二宮尊徳   農財政改革者

コツコツと働き、知恵を使って正当な利益を生み出す以外に、人の生きる道はない

にのみやそんとく(一七八七〜一八五六)
江戸末期の篤農家。通称金次郎。相模の人。徹底した実践主義で、神・仏・儒の思想をとった報徳思想を広め、みずから陰徳・積善・節約を力行し、殖産を説いた。六百五ヶ町村を復興した。


 消されてしまった金次郎像

「大事をなさんと欲せば、小なることことをおこたらず勤むべし」
 この言葉は、江戸後期の農政家として有名な二宮尊徳の『二宮翁夜話』の中にあるものだ。大きなことを成し遂げようと思ったら、まず目の前にある小さなことから着実にすすめよ、という意味である。尊徳はこれを「積小為大」となずけている。現代風にいえば「できることからコツコツと」ということになろうか。
 尊徳は「コツコツと働き、知恵を使って正当な利益を生み出す以外、人の生きる道はない」ともいっているが、いかに時代が変わろうとも、この言葉は現代社会に生きる人間として、その生き方の正道を述べたものといえる。
 それにしても、この尊徳ほど、戦前と戦後の評価が二分した人物もまれである。明治から戦前まで、尊徳はどの「修身」の教科書にも載っていて日本一の有名人だった。学校の庭には必ず、薪と背負って歩きながら本を読む少年金次郎(幼名)の銅像が建っていたし、それは戦後のある時期まで存在していて、私なども学校の行きかえりにその前で頭を下げたのをおぼえている。
 ところが、戦後の民主教育が始まった私たちの時代には、すでに「修身」という科目も教科書もなくなり、金次郎が何者で、将来どのようなエライ人になったかは遂に教わらなかった。それどころか、その銅像さえいつのまにか消え、いまの若い人は「尊徳って誰?」というものだろう。
 なぜ、そうなってしまったのか。
 戦後の民主主義教育とやらが、戦前の修身道徳のチャンピオンだった金次郎を、あの戦争に導いた精神主義の象徴として、忌まわしい存在とみなし、民主化政策の弊害になると教育の現場から一掃されたからである。
 だが、これは大いなる曲解である。いや誤りだったというべきである。二宮尊徳はあくまで明治以降の国家思想に利用されただけで、その実像がけっして悪いわけではない。むしろ今日の"欲ボケ"した日本人の精神的荒廃を鑑みるとき、われわれは今一度、二宮尊徳の再評価をすべきではないかと思っている。
 なぜなら、戦後、金次郎像を消滅させた人が二宮尊徳より「徳」があり、上に立つ者として立派であったとは思えないからだ。現在マスコミをさわがせている「政界汚職」「官僚汚染」「金融不祥事」などのいずれをとっても、それらを招いたのは「不徳の人」であり、「不正直な人」であり、「人のために尽くす」といった徳の精神が欠けた人であったことは明白である。道徳観でいえば戦後のそれは地に落ちたといえる。
 それに比べて尊徳という人は、たゆまぬ精進を重ね、「自他両全」すなわち自分も他人も一緒に良くなろうとの哲理を根本に、「天道人道」「一円融合」という人間社会の原理原則を説いて、窮乏する農民たちをわがことのようにあわれみ、彼らを救済することに生涯を捧げた人だったからである。

 金次郎少年を偉人となした原動力は

 二宮尊徳は天明七年(一七八七)、相模国足柄上群栢山村(現在の小田原市)で農家の子として生まれた。祖父の代までは地主だったが、不幸にも酒匂川の大洪水で田畑を流され、貧乏をと友として育った。
 しかも十四歳で父を失い、残された母と二人の弟を養うために、薪を売って生活費を得るという苦労の日々だった。その姿があの銅像となったのである。
 尊徳の功績を称える「報徳記」(中央公論社・日本の名著「二宮尊徳」所収)は、その模様をこう伝える。
「幼年時代、金次郎は朝早く起きて遠方の山に薪刈りに行き、夜は遅くまで草鞋をつくって家計を助けた。山への往復には「大學」を携え、その勉強に余念がなかった。・・・・・十二歳ころ、酒匂川の土木工事に父の代わりに出た。しかし年少ゆえに一人前の働きができない。そこで彼は毎晩深夜まで草鞋をつくり、翌日、村人たちに提供して労働力の不足を補った。
 あるいはこんな話もある。
 父が死んだ二年後、母も他界し、金次郎は叔父の家にあずけられた。そこでも金次郎は深夜まで勉強した。ところが、その叔父は「百姓に学問などいらない」という人で、明かりの灯油を無駄遣いするなと怒った。そのため金次郎は、自分で菜種をまき、それを収穫して灯油代をつくったという。
 普通の人なら「ケチな叔父だ」と思うところを金次郎は思わない。逆に世話になっている人に迷惑をかけずに勉強するにはどうすればいいかを考え、それを実行したのである。
 それにしてもと私は思う。こうした逆境をバネとして、後にたぐいまれなる経世思想家になった原動力はどこにあったのかと。
 それは金次郎が寸暇をおしんで取り組んだ「独学の実践」がもたらせたものと考えている。もちろん、もってうまれた才能や気質もあったろう。だが、玉磨かざれば光なしといわれるように、この学問が金次郎の魂を奮い起こさせ、苦境にも負けない意思力のある強い子を育てたのである。
 当時の社会にあって、為政者となることが約束されている武士の子なら学問は当然のことながら必須だった。だが、叔父がいうように農民にとっては学問など無用のものと考えられていた。それでも金次郎は寝る間も惜しんで勉強したのだ。
 もちろん、ただ学問をすれば立派な人間になるとは限らない。要は、その学問からなにを学び、なにを活かすかということである。
 ただし、ここでいう学問とは今日の学校教育で習う学問ではない。金次郎が学んだ儒学は「修己治人」、すなわち自分を鍛えて人を治めるという人間学の学問で、その知識は学んだ人の人格や行動に表れて、始めて学問といえたのである。受験や学歴のための「私利私欲」のための勉強ではなかったのだ。ここが今日の勉強と違う。
 たとえば金次郎が最初に読んだという『実語教』という本は、有名な「山高きが故に尊からず、樹をもって尊しと為す」の文語からはじまるものである。すなわち、山はただ高いからといって尊いのではなく、樹木が豊かに茂ってこそ価値がある。同様に人間も、見かけがよくても人格がともなわければ本当の価値はない。と教えたのである。
 別言するなら、江戸期の子どもたちはその初等教育において、「頭」(知識)を鍛えたのではなく、「心」(人格)を鍛えたのである。したがって、そうした学問を自発的に取り組む若者には、おのずから立志を抱かせ、不屈の精神を養うようにできていたのである。
 いうなれば、金次郎少年は、こうした学問を重ねることによって「夢」をあたえられ、それを「志」と転化させることによって、苦しい現実を乗り越える力を与えられたのではないか、と私は思っている。子どもの時代に必要なのは、いかにこうした「志」と「実行力」を身に付けさせる。それによって、その子の将来は決まってくることを金次郎は教えてくれるのである。これこそ「生きる力」である。


尊徳、財政再建に乗り出す

 やがて二十歳になるころ、尊徳は没落していた二宮家を再興させた。それに成功したのは、農夫が捨てた苗を拾って、荒地に植え、そこから米を収穫して換金し、少しずつ田畑を買い戻していったからである。
 その話を聞いた小田原藩家老職の服部家からお呼びがかかり、財政再建を依頼された。当時に会ったは財政の基本はすべからく「入るを量り手出(いづ)るを制す」である。尊徳は質素と倹約を説いて、収入に応じた生活を徹底させ、次のような条件を提示した。
 一、食事は飯と味噌汁に限ること。
 一、衣服はすべて木綿の服にすること。
 一、すべて合理的に考え無駄をしないこと。
 これを当主の家族をはじめ、使用人に徹底させたのである。もちろん、尊徳のあまりのきびしさに使用人たちから苦情が出たが、「守らなければ家がつぶれ、あなたたちの働く場所がなくなる」との道理を説き、「信賞必罰」の制度を取り入れた。これによって使用人たちにヤル気を起こさせ、怠けることを罰としたのだ。
 尊徳は六年かけて服部家の再建に成功し、当主から百両の礼金をもらった。尊徳はそれを使用人たちにも分け与え、ともに努力した成果として分配した。
 この実績が藩主に伝わり、尊徳は役人に取り立てられた。百姓から武士になるなど当時としては例外的な大出世である。そして、藩主の分家・宇津家の領地である下野国桜町領(現在の栃木県桜町)の復興を命じられた。
 この地はヤクザや悪徳役人などの住むところで、数々の妨害にあって苦戦するが、有名な「報徳仕法」というやり方で成功させた。
 報徳仕法とは事前に綿密な調査をおこなって再建プランを立て、それにしたがって領主をはじめ農民にも「分度」(収入に応じた生活態度)を規定し、余財を自分や村の将来のために「推譲」し、報徳金と称する共同財産を創設してそれを運用するという制度である。
 尊徳はこの共同財産を「五常講」と名づけた。五常とは「仁義礼智信」の徳のことで、すなわち「仁」の思いやりでカネを貸し、「義」の心で正しく使い、「礼」の心で感謝し、「智」で返す工夫をし、「信」で約束を守る、というものである。
 尊徳はいう。「貸してよろこび、借りて喜ぶ、これ商業の道なり」と。自他両全の哲学である。
 この五常講は今日の信用組合と同じ制度であり、いわばその元祖。後にこれは尊徳思想を実践する「報徳社」へと繋がっていく。報徳とは「徳に報いる」ということである。


尊徳は民主主義制度の実践者だった。

 改革時における最大の難問は、疲弊した心をいかにしてやる気を起こさせるかであるが、尊徳はそれを「心田開発」と称してやる気を起こさせた。その一つの表れが先の服部家で成功した報奨制度の設置で、成績をあげた者には褒美を取らせ、怠けたものには罰をあたえた。しかもそれに該当する者は全員の投票によって選出するというやり方をとった。これは村役人を選出するにも同じだった。
この方法は、今日の民主制度にちかく、封建制のならわしであった「上下下達」を無視した画期的なものだった。これには領主や上層部から大反対があったが、改革の名のもとに断固として押し切った。
 あるいはまた、農民の意思の疎通をはかるために「寄り合い」(集会)をたびたび開き、このときも「芋コジ会」と称して、里芋を桶に入れてかきまわすとたがいに皮がむけるようにと、農民たちの自発性と相互教化をはかり、そうすることが自分たちの利益になることを実感させた。
 いかに、仕法(再建)といったところで、指導者がひとりかんばってできるものではない。再建の主役はあくまで農民(企業でいえば社員)でいかに問題を自分たちのものだと自覚して挑戦するかである。尊徳はその難問を「報奨制度」「全員による投票」「芋コジ会」などを通して、平等思想と相互扶助、個人的自立を植えつけ、それらを公開することで各自の義務と責任を明白にしたのだった。要するに、尊徳は村人全員が幸福にならなければ住みやすい村にはならないことを教えたのである。
 こうして尊徳が再建した農村はいずれも、幕末までひとりの餓死者を出すこともなく、平和で豊かな村を作り出すことができたのである。そして、尊徳が偉かったのは、そうしたことを率先垂範しておこなったことであった。
 二宮尊徳を、封建的な人だから、あるいは単なる金儲けの名人だからと毛嫌いする人がいるが、それは尊徳の実態と人間性を知らないだけで、この再建方法は、今日でも立派に通用する基本原則を教えてくれるのである。
 こうした尊徳の生き方を評して内村鑑三はこういっている。
 「この人の生涯が私を益し、今日の日本人の多くを益するわけはなんであろうかというと、なんでもない。この人は事業の贈り物でなく生涯の贈り物を遺したことであった」(内村鑑三著「後世への最大遺物」)
 要するに、尊徳と言う人の立派さは、さまざまな業績を遺したからでなく、人生の生き方そのものの見本を贈物(プレゼント)してくれたからだというのである。内村にとって尊徳はまさしく「人生の師」と呼ぶにふさわしい人であったのである。