中江藤樹   日本陽明学の祖

親孝行はすべての徳の基本で宇宙生命の原理である。


なかえとうじゅ(1608〜1648)
江戸初期の儒学者。日本の陽明学の祖。近江の人。初め朱子学を修め、伊予の大洲
藩に仕え、のち故郷に帰り私塾を開く。門人に熊沢蕃山らがいる。


 内村鑑三が称えた『代表的日本人』の一人

 中江藤樹、人呼んで「近江聖人」という。江戸初期の儒学者で、戦前前までは「修身」の教科書に掲載され、二宮尊徳(第一章五十一頁参照)とならぶ有徳者として知られた存在だったが、戦後の教育では忘れ去られた人物の一人となっている。
 なぜ、これほどの人物を戦後の教育では紹介しないのか、私には不思議である。
 というのも、のちに紹介する内村鑑三(第一章百二十五頁参照)が外国人にむかって『代表的日本人』(明治二十七年刊)を書いたとき、この中江藤樹は西郷隆盛、上杉鷹山、二ノ宮尊徳、日蓮とともに取り上げられ、「真の日本人は実に偉い者であった、いまのキリスト教の教師、神学士といえども遠く彼らにはおよばない」と言わしめた人物の一人なのである。
 藤樹は、江戸幕府の開府とほぼ同時期に生まれ、活躍したのは将軍家光の御代である。
寛延三年(一七五〇年)9代将軍・家重の著である『斯文(しぶん)源流』(河口精斎)によれば、「世人これを近江聖人と称した」とあるから、江戸中期にはすでに有名人だったといえる。
 では、彼のどこが近江聖人といわれるところだったのか。「修身教科書」の元となった本からその大筋を述べてみよう。
《藤樹先生は近江の国の人。わが国で初めて陽明学を唱え、その門より熊沢蕃山が出た。藤樹は四国のある大名に仕官されたとき、母にそのことを告げて、「ご一緒に参りましょう」といったところ、「私は年寄りなので他国へいって暮らすのは気苦労です。私はここに残って、親戚の者や知った人たちと暮らすので、おまえ一人で行きなさい」といった。
 藤樹はそのことを告げて士官を断ったが、藩主は許さない。仕方なく一人で赴任した。やがて母が病で倒れたとの知らせが届く。これを理由に再び辞任を求めたが、これも許されなかった。そこで意を決して、狩に出かけたふりをして出奔した。同僚の者が家を訪ねてみると、家財道具類はそのままに、机の上に置手紙があった。「拙者が賜っていたほどの禄であれば、いくらでも優秀な儒学者が集まります。しかし、忠孝の二つを比べてみると、母は拙者より頼むものはありませぬ。よって職を辞し、故郷に帰ります」と記されていた。
 それを知った君主は、なんと親孝行の息子かと深く感銘し、家財まで捨てて去った藤樹の身では母の養護もままならないだろうと、使者を遣わせて黄金を贈られた。藤樹先生は、それを断って、こう述べられた。
「殿様のご厚遇は分にすぎております。私が勝手に帰っただけでも罪が重いのに、その上にまたお手当を受けては、罪を重ねるようなものです」といってかたくなに受け取らなかった。》(桃西河著『坐臥記』から要約)
 この話は小学高学年用のために書かれたものであるが。サムライという身分を捨て、年老いた母の安否を気づかう親孝行の息子、というのが修身の教科書に出てくる藤樹の姿である。
 いま少し補足しておくと、藤樹の実家は近江の国高島群小川村(琵琶湖の西側)の豪農だった。だが、幼少の時武士である祖父の家を継ぎ養子となった。十歳の時藩主である加藤氏が伯耆国米子から伊予大洲藩に転封になったため、祖父とともに大洲に移った。
 生まれついての好学の徒で十一歳のとき、『大学を読み、十七歳で『四書大全』を読破するほどだったという。十五歳の時祖父の死により百石の家督を相続し郡奉行となった。
 また藤樹の脱藩の理由もいろいろあって、後に述べるように単に『親孝行』のためだけではない。
だが寛永十一年(一六三四)脱藩したのは事実で、ときに藤樹二十七歳のときであった。
 


「孝の徳目」は徳の要

 ではなぜ、藤樹は支配階級である武士の身分を捨て。市井の儒者となったのか。
 百石取りといえば武士の中でも上の階層である。しかも世の中はやっと戦乱の世が終わり、世襲制による身分の固定化(士農工商)が進行中の時期である。ましてや彼は祖父の中江家を継ぐために養子になっていたのだ。藤樹が脱藩すれば武家としての中江家は断絶する事になる。したがって、そこにはなみなみならぬ決心が必要だったはずだ。
 研究者の多くはその理由を「母の扶養」「窮屈な武士生活からの逃避」「藩における文事・武断両派の軋轢」などとしているが、確実なところはわかっていない。私の推測では、先の理由を含めて、藤樹には持病の喘息があり体が弱かったので、武運を誉れとする武士の仕事より、求道心を満たす在野での自由な研究生活を求めたのではないかと思われる。
 もちろん直接の動機は、一人息子の藤樹にとって、母を一人にしているのは不憫だったからである。生来の親孝行の子であったから、母に孝養を尽くす事ができないことは、藤樹にとって大きな精神的負担であった。彼はすでに「孔子殿」と渾名されるほどの儒教の徒で、その知識の習得によって、「士」としての行動論理を追及する者だっただけに、その苦悩はひとしおだったと思われる。そしていっぽうで、前出したように藤樹の実家が村内でも上層に入る豪農だったので、職を辞して無給の学者生活をしても、それほど生活に困らなかったからだとも言える。中江家の富裕さは、現存する屋敷図を見ても大変大きなもので、藤樹四十一歳の時は、屋敷を広げて書院(後に藤樹書院)を建て増ししているほどである。
 では、なぜ藤樹は「孝行の人」といわれるようになったのか。
 これは、時の為政者が藤樹の著作に「孝の徳目」が多く説かれているのをみて、藤樹自身と結びつけ、秩序安寧の世を治める基本に「孝」を勧めたからであろう。
 難しいことは省くが、藤樹が説いた「全孝説」とは、ただ親に孝を尽くすという世間一般の考え方ではない。孝徳を宇宙万物・人倫の全体に行きわたる道徳の原理ととらえ、君・臣・父子・夫婦・兄弟・朋友それぞれの立場から日常的に実践されるべきものとしたのだ。
 なぜに「孝」が万徳の基本となるのかいえば、すなわちわが身は親より受け、その親の身は天地より受け、天地は大虚(宇宙の本体)より受けたものであるから、天地万物は同根一体であり、それを実践することは秩序安寧の元としたのである。つまり「孝」を実践することは森羅万象すべてのものに対してやさしさや思いやりを持つようになるかである。儒教が「孝の徳目」を重要視するのもこのためで、「孝」の実行は「仁」(儒教思想の支柱。他を慈しむこと)の思想に合致するからである。
 藤樹はその実践を「愛敬(あいきょう)」という文字で表し。「愛はねんごろに親しむ意なり。敬は上をうやまい、下を軽んじないことである」としている。この論理は藤樹の思想全体を貫かれ他者で、さらに発展して次のような主張になる。
 「君は仁と礼とをもって臣下をさしつかふ道とす。仁は義理にしたがいて人を愛す徳なり。礼は位の道理に従いて、人をうやまいあなどらざる徳なり。(中略)これ天地万物の父母、これ人は万物の礼とのたまうときは万民はことごとく天地の子なれば、われも人も人間の形あるものほど者はみな兄弟なり。(中略)われと人のへだてを立てて、けはしくうとみあなどりは、まよえる凡夫の心なり」(『翁問答』)
 封建時代の中にあって、一君万民の思想をこれほどに明確にうち立てたのは藤樹が最初だった。
その中心をなすものが「孝」の思想だったのである。


 日本陽明学の祖

 藤樹は、「切り取り強盗は武士のならい」と剛胆な武力だけを自慢した江戸初期の武士社会にあって、「サムライたるものが儒道をそしり、儒学をするのは士のわざならずなどといえるは、まことに無下に不案内なることなれば、その恥じを知るべし」と、最初に学問の尊さを説き武士における「文武両道」を唱えた人でもあった。本物のサムライは「武」と「文」の両方がそなわって一人前としたのである。
 そして今一つ、藤樹は日本陽明学の祖であったことも記して書かねばならない。先の「孝」の思想も朱子学から派生した陽明学の行き着いたところから生まれるものである。
 人間は根本的に平等だ、とする陽明学のよりどころは「良知」という思想である。良知とは"善悪の判断力"のことである。だが、これは先天的にあるもので、あとから学んで身につけるものではない。だから誰でもこの「良知」を発揮すれば正しい行動が取れる。つまり「孝の実践」ができる。藤樹はこれを説いたのだ。
 ゆうまでもなく陽明学とは中国の哲学者・王陽明が唱えたものだ。陽明は「わが心の良知は、すなわち天理なり」と述べた。人は生きている限り良知が働いているので、「何かを知る」という頭の働きと「何かをやる」という手足の働きは、両方とも同じ「良知」にささえられている。したがって、上と下とがいたわりあう「孝」について知ることと、それを実践に移すことはぴったりつながってなければならない。だから「孝が何なのかわかったけれども、それを行動には移さない」などということ絶対あってはいけないことになる。これが陽明学の真髄といわれる「知行合一」(ちごうごういつ)の精神である。
 たとえば、「悪いことを考えても、それを行動に移さなければいいではないか」という人がいるが、陽明学ではそれを許さない。知っていることと行動は一体であるから、悪いことは行動に移すわけには行かないから、もともと心から消してしまわなければいけないもの、とするのである。要するに陽明学の「知合合一」とは行動哲学なのである。のちにこの思想は熊沢蕃山、山鹿素行、大塩平八郎、吉田松陰といった人々に受け継がれ、幕末の倒幕運動の主流になっていく。
 陽明学が行動主義となったのは、その根本に性善説を取り、「人は良知がある以上、まちがった行動はしない」との確信があったからだ。では、それでも悪いことをする人(悪人)はどうなるのか。藤樹はこう答えている。
 「悪人とは、私利私欲に溺れて、本来持っているはずの良知が隠された者のことをいう。だから、人間として常に良知を磨くことが大切なのだ」と。逆にいうなら、人間の区分は身分の上下ではなく、この良知が磨かれているかどうかにかかっている。それゆえに藤樹はそれを磨くための学問を奨励したのである。
 藤樹は「人の心の汚れを清めて行いをよくすること」と説き、逆に「悪い学問」とは「博学の名誉を欲するために、ただ知識を詰め込むこと」としている。なんだか現代教育の欠陥を指摘されているようだが、つまるところ藤樹の学問とは「人格の形成」ということである。だからこそ三民の上に立つ武士はその徳を磨く"文武両道"の具現者となるよう厳しく説いたのである。その意味で藤樹は武士道の確立者といわれる山鹿素行の先輩にあたる人といえる。