新渡戸稲造『美しき日本人』

 

 義を失った政治家、礼を顧みない若者。

 日本はいつから、こんな社会になったのか。

 われわれが過去に置き去りにした日本民族のアイデンティティを、新渡戸稲造『武士道』に探る。

 

 かつて日本は美しい国といわれてきた。

 かつて日本人は美しい民族といわれてきた……。

 戦後五〇年を経た今日、日本の風土、日本人の姿を見るとき、われわれはいまでもそういえるだろうか。やはり「かつて」という冠をかぶせざるを得ないだろう。

 たしかに、高度成長時代のシンボルであった「東京オリンピック」(昭和三九年=1964年)前までは、日本のいたるところに唱歌「故郷」で歌われたような山や河があった。それはアメリカともヨーロッパとも違う日本独自の風景だった。自然も人の心もおだやかで誰もが親切であった。人情にあふれていた。

だが、いま、日本は美しいだろうか。東京は美しいだろうか。あなたの生まれた故郷は美しいだろうか。人の心は昔と変わっていないだろうか。

 われわれは戦後社会の中で、何を得たのだろう。

 文明の進歩とやらで生活は豊かさと便利さをもたらせてくれたが、それに比例してなくしたもののも多かったのではないか。高速道路ができ、新幹線が走り、携帯電話がもてるようになったからといって、われわれは本当の幸福を得ることができたのだろうか。

 それらは単に西洋文明を真似たにすぎなかったのではないのか。われわれはその文明に煽られて、あの美しかった故郷の山を崩し、沼を埋め、河を汚して街をつくってきた。結局のところ、戦後の五〇年は美しかった日本の国土を無惨に破壊し、日本人の美しかった精神まで忘れさせて、すべてをアメリカ風に似せてきたにすぎない。だが、それらは所詮“ニセもの”であり、むしろ伝統的日本人の美学を捨て去っただけではなかったのか。

  健全な社会をつくり、美しい自己を確立しようとするとき、もっとも必要とされるのは、何か。それは「かくあるべし」という意志力である。行動を裏付ける倫理的な信念である。意志力とは何か。平たく言えば「やる気」である。どれほど他の条件が揃っていても、この「やる気」がなければ、何もできない。

 かつて、その「意志力」を「気概」という言葉に置き換え、「自律心」という徳に高めた精神があった。「かくあるべし」という厳しい精神をもって行動の美学とした日本の文化があった。それが「武士道」である。

 武士道などといえば、いまの人には封建的な過去の遺物と否定されようが、果たしてそうか。たしかに武士道は長い封建社会の中で、特権階級の武士が守るべき道徳律として誕生した。しかし、その崇高なる精神は時代の変遷と社会の状況に呼応しながら、武士だけではなく広く一般の庶民にまで広がり、日本人の普遍的な“人の倫”となったことも事実である。

 なぜなら、武士道の根源をなすものは儒教であり、その儒教は人が人として守るべき精神として「仁・義・礼・智・信」という五常の徳を説いたからだ。そしてそれが“人の倫”として尊ばれるようになると、おのずから庶民も影響を受け、それを日本人全体の行動規範としたのである。なぜなら、人間としての“人の倫”に武士も農民も町民も区別がないからだ。

 武士道の真髄とは何か。

 詳細は本講演にゆずるが、『武士道』の著者である新渡戸稲造博士は「勇猛果敢なフェア・プレーの精神」と規定している。すなわち、不正や卑劣な行動を禁じ、死をも恐れない正義を遂行する精神である。儒教精神ともっとも違うところは、儒教が「仁の思想」(おもいやり・やさしさ)をトップに置いたのに対して、武士道は「義の精神」を置いたことだ。義とは「打算や損得のないひととしての正しい道」のことである。

 したがって、武士たる者の行動基準はすべてこの義を基にして、「五常の徳」を「仁義」「義勇」「忠義」「信義」と置き換え、さらにその集大成として「誠」の徳を最高の位置に据えた。「誠」とは、一般的には、「まごころを尽くす」という意味だが、その字が「言」と「成」からなるように、「言ったことを成す」との意味に転化し、ここから「武士には二言はない」との言葉が生まれ、言行一致の行動美学となったのである。

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