広瀬六十六歳の時である。

 

 住友財団の基礎を築く

 

 広瀬の引退後、貞剛は実質的な経営者となった。だが、自分が総理事になるために広瀬を辞めさせたわけではなかったので、貞剛がそのポストに就いたのは六年後の明治三十三年(一九〇〇)だった。

その間、先にも触れたように貞剛は、住友銀行をつくり、住友伸銅場を創設し、住友鋳銅所を開設し、住友財閥の要を築いたのである。

 そして、念願だった新居浜精錬所の煙害問題を解決するために、巨費を投じて新居浜の沖合い二十キロのところにある無人島に精錬所を移転させた。いっぽうでは燃料のために切り崩した無残な姿となった山に、「天地の大道にそむく行為の償い」として大規模な植林事業をおこなった。

 古川財閥の足尾銅山は公害の垂れ流しの後、その山はハゲ山となって見る影もないが、別子銅山が今でも青々としたみどりの山を残しているのはこのおかげである。今日の環境問題を考えるとき、貞剛のおこなった事業はその課題を先取りしたものだった。貞剛が一企業の利潤追求より社会全体としての企業であるかを考えていたことがわかる。

 その証拠に、足尾銅山の鉱毒問題を糾弾した田中正造代議士は、明治三十四年(一九〇一)の国会で、

 「関西地方の方々が多くの鉱山の模範としてご覧になるは、伊予の別子銅山で(中略)、足尾銅山とは天地の差があるので、実に何とも譬(たと)え較べ合いのならぬ程の事情がある(中略)別子銅山は、第一鉱業主は住友である。それゆえに社会の事理(物事の筋道)人情を知っておる者で、己が金を設けさえすれば宜しいものだというような、そういう間違いの考えをもたない」

 と、伊庭貞剛の事業を絶賛している。いかに住友の別子鉱山が環境に配備したものであったがわかる。

 

 「住友の精神」と称えられた男

 

 やがて明治三十七年(一九〇四)七月、貞剛は「もう俺の仕事は終わった」と、まだ五十七歳の働き盛りに、総理事の椅子を鈴木馬左也に譲って、郷里の琵琶湖湖畔に隠棲してしまうのだ。

「せめて六十歳までは」

 と当主に懇願されたが、貞剛の心はかわらなかった。なぜ勇退を急いだのか。

 その理由らしきものを貞剛は、「少壮と老成」と題するエッセイにして経済雑誌に寄稿している。

「とかく老人は経験という刃物を振り回して、少壮者を威しつける。また少壮者の多くは、経験者たちの命令に盲従するが、これは大変な間違いである」

「少壮者の抱負や意見を採用せず、少々の過失でもあると大仰に騒ぎ立てて老人は、自分でなければ何事も成し得ないかのようにふるまう。したがって事業の進歩発展をもっとも害するのは、青年の過失ではなく、老人の跋扈である」

「後継者にいつまでも事業を引き継がせないのは、自分が死ぬことを忘れた人間である」

 と声高に連発し、かっての功績の中でアグラをかいている“化石老人”たちに、企業を発展させたければ早く後輩に道を譲るべきだと戒めるのだった。

 この貞剛に私がいっそうの魅力を感じるのは、故郷に隠棲してからの生活ぶりだ。

 晴耕雨読に明け暮れる貞剛の姿に、多くの人は彼が元住友総理事だったことなど知らなかった。頼まれて今日の農業組合の世話役みたいなものを引き受けているが、それを喜々としておこなった。昔話もいっさい語らず、住友の祝い事にも意識的に参加せず、もちろん先輩面して会社を訪ねることもなかった。どこにでもいる農家の隠居のように静かに暮らしたのである。

 そして、大正十五年(昭和元年=一九二六)、当主の住友吉衛門がなくなると、それを追うように貞剛も他界した。ちょうど八十歳だった。その生き方はまさに無私無欲に生きる禅師のようであった。のちに彼は「住友の精神」として後世の住友マンたちの目標とされた人物となるのである。経済界にこうした高潔なる人がいたというだけでも清々しいではないか。