吉田兼好   『徒然草』の作者

 

利に惑ふは愚かなる人なり

 

よしだけんこう(一二八三〜一三五〇?)

鎌倉末期の歌人。俗名・卜部兼良。先祖が京都吉田神社の社家であったことから吉田兼好ともいう。

初め堀川家の家司、のち後二条天皇に仕えて左兵衛左に至る。天皇崩御後、出家し隠遁。歌道に志して二条為世の門に入り、その四天王とされた。

 

 文明社会とはなんだったのか

 

 いかに経済大国になったといっても、それでは日本人の生き方が豊かになったわけではなかった。いかに文明の利器が進歩したからといっても、それで生活に余裕が生まれたわけでもなかった。むしろ、われわれはこうした“文明生活”を維持するために、ワークホリックといわれるぐらいの多忙さで働き、一時の休息をもとめて入った喫茶店にいても携帯電話で呼び出される、といった時代なのである。

 戦後の日本人が、一心不乱に求めてきた経済至上主義とはなんだったのか。高度文明社会とはなんだったのか。いまわれわれはそれが問われているようだ。

 そんな思いを抱くとき、私の胸の中に浮かびあがってくる一人の人物がいる。あの『徒然草』の作者である兼好法師だ。

 思えば兼好ほど生き方についての思いを巡らせた者もいまい。その結実が『徒然草』なのであるが、むろんそれは、当世流行のハウツウ式の処世術を説いたものではない。むしろ、人間としての理想的な暮らしぶりはどういうものか、その心の持ちようを吐露したものであったといえる。

 

 兼好の理想とする姿

 

 たとえば、カネ、カネ、カネとまるで“拝金教”の信者のようにとりつかれている者に対して、兼好はこういうのだ。

《名利に使われて、閑(しず)かなる暇(いとま)もなく、一生を苦しむこそ、愚かなれ。財(たから)多ければ、身を守るにまどし。害を買い、累(わずらい)を招く媒(なかだち)なり。

 ・・・・・・利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり》(第三十八段)

 

 世俗的な名声とか地位とか財産とかに、身も心も使われて、心静かにゆっくりと生活を楽しむ余裕もなく、一生あくせくと暮らすなど、じつに愚かなことである。

 財産が多いと、それだけで身を守らねばならず、面倒なわずらいを招くもととなる。黄金で北斗をささえるほど高く積んだとしても、遺された遺族たちは財産分与でもめるだけである。そんな愚かな人々のために自慢したところで、それもまたつまらないことだ。・・・・・・利欲に惑うことは、もっとも愚かだというのだ。

 では、兼好は、どのような人が立派な人だといっているのか。

 

《まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰かに伝えん。これ、徳を隠し、愚を守るにあらず。本より賢愚・得失の境にをらざればなり》(同)

 つまり、“まことの人”とは、世間に対して知恵や徳や功績を誇ることなどしない。本当に立派な人というのは、そういったことを隠し、もともと利得とか名聞とかそんなものにかかわらず、己の“心の充足”をただ求めるのみだ、というのである。

 

兼好が求めた理想の姿

 

 では、心の充足を求めるにはどうすればいいのか。それは知識ではなく教養を身につけることだという。少なくともそれを心がけて生きている人で、下品な人、無遠慮な人、知ったかぶりをした自己顕示欲の強い人は、教養のない人と説くのである。

 教養とは何か。簡単にいえば「人間としての高貴な心のありよう」のことである。私の推察するところ兼好は、この教養とはなにかを広めるために『徒然草』を書いたのではないかと思っている。

 なぜなら、徒然草の全編をつらぬくテーマは、有名な「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」(百三十七段)を引くまでもなく、「なまめかしい」「あらまほしき」といった言葉で、人間としての「おくゆかしさ」「上品さ」とは何か、を教えているからだ。

「花はさかり・・・・・・」の意味は、花はなにもさかりだけを鑑賞するものではなく、月も煌々と照り輝く夜だけを眺めるものではない。むしろ、雨の降る夜に隠れている月を思い、満開の花より、これから咲こうとしている蕾にその思いを馳せ、散ってしまった後の無常を感じることこそ味わい深いではないか。そうした味わい方のできる人こそ、まことの教養人であり、奥ゆかしい品性の持ち主ではないのか、と。

 なぜなら、完成された美をめでるのは誰にでもできる。だが、不完全な美を、こちらからの想像力によっておぎない、心の中で完全な姿へと仕立てるのには、それなりの教養が必要だからである。美とは永遠不変の存在ではなく、絶えずうつろうものである。その自在流転のさまを全体としてとらえることが真の美意識であり、教養のある人というのである。

「なまめかし」という言葉にしても、現代においては「つやっぽい」「あだっぽい」の意に解されているが、本来の意味は「抑圧された美しさ」のことである。つまり、けして派手やかではないが、どことなく気品が滲み出ている美しさであり、これとて「奥ゆかしさ」と同義語である。自然の風情、身の処し方、生き方において健康がなによりも重視したのは、いわばこうした「美学」を日常生活に溶け込ませる生き方だったのである。

 となれば、そのような見方ができるためには、まずなによりも、ゆとりがなければならない。物事をさりげなく、それでいて深く感じるところがなければならない。多忙は心亡ぼすと書くように、けっして誉められたことではないのである。

 その裏付けとし、たとえば三十三段に次のような話が出てくる。

 ある夜、客を門まで送り出た人が、客を送った後、ふと足をどどめてしばらく月を仰いでいた。兼好はその姿を見ていたく感心している。その人は、まさか誰かが見ているとは思わず、ごく自然に月を仰いだのであろうが、こうした奥ゆかしい振る舞いは、急にやろうとしてもできることではない、「ただ朝夕の心づかいひによるべし」というのである。

 こうしたささいな仕草に兼好があえて心を魅かれるのも、そこに教養人としてのゆとりを見るからである。もしその人が客を送った後そそくさと門を閉じ、家の中へ入ってしまったら、味もそっけもない。こうした心のゆとりを忘れた人を兼好は「愚かなる人」というのである。

 それを示す、こんな文章もある。

 

《蟻のごとく集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。ゆく所あり、帰る家あり。夕べに寝ては、朝に起く。いとなむところ何事ぞ。生をむさぼり、利を求めて止むときなし。見を養いて何事かを待つ。期するところ、ただ老いと死あり》(七十四段)

 

 まるで蟻のように、あっちこっちとせわしなく走りまわり、夜になると家に帰り、朝になるとまた起きだして働きだす。なんのためにそんなせわしない生活をしているのか。それはただ長寿を願い、利益を求めてやむときがないからである。だが、そんな生活をしていたら、待ち受けているのは老いと死だけである。じつに、おろかな人生ではないか、というのである。

 ひたすら利欲を求め、長寿だけを願って、何になるのか。そういう人生は何たるかを知らないのだ。人生とは結果ではなく、「いかに生きるか」のプロセスが大事なのである、と。この言葉は「いい生活」のみを求め「いい人生」を送ることを忘れてしまった現代人への警鐘にも聞こえてくるではないか。

 兼好が繰り返し力説するのは、要するに、自分の人生を大事にしろということである。そのためには、深く考え、心から感じ取り、じっくり味わい、広く愉しむ、という“ゆとりある生活”を送ることが大事であると。

 

 非僧非俗の暮らしの自由人

 

 兼好が生まれたのは弘安六年(一二八三)のころだ。彼の生きた時代は、いわゆる元寇の弘安の役にはじまり、南北朝の対立、建武の中興、そして足利尊氏の室町幕府といった戦乱に明け暮れる騒然とした時代だった。そのような乱世にあって兼好は三十歳のはじめに出家し、俗世を捨てる。

 だが、彼は世の中に対して無関心ではありえなかった。世の中が変転きわまりない様相であればあるほど、彼はその無常を大観し、人間として生きる美学を求めたのである。

 彼は京にちかい山科小野庄に一町歩の田を買い隠棲した。そして修学院に籠もり、のちには比叡山の横川に起居し、さらには仁和寺にちかい双(ならび)が丘に「無常所」をもうけて晩年を送った。

 といっても、世の中といっさい縁を切ったのではなく、三十代には二度にわたって関東へ下向している。京の歌壇とも密なる関係をつづけた。出家したといっても仏門に入ったわけではなかった。

 出家というと、一般には、俗世を離れて仏道に入り、もっぱら仏に仕える生き方を想像するが、中世の隠遁者は必ずしもそうではなかったのだ。西行、長明、あるいは先に触れた曙覧や良寛にしても、彼らは本当の意味の“隠遁者”ではなく、人家にほど遠からぬ場所に「草庵」をもうけて、非僧非俗の風雅な暮らしを試みた“自由人”だったのである。

 何のために・・・・・・。人生を深く省みるためにである。ゆとりを手に入れ、豊かな美しい暮らしを創造するためにである。

 むろん、そのためにはそれなりの覚悟が必要だったろう。職を辞し、精神の自由を求めれば、生活は困窮する。暮らしを楽にしようとすれば心は拘束される。これが世の掟である。

 それゆえに私もこうした中世の「隠棲」を現代に求めるつもりはない。いや無理である。だが、このあまりに多忙な日常の中で、せめて精神だけは兼好のように自由でありたいと思うのであるが・・・・・・。