大倉喜八郎   士魂の商人

 

 度胸一代で大倉財閥を築いた男

 

おおくらきはちろう(一八三七〜一九二八)

実業家。越後新発田生れ。幕末維新期、武器商人として成功。維新後、大倉組を起こして貿易業、土木鉱山業を創め、大倉財閥の基礎をつくる。

 

 「善公」と「喜八郎」

 幕末の江戸。二人の若者が茶飯屋で口から泡を飛ばしながら語り合っている。両替組合からの帰り道だ。一人は相手を「善公」と呼び、もう一人は「喜八郎」と呼び捨てにしている。

 二人はほぼ同年齢。両替仲間では最年少の部類で、そのせいもあってかよく気が合った。

 善公とは後に安田銀行(現・富士銀行)を中心として安田財閥を築いた安田善次郎(前項で詳述)。

喜八郎とは本文主人公の、大倉財閥を築き挙げた大倉喜八郎のことである。年は喜八郎のほうが一つ上だった。

 喜八郎の故郷は越後新発田、善次郎が越中富山。故郷も近く、ともに徒手空拳で江戸にでてきたこともあって、二人はその会合の後、きまって茶飯屋であんかけ飯をかっ込みながら“青雲の志”を語り合っていたのだ。

 のちに喜八郎は戦前を代表する大財閥を築くのだが、それにしては三井・三菱・住友のようには知られていない。それは戦後に残る企業群を組織できなかったからである。だが、今日の千代田火災海上保険、日清製油、東海パルプ、大成建設、大倉商事、ホテルオークラなどはこの大倉財閥の流れの中にある。といえば大倉喜八郎の偉大さもおのずとわかるであろう。

 しかも、喜八郎のいいところは他の財閥創始と違って、基幹産業(軍事・貿易)もさることながら、いまでいうソフト産業にいち早く目をつけ、それらを開発していったところだ。その代表的仕事が帝国ホテルの建築であり、帝国劇場の創設だった。

 江戸が東京に変わり、初めてホテルが建ったのは明治元年の築地ホテルだった。外国人専用のホテルだったが、明治五年二月の大火で焼失してしまう。だが、当時の実業家にとってホテル経営は赤字と相場がきまっていたので、その次を建てる者が誰もいなかった。

「こんなことだから日本は近代化ができていないと外国人に笑われるのだ。これでは条約改正もままならない。なんとか欧米人が感心するようなホテルはできないものか」

 明治二十年一月、鹿鳴館などをつくって欧米化を急いでいた外務大臣の井上馨が、時の財界人を集めてハッパをかけた。

「外国人に笑われている」

 この一言で発憤し、即座に井上の要望を買って出たのが、喜八郎だった。彼は侠気にみち、度胸一本で実業家になった男だけに、その言葉に奮起したのだった。「それなら」とあえて鹿鳴館(現在大和生命本社)の北隣にあたる場所を選び、敷地四千二百坪、ルネッサンス様式の木骨煉瓦造り三階建てを建てた。施工したのは大倉の率いる日本土木(のちの大成建設)で、これには盟友である安田善次郎も支援した。

 この初代帝国ホテルは大正十一年(一九二二)に惜しくも消失してしまい、そのあと有名なライト設計によるものに変わったが、いまや近代ホテルと化してその面影はない。

 いっぽう、帝国劇場のほうは明治四十四年三月に開設。これまで茶屋制度だった芝居小屋のイメージを一新させ、日本初のオール椅子席の西洋劇場として開場した。創設委員長は時の財界大御所・渋沢栄一だったが、これは人集めのためのお飾りで、創立発起人として名実ともに活躍したのは喜八郎だった。渋沢のあと取締役会長になっている。

 そのことは『帝劇十年史』にも次のように書いてある。

「帝劇が一種の社会事業になることを力説せるものは、じつに男爵大倉喜八郎君なり。世をあげて病的勤倹主義に走り、人生享楽の真意意義を忘却せんとする時。ひとり毅然として帝劇の積極的経営を主張し、発起人ことごとく反対せば、余一人の力をもって、これにあたらんとまで断言せるものは、じつに男爵大倉喜八郎君なり」

 これらを見るに、いかに喜八郎なる人物が、だだの金儲け主義の実業家ではなく、進取の精神に富んだ社会事業家だったがわかる。

 

 「死の商人」としてのスタート

 

 その大倉喜八郎は、天保八年(一八三七)越後新発田(現在の新潟県新発田市)の名主の三男として生れた。幼名は鶴吉。

 安政元年(一八五四)、ペリーが再来航したこの年の十月、十八歳の喜八郎は一念発起して江戸へ出て、麻布飯倉の鰹節店に勤めた。精勤で機転に富んだ喜八郎は早くもその三年後、上野に小さな乾物屋を開いて独立する。

 だが、気宇壮大な彼はこれぐらいのことでは満足しない、時代は幕末動乱のさなか。いずれは世の中が一変するような戦争がおこるだろうと予測し、その情報収集のために西洋文明の入り口だった横浜を視察に出かけた。そこで鉄砲が輸入されるのを見るや、即座に乾物屋をたたみ、神田和泉町端通りに鉄砲屋「大倉屋」を開業した。これが大倉財閥につながるのだが、それは“武器売り”という「死の商人」としてのスタートだった。二十九歳のときである。

 とはいえ、最初からその商売が順風満帆だったわけではない。資本がとぼしいため、片手間に両替商もやっており、この時期に安田善次郎と知り合ったのだ。

 しかも、「鉄砲屋」の看板は掲げていたが、店先にはラッパや太鼓のたぐいを飾っているだけで、鉄砲は注文があると、夜中でも横浜まで買い付けに行くといった泥縄商売だった。その道中、鈴が森の処刑場をいう場所があり、この付近は盗賊が出没するところで有名だった。喜八郎は駕籠を雇い、つねに懐中には六連発のピストルを忍ばせて深夜の街道を往復した。その姿がいなせな江戸っ子に受け“命知らずの大倉屋”と評判をとった。

 時代が沸騰し、倒幕の気運が高まってくると、各藩は幕末の動乱に備えて先を争って鉄砲を欲しがった。おかげで大倉屋にも注文が殺到し鉄砲屋としても軌道に乗った。喜八郎は官軍、幕府軍の見境なく売りまくったので大儲けする。だが武器商人だけに、それは常に危険と背中合わせの商売だった。

 彰義隊の上野戦争が起こる前夜(慶応四年五月十四日)のこと、喜八郎が彰義隊の陣営に拉致されるという事件がおきた。すでに前日、同業の鉄砲屋二人が彰義隊に連行され、殺されていた。江戸の商人が敵方である官軍に鉄砲を売ったという廉(かど)である。となれば喜八郎も同罪。死を覚悟したが、むざむざ殺されるのもいまいましいと思い、度胸一番、タンかを切った。

「これまで私は、お客様とあらば誰はばかることなく鉄砲を売ってきました。ただ、彰義隊にも何度か鉄砲を納めましたが、いまだに一文の代価もくださいません。われわれは外国商人から現金で仕入れています。商人は商売が命ですから、品物を買って現金を払ってくれるお客様に売っております。」

(『大倉鶴吉翁』)

 この気迫と言い草に気合負けしたのか、さしもの彰義隊幹部も折れて、改めて三日のうちに鉄砲三百挺を納めてくれとの注文を出し、とりあえず釈放された。三百挺など実行できる約束ではなかったが、運のいいことに翌日、官軍の総攻撃が始まって、彰義隊は一日で壊滅。危ういところで助かった。喜八郎の生涯を“度胸一代”と形容する書物が多いのは、こうしたエピソードに溢れているからである。

 

“政商”への道

 

 機を見るに敏な喜八郎は、明治四年(一八七一)、廃藩置県が断行されて新政府の基盤が整うと、もはや鉄砲の時代は終わったと見切りをつけ、翌年、さっさと海外視察の旅に出かけた。

 一握りの官僚や留学生が官費で洋行することはあっても、この時代に私費を払って、しかも三十六歳という働き盛りに一年半も日本を留守にするというのは、それ相当の冒険だったはずだ。当然、なんらかのもくろみがあっての行動だったと思われる。

 事実、この洋行は喜八郎にとって大いなるプラスをもたらせた。というのも、イギリスに渡ったとき、ちょうどそこに岩倉具視全権大使一行が滞在中で、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らと面識を得るのだった。これがきっかけとなり喜八郎は“政商”としての道を開くのである。

 明治六年十月に帰国した喜八郎は、欧米諸会社の組織を参考にして、「大倉商会」を銀座二丁目に創立し、本格的な貿易事業に乗り出した。翌年にはロンドンに支店を開設する。益田孝のつくった三井物産の創業が明治九年だから、海外に支店を設けたのは喜八郎が最初だった。

「政商」喜八郎の名をあげたのは、明治七年の台湾出兵のときだ。陸軍省は軍事物資の調達、職人の募集などを、最初、三井に委託したが危険すぎると断られ、そのお鉢が喜八郎にまわってきたのだ。義侠心に富む喜八郎は、「国家の一大事」ならばと喜んで引き受け、作業員五百人を引き連れてみずからも台湾へ向かった。文字通り身を挺しての商売である。

 これにより政府の信用を受けて、明治十年の西南戦争では、銃器、弾薬、食料などの軍需品の調達、輸送をいっさいまかされ、莫大な利益をえたのであった。(三菱の岩崎弥太郎はもっと大儲けしているがここでは割愛)

 

 大陸進出と旺盛な事業拡大

 

 喜八郎の活躍は明治政府とともにあったといえる。いわばそれは国策事業といってもよかった。西南戦争の働きで陸軍省のご用達となった大倉組は、その後の日清・日露の両戦に際しても、軍需品の輸入、調達、輸送で巨利をあげ、同時に日本政府の大陸侵攻とともに、満州(中国北部)や中国中部にまで、その投資活動は広がっていった。

 明治九年に日朝修好条約が結ばれた際には、すでに釜山に開設していた銀行に加え、鴨録江岸の製材、製糸業、奉天の馬車鉄道なども手掛けた。そして同三十一年には、その中心事業として南満州に本渓湖煤鉄公司を創設して、炭鉱・製鉄業まで手を広げた。

 喜八郎の中国大陸における事業は拡大の一途をなし、北京、天津、上海、漢口、大連、奉天などの枢要地に支店・出張所を設け、貿易のみならず合弁事業など、日本陸軍の大陸進出と歩調を合わせるように突き進んでいく。そのため大倉喜八郎の経営手腕をやっかむ実業家たちからは「死の商人」と揶揄され、庶民からも好ましい存在とは見られなかった。

 とはいえ、もちろん彼は国策事業だけをやっていたのではない。喜八郎の名誉のために付記しておくが、冒頭でも触れたように経済界や社会貢献の仕事もおこたることはなかった。たとえば明治十年には、渋沢栄一らと東京商法会議所を設立し、同十九年には東京電灯会社、よく二十年の帝国ホテル、さらには同三十九年には、大倉の札幌麦酒と日本麦酒、大阪麦酒の三社が合併した大日本麦酒の創業にも参画している。これらはいずれも日本で最初の事業である。

 また喜八郎は、好学心旺盛な人物としても有名だがそれを反映するように学校事業にも乗り出し、明治三十三年には大倉商業(後の大倉高等商業、現・東京経済大学)を開講している。けっして「死の商人」だけではなかったのである。

 

 日本国の先兵となった商売人

 

 稀代の実業家である喜八郎の生涯をとてもこの小文で紹介できないのだが残念だが、その目は常に大陸に向かい、「日本国の先兵」としての自負が感じられる。

 大倉組の外地事業は、いうなれば日本政府が表に立つと問題があるために、大倉の名前を借りたという合弁会社も多く、しかもキナ臭さが漂う危険な先行投資が多かった。だが、誰かがこの事業を引き受けない限り日本の発展はなく、喜八郎にとって事業とは国家と私をともにする使命感からでたものであった。現在の立場から結果的に見て、「大陸進出の加担者だ」というのは簡単だが、帝国主義の当時にあってはそれが実業家としての愛国心だったのである。大陸での命懸けの商売など喜八郎だったから成功したともいえる。

 驚くことに喜八郎は中国革命家の孫文や張作霖とも親交があり、合弁事業をつくっているのである。いうまでもなく張作霖とは、馬賊出身から中華民国の大元帥となった男で、のちに関東軍の陰謀にかかって爆死した人物である。その張が喜八郎を評して、

「大倉男爵は当世の英雄で、私は意気投合した」

 と語っているが、この一言でも喜八郎の人物像がどれほど壮大であったがわかる。

 彼は尊敬する人物に豊臣秀吉をあげているが、事実、彼自身も“今太閤”との異名を取り、破天荒な生涯を送った。墨田川に面した三千坪の向島別邸の新館には、新発田藩主が所有した「霞崩しの絵」(伝狩野探幽作)、大シャンデリアの垂れ下がる金ピカの広間などがあり、旧館にはすべてが中国風の応接間を作るなど、和洋折衷のすさまじいばかりの成金趣味を披露した造りだった。

「父のようなタフな神経を持ち合わせていない接待客の中には、見ているうちに頭がぐらぐらしてきた人もたくさんいたに違いない」

 と、八十二歳の喜八郎が二十七歳の愛人に生ませた大倉雄二が『逆光家族』の中にかかれているほどだ。

 やがて昭和三年、さしもの喜八郎も死ぬ。九十二歳という大往生だった。死の二週間前、彼は一片の狂歌を残した。これがいい。

 

 感涙も嬉し涙とふりはらい

 踊れや踊れ雀百まで

 

 まさに時代の風雲児を絵に描いたような豪快な生涯だったといえる。