宮沢賢治   献身の精神

 

一人は全体のために全体は一人のために

 

みやざわけんじ(一八九六〜一九三三)

詩人・童話作家。岩手県花巻生まれ。盛岡高農卒。早くから法華経に帰依し、教師、農学研究者・農村指導者として献身的に活動する。

 

多くの人を励ました「雨ニモマケズ」

 

雨ニモマケズ

風ニモマケズ・・・・・・

このわずかな詩句に、どれほど多くの人が励まされ慰められたことであろう。ご存知『雨ニモマケズ』の一節である。

 だが、この詩は作者の生前、人目にふれることはなかった。賢治の没後、遺品のトランクの中にあった手帳から発見されたものだ。作品として書かれたものかどうかもはっきりしないが、書かれた日付だけはわかっている。昭和六年(一九三一)十一月三日のことだ。

 賢治はその年の秋、こじらせた風がもとで結核が再発し、岩手に帰郷して療養生活に入るが、その病床でつづられたのが、この詩だった。そして、その二年後の昭和八年に他界する。

 賢治は、その三十七年の生涯をかけて、詩、童謡、短歌、あるいは天文、地質、農業におよぶ多彩な才能を発揮するが、生前に発刊されたものは、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の二冊だけだった。ほかにも『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』など有名なものがあるが、それらはすべて死後のことである。

 しかしなんといっても有名なのはこの詩で、二百九十八文字の平明な表現の中に、賢治の真摯な人柄と慈愛に満ちた思想が込められている。それゆえに、人生の壁に突き当たり、挫折した人々の応援歌として愛唱されてきたのである。詩などめったにお目にかかれないご時世なので、あえて全文を掲げよう。

 

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ

 雪ニモ夏ノ暑ニモマケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ

 欲ハナク 決シテ怒ラズ

 イツモシズカニワラッテイル

 

 一日ニ玄米四合ト

 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

 アラユルコトヲ

 ジブンヲカンジョウニ入レズニ

 ヨクミキキシワカリ

 ソシテワスレズ

 

 野原ノ松ノ林ノ陰ノ

 小サナ萱ブキノ小屋ニイテ

 東ニ病気ノコドモアレバ

 行ッテ看病シテヤリ

 西ニツカレタ母アレバ

 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ

 南ニ死ニソウナ人アレバ

 行ッテコワガラナクテモイイトイイ

 北ニケンカヤソショウガアレバ

 ツマラナイカラヤメロトイイ

 

 ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ

 サムサノナツハオロオロアルキ

 ミンナニデクノボートヨバレ

 ホメラレモセズ クニモサレズ

 ソウイウモノニ ワタシワナリタイ

 

 なんと崇高なる慈悲深き詩であることか。ここに老荘のいわんとした「控えめにして屈強なる精神」がある。勝てば官軍、見つからなければ罪ではないとする、傲り高ぶり、腐りきった世の指導者たちに見習ってほしい詩である。

 

 

 むやみに偉い人にはなりたくない

 

 宮沢賢治は明治二十九年(一八九六)岩手県稗貫郡花巻町(現在の花巻市)で生まれた。生家は質屋と古着屋を営む大商家だった。

 幼少のころから頭のいい子だったので、あるとき父親(町の有力者)が「お前は将来なにになりたいか」と期待して聞いた。時代は学問さえあれば“末は博士か大臣か”と立身出世の気運がみなぎっていた明治だ。賢治は望めばそれらになりえた人物だった。だが彼は、

「そうだな、むやみに偉い人にはなりたくないな」

といったばかりか、

「寒いときには鍛冶屋をやればいいし、暑い時には馬車やになればいい」

と付け加えたのである。おそらく父親はがっかりしたことだろう。

 このエピソードは小学六年生のころとされているので、賢治が職業に貴賎のないことを自覚していたとは思えないが、ただ直感として「偉い人」というのはただ威張っているだけに見えて、本物の尊い人間には見えなかったのだろう。

 だから世俗的な立身出世よりも、目に見える形で、みんなの役に立つ職業を望んでいたのである。

 賢治の生涯を通して変わらなかったのは、人に対する慈(いつく)しみである。

 たとえば、小学四年生のときのこと。賢治が仲のよい友達とメンコ遊びをしていた。その最中、友達のメンコが勢いあまって道路の真中まで飛び出し、それを拾いにいった友達が、通りかかった馬車に人差し指を轢かれるという事件があった。傷口からおびただしい血がながれた。友達が泣き叫ぶ。その瞬間、賢治は「痛いか、痛いか」と自分も泣きながら、友達の指を自分の口に当て、ながれる血を吸い取っていた、というのである。

 訳知り顔の人は、よく「人の痛みをわが痛みとせよ」などと説教するが、これはあくまでも理屈であり、現実的には自分も同じ痛みをともなわない限りわかるものではない。

 ところが、賢治はとっさに友達の痛みをわが痛みと感じ取り、自分も泣き出し、指の血を吸い取る行動に出たのである。これはできるようで、できるものではない。

 賢治は、生まれもったやさしい性格の人間だったというべきなのか。いや、そうではなかろう。

もちろん遺伝子もあたろうが、やはり賢治を育んだ宮沢家の環境がもたらせたものであったというべきである。宮沢賢治の関連図書を読んでも母イチの話はあまり出てこないが、やはりこれは母のやさしい性格が、賢治を育てる中で作りあげたものだと私は思っている。また、父正次郎ものちに確執する仲とはなるが、きびしくも優しい人であったという。

 あるいはこんなエピソードもある。

 盛岡中学を卒業したときのことだ。父親が家業を継がせるために、家の手伝いをさせたことがあった。だが賢治は貧しい人をみると、その悲しみをわが悲しみとして受け止めしまうため、質草以上のカネを貸し与えてしまうのだった。とうてい商売人にはむかなかった。

 そこで父親は、商人になれないなら、賢治を学問をもって生かそうと盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)へ進学させた。賢治はここを首席で入学し、首席で卒業する。そして、卒業後は“偉い人”より“役に立つ人”になりたいと農学校の教師になった。

 ところが、その教師の職も、教室で教えているだけではものたりなくなりなったのか、農村生活者として二年、石灰工場技士として半年と転々と職を重ねた。その後も定まった職業にも就かず、普通の人から見れば落伍者にも見える生活を送った。逆にいえば、そうせざるをいないほど、みずからの理想の道を真剣に求める精神が激しかったのである。

 

 

羅須地人協会

 

 賢治の思想は、自然科学と信仰する「法華経」を軸としたものだが、彼はすべての生命を宇宙的な視野で見ること同時に、一木一草にも固有名詞で表すほど、生きとし生けるものすべてを愛していた。そして、「永久の未完成、これ完成である」との宗教的な永遠性をみつめ、現実の郷土岩手県にユートピアを重ねて、「イーハトーブ」なる理想郷を想定した。有名な羅須地人協会はその一環である。

 羅須とは何か。定説はないが、賢治のよく使ったキーワードの修羅、すなわちこの世は百鬼夜行の修羅の巷という修羅をひっくり返して「羅須」といったのではないか、つまりそういう修羅の世の中をひっくり返そうという意味が込められていたのではないか、と私は解釈している。

 賢治が羅須地人協会をつくったのは、花巻農学校を退職した三十歳のときで、本家を出て別宅で独居自炊の農民生活をはじめた頃であった。ここで羅須地人協会の看板をあげると同時に、荒地を開墾し、当時としてはめずらしかった白菜、トマト、トウモロコシなどを育て、空き地には花の栽培をした。その花はイギリスのサットン商会のものをわざわざ取り寄せている。

 そして、その協会に農学校の教え子二十人ばかりを集め、レコード鑑賞会や楽器演奏会を催すとともに、エスペラント語、土壌学、植物生理学、芸術論とはばひろい勉強会をおこなったのである。

 賢治の目指すところは、「農民は芸術家であり宗教家でなければならない」というものだった。

いうなれば賢治は農村の灰色の悲しい日常を、何かパッと明るいものにしようと夢見ていたのだ。エスペランド語の学習も、全世界の農民と花巻の農民とが直接つながっているという広い視野をもたらすためのものだった。しいたげられた農民の生活と意識を変える実践の場として、賢治は協会をつくったのである。それは賢治が語った次の言葉からも察することができる。賢治はこういうのだ。

 「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と。

 この言葉は「おれたちはみな農民である。ずいぶん忙しく仕事もつらい。もっと明るく生き生きと生活する道を見つけたい」の文章ではじまる『農民芸術概論綱要』にあるものだ。彼は全人類と自分の幸福を一致したいとの思いから、“献身”という現代人が忘れ去った美徳を実践していったのである。

 その姿は、作品の中にも垣間見られる。たとえば『グスリコーブドリの伝記』では、その主人公が身を犠牲にして冷害を救っているし、「銀河鉄道の夜」では川に落ちた友達を助けようとして死んだカンパネルラが登場する。

 あるいは、宗教的理由から独身者であった賢治がもっとも愛した妹・とし子の死を悼んで詠んだ「青森挽歌」の中にも、「みんなむかしからのきょうだいなのだから、けっしてひとりをいのってはいけな」との一節があり、賢治の万人を平等に愛する、その心の広さと深さには万感の胸を打つものがあり、思わず頭が下がる。

 父親との宗教的確執と、求める理念の高さの落差から、「われは一人の修羅だ」と孤高の闘いを強いられた賢治であったが、その心情は多くの作品の中で生かされ、それゆえにこそわれわれの胸を振るわせるのである。

 宮沢賢治はまさに、

 「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」

 その人生を自分よりほかの人のために、無私無欲の純粋な自己犠牲で生きた人だったといえる。

 できうれば私もこういう人になりたい。