緒方洪庵   高徳の人

医者は自分を捨てて他人を救うためにだけ生きろ

おがたこうあん(一八一〇〜一八六三)
江戸末期の蘭学医。号は敵的斎。備中の人。江戸に出て坪井信道、宇田川棒斎に蘭学を学び、大阪で医業を開き敵塾(緒方塾)を設けた。のち幕府に招かれ法眼・奥医師西洋医学所頭取。門下生に大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介、福沢諭吉らがいる。

無償の愛をもって生きた人

 人がこの世に生きるとき、無償の愛をもって、世のため人のためにつくした人の人生ほど美しいものはない。江戸末期に生きた緒方洪庵という人は、まさにそのような人であった。
 洪庵は医者であった。あふれるほどの才能をもちながら、名を求めず、利欲に惑わされず、ただひたすらに医者として他人を救うことだけを考えて生きた人だった。病気の人をみるとかわいそうでいられなくなり、たとえその人が貧しかろうと金持ちであろうと、いっさい分け隔てなく治療した。
 それゆえに、自分自身と弟子たちへの戒めとして抄訳したドイツのフーフェランドの『扶氏医戒之略』(ふしいかいのりゃく)には、こう書いてある。現代語で要約する。
 一、医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分を捨てて、他人を救うためにだけ生きろ。
 一、病人に対しては、だだ病気を診ろ。貴賎貧富を問うてはならない。身分が高かろうが低かろうが、金持ちであろうが貧乏人であろうが、そうしたことは考えるな。
 一、医者は世間の人に愛される人でなければならない。いかに学術が優れていようとも、言行が厳格であっても、世間の人に信用がなければならない。医者は病人の秘密を知りうる職業なので、その行動は篤実温厚を旨とし、決して他人に話してはならない。と、まことに気高く厳しい。
"医は仁術"との言葉があるように、洪庵は医者たる者の心得を、儒教でいうところの「仁」、キリスト教でいうところの『愛』の精神で務めることを本文としたのである。すなわちその根本は「やさしさ」「おもいやり」ということである。
 いうまでもなく医者という職業は、人の生命をあつかう仕事だけにもっとも論理性の強い職業とされた。だからこそ医者は、世の人に尊敬され信頼されたのだが、いまやその精神を「医は算術」とばかりに金儲けの手段とし、そればかりか中には、いのちを落としたり縮めたりしている医者もいる。そうした人は即刻医者をやめるべきである。もちろんいまだ、"赤ひげ先生"として尊ばれている医者がいることは知ってはいるが、総体的にいって堕落した医者が多くなったのは事実であろう。

大阪で「敵塾」を開く

洪庵の成果は、備中・足守藩の軽輩の藩士であった。が、その父は努力を重ねて藩の会計方を勤め、のちに大阪や江戸の留守居役にまでなっている。謹厳実直の人柄であったようだ。洪庵も本来なら父のあとをつぎ、武士になるべきところだったが、幼少のころから体が弱く、そのために「武」よりも「文」の道を生かそうと、親の反対を押し切って医者になる決心をした。十七歳のときである。
 修行のためにまず大阪に出た。当時の医者といえば漢方医が主流であったが、すでに杉田玄白が『蘭学事始』を書いてから十一年、長崎ではシーボルトが活躍していた時期とあって、洪庵も新しい欄方医を目指した。漢方医では当時「ころり」といわれたコレラなどの細菌病は治せなかったからである。
 大阪では中天遊に学び、ついでに江戸に出て坪井信道の門にはいった。いずれも当代一流の欄方医である。そののち長崎におもむき、さらなる修行を積んだ後、二十九歳のとき再び大阪へ戻った。
 そして、この地で結婚し、診療所を開設すると同じに「敵塾」(滴々斎塾)と称する蘭学塾を開いた。現在、その跡地が大阪市東区北浜三丁目に残っている。
 江戸時代の学校は、武士の子息が通う藩校と町人の子どもが通う寺子屋があったが、名を成した学者たちの多くは自宅を開放して「私塾」を設けた。それが学問を積んだ者の社会に対する恩返しだった。いわば当時の塾は、いまでいえば私立大学や専門学校のようなものだった。
 洪庵の敵塾も普通の民家で、下が診療所と洪庵の住まい、二階が教室と生徒たちの寄宿舎になっていた。洪庵は塾を開いた翌々年には、すでに大阪の"医者番付"で前頭四枚目にランクされ、その評判を聞いた生徒たちが全国から集まった
この塾ではいっさいが平等で、武士の子もいれば町人、農民の子もいた。先生は洪庵一人であったが、不思議にも大盛況であった。それは洪庵の医者としての技術が優れていたこともあるが、それよりむしろ先の訓戒でみたように、まれにみる人徳者としての評判が高かったからである。
「敵塾」では、一番できる年長の生徒が、「塾頭」と呼ばれ、その塾頭を中心に等級の
自冶組織をつくり、よくできる生徒ができない生徒をマン・ツウ・マンで教える等システムになっていた。塾生は常時四、五十人が寄宿していたが、洪庵は最上級クラスの生徒五、六人だけを教えたので、生徒たちはその席を求めて切磋琢磨した。洪庵の教授を受けなければ塾にきた意味がなかったからである。
洪庵が後世に残した功績は、日本最初の病理学総論ともいえる『病学通話』などの大書があるが、特に当時、死の病と懼れられていた天然痘やコレラの予防や治療で画期的な診療を行ったことでもあった。
 だが、それ以上に特筆しなければならないのが、「松下村塾」の主催者・吉田松陰と並ぶ幕末の教育者として、近代日本を切り開いた多くの逸材を輩出させたことだ。
 先に塾頭の話をしたが、ある時期の塾頭には、明治維新の推進者となった福沢諭吉がいた。橋本佐内(福井藩士。幕末の思想家)、佐野常民(佐賀藩士。日本赤十字社の創設者)大鳥圭介。(赤穂郡の村医者の子。幕末の軍人で明治の官僚)、長与専斎(大村藩医の子。明治医学界の大御所)なども門下生である。近代医学はこの洪庵門下によって広められたといってよい。
 あえて松陰の松下村塾の違いをいえば、松下村塾が思想教育の塾として多くの政治家を出したのに対して、敵塾は語学・実技教育をモットーとし、西洋文明の合理的精神を担った人物を出したことだった。
 したがって、「敵塾」の代表的後継者は、同じ実技教育の指導者となり、慶応義塾を開いた福沢諭吉をいうことになろうが、その福沢が当時の思い出としてこう記している。
 「洪庵先生の厳しさもあったが、あの当時は、これ以上勉強できないというほど勉強した。食事のとき以外は目がさめていれば本を読むという暮らしで、枕というものをしたことがなかった。夜は机の横でころ寝だった。」(岩波文庫「福翁自伝」)
 生徒たちのすざまじいばかりの気迫と気概が伝わってくるではないか。

洪庵が教えた"徳の教育"とは

 その塾で洪庵が教えていたものは、専門の医術やオランダ語はもちろんだが、なによりも重視していたのは「心の教育」だった。人が人として生きる上でもっとも大切な"徳の教育"を人格形成の根本として教えたのである。それはいかに技術としての医療がすぐれていても、それを施すのは生身の人間だったからである。だからこそ洪庵は医者たる者の心得として、その第一に利害損得をはなれて、「他者を救うために生きろ」と言い切ったのである。
 戦後の民主教育においては、この"徳の教育"は精神主義につながるとスポイルされたが、江戸人たちはこれを"人の倫"として儒教から学んだ。その基本は孔子が説くところの「五常」と、孟子が説くところの「五輪」である。これをもって健全なる社会秩序の規範としたのである。
 だが、今日、いまや親の身となった"団塊の世代"ですら、「五常」も「五輪」も知らぬものが多いのだから、その徳が受け継がれるわけもなく、道徳観の欠如した無法な子供たちが出現するのはあたりまえともいえる。
 ちなみに「五常」とは「仁・義・礼・智・信」のことをいい、簡単にいうなら、仁とは思いやり、義とは正しい行い、礼とは礼節(礼儀)、智とは創意工夫、信とは信用信頼のことである。ここから「人には優しくあれ」「弱いものをいじめるな」「正直であれ、嘘をつくな」「卑怯なことはするな」「礼儀正しくしろ」「約束を守れ」といった戒めが生まれ、人が社会的人間として守るべき道徳の基本が築かれたのである。また「五輪」とは、人がそれぞれの立場として守るべき倫(みち)のことで、「君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、盟友の信」のことをいう。
 なかでも洪庵が重んじた「仁」は、儒教思想の根本に置かれ、この字が「人」と「二」からなっているように、他者が存在することによって生まれる「愛」と「情」をもたらす徳である。「公の思想」をもたらす根本的な徳といってよい。しかるにキリスト教ではこれを「愛」といい、仏教では「慈悲」と呼ぶ。いずれも徳の根本であり、感謝の気持ちも公徳心も平和の思想もここから生まれるからである。ゆえに儒教ではこれを「王者の徳」として最高地に置いたのだ。

惻隠の心は仁の発端

 孔子の思想を発展拡充させた孟子は、儒教の教えを誰にも実行できるものとして「性善説」と説いたことは有名である。そして、その根拠として四端説を立てた。「惻隠の心は仁の端」「羞悪(しゅうお)の心は義の端」「辞譲(じじょう)の心は礼の端」「是非の心は智の端」である。つまり、「あわれみ、いたわる心」「自分の不正を羞じ悪(にく)む心」「ゆずり、へりくだる心」「是々非々をわきまえる心」の四つは、仁・義・礼・智の徳への端緒であって、これを推し勧めていけばおのずから「信」につながると説いたのである。
 孟子はこの四端説を述べる前に、こういっている。
「人は誰しも"忍びざるの心"すなわち他人の不幸をじっと見てはおれない心が備わっている。だから、幼い子が井戸に近づこうとしたときなど、誰もがハッとして、助けなければと思う。これが惻隠の情である。このとき、助けた縁でその親に近づきたいとか、村人や友人にほめられたいとか、そんなことを考えているわけではない。もともと人間の心の中には、そうした仁の心があるのだ」と。これが有名な「性善説の根拠である。
 洪庵は弟子を教育するにあたってこれらの「性善説」を信じ、みずから無償の親切を実行することで、その道徳性を明快にしたのだった。それゆえか、門弟の中でもとびきりの秀才といわれた橋本佐内などは、洪庵のその教えに感化され、在籍中、しばしば夜中に抜け出して、天満橋のたもとにいた乞食を診療している。あるいは、函館戦争で敵味方なく傷病兵を治療した高松凌雲や、日本赤十字社を設立した佐野常民が出たのも、むしろ当然だったというべきだろう。
 それはさておき、こうした洪庵の評判に対して、江戸の幕府から「将軍の侍医(奥医師)になれ」との再三の要請があった。奥医師になることは医者として最高の名誉であった。身分は小さな大名よりも高かった。だか、洪庵は断りつづけた。「名利を求めず」、つまり出世したいために医者になったわけではないという。自分の信条に反するからだ。
 しかし、幕府はそれを許さず、洪庵はやむなく江戸に出た。五十三歳のときだった。もともと病弱であった体が江戸の水に合わなかったのかその十ヶ月後の文久三年(一八六三)七月、大喀血をおこして急死してしまったのだ。おしまれた死であった。
 洪庵は遺言を残すいとまもなく他界したが、その精神は多くの弟子たちに受け継がれ、近代日本の"師表"となった人だった。師表とは人の師となり手本となった人のことである。こういう人を本当のエライ人というのである。