西郷隆盛   維新の推進者

 

 高潔なる「敬天愛人」の生き方

 

さいごうたかもり(一八二七〜一八七七)

 幕末維新の政治家。薩摩藩士。薩摩藩の指導者として幕府を倒す。

 新政府の陸軍大将・参議をつとめるが征韓論で下野。故郷で「私学校」を設立したが、西南戦争に破れて自刃。

 

 

武士の最大なるもの、また最後のもの」

 

「日本人で尊敬する人物は誰か?」

 ときかれて、いつの世も変わらず上位の座を占めるのが、この西郷隆盛である。

 それは西郷が明治維新の偉勲者ということよりも、むしろ生き方そのものが高潔で、雄々しく、最後の国内戦となった西南戦争において自決した“悲劇の人”ということが、いっそう日本人の根元的な心情をゆさぶるからであろう。

 たとえば、中江藤樹のところで触れたが、明治期のキリスト教の先駆者である内村鑑三に『代表的日本人』という名著がある。この本は明治二十七年に英文で発表されたもので、当時、日本を野蛮国と見下していた西欧諸国に対して、日本にもこんなにすばらしい人物がいるんだと、日本史上から五人の偉人を選んで紹介したものである。

 その中で内村は、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人らとならんで、その筆頭に西郷隆盛を上げ、西郷を「武士の最大なるもの、また最後のもの」として、その気概、生活ぶり、人生観におしみない賛辞を贈っているのだ。ここでいう「武士」とは、「公」のために無私無欲の誠をつらぬいた“本物のサムライ」との意味である。

 内村はいう。

「まず第一に、余輩は彼(西郷)ほど人生の欲望少なき人を知らない。日本陸軍総司令官、近衛都督、閣僚の最有力者(であったにもかかわらず)、彼の外観は一平卒のそれであった。彼の月給は数百円であったが、彼の必要としたのは十五円をもって十分であった。困窮せる友人は何人も自由にその残額にあずかることができた。東京番町の住宅は、家賃一ヶ月三円のみすぼらしい建物であった。彼の平常の服装は薩摩カスリであった。(鈴木俊郎訳「代表的日本人」岩波文庫)

 事実、西郷は維新政府の最高幹部として、三条実美太政大臣(いまの総理大臣)につぐ高給取りであったが、「我輩一人で維新を成功させたわけではない」と、その月給を生活に困っている下級武士たちに分け与えた。元勲たちの多くが権勢をふるって豪邸に住み、贅沢に溺れたが、西郷は名利を求めず、清廉を旨として陋屋(ろうおく)に住んだのである。だから同郷の黒田清隆(第二代総理大臣)などは“高士”(人格が高潔な人)と尊称でたたえたほどだった。

 いやそればかりか、その無欲さは、維新最大の偉勲者として授与された正三位という位階さえ断り続けた。なぜか。それは正三位という位が、自分の藩主(島津忠義)よりも上位だったからである。西郷にすれば、維新を起こしたのは「公」のためであって、なにも立身栄達をはかっての「私」のためではなかった。それによって家臣である西郷が藩主より上位の身分に就くことが情義において忍びがたかったからである。

 しかも西郷は、維新政府が誕生するや、即座に中央政界から去った。革命の最高リーダーが、成功後、直ちに田舎に引っ込むなど世界史的にも例を見ないことで、歴史上の謎とされているが、それは、この藩主への遠慮、つまり藩主を差し置いて中央政界の要人になることを嫌ったのであろう。西郷はあくまでも薩摩藩の“一武士”の立場を貫いたのである。

 

「敬天愛人」の思想

 

 その西郷の高潔なる人格を形成していたのが、次の「敬天愛人」という信条である。

 「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって人をあいするなり」

 これは『南州翁遺訓』に残されているものだが、西郷は天を敬いつつ、人を愛することに精魂を傾け、無私無欲の信念を磨き上げたのである。したがって西郷の相手はつねに「天」であり、天に恥じない行動をすることだった。

 「人を相手にせず、天を愛せよ。天を相手にして己を尽くし、人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋ねぬべし」

 ともいっている。

 この「天」の観念は中国思想の根幹をなし、キリスト教の「神」にかわる存在としての「天」である。たとえば『論語』では「天を怨まず、人を咎めず」とあり、『易経』は「天を楽しみ、命を知る。故に憂えず」と述べ、孟子は「天に順うものは存し、天に逆らう者は滅ぶ」と説いている。この「天」である。

 西郷は、若い頃、仲間たちと『近思録』」(儒学の入門書)の勉強会を開き、幕府儒官の佐藤一斎之『言志四録』を座右の著にしていたが、その思想はむしろ儒学の徒というより陽明学徒であった。

 それゆえ西郷は、あくまでも実行者であり、多くの著作をもって世人を啓発した福沢諭吉や内村鑑三をちがって、著述としてはなに一つ残さなかった。先の『南州翁遺訓』にしても、西郷自身が書き残したものではない。彼の人格に打たれた庄内藩士の菅実秀らが、薩摩を訪れ、親しく教えをこうて、その言葉のありがたさを後世に伝えるために「遺訓」として残したのである。いわば西郷の高潔なる人格の反映と言える。

 というのも、庄内藩というのは、世にいう戊辰戦争の最後の戦いとなった奥州列藩同盟の中心的な藩で、その終結をもって明治政府が誕生するのだが、このとき西郷は、新政府側の総督参謀として、その庄内藩に対し、“武士の情け”をもって寛大な処理をしたのである。この温情に感激した庄内藩士たちが、帰郷した西郷を追って薩摩を訪れ、先人の教えを同藩士の“師表”として残したのであった。

 いま、その本をめくってみて、あらためて感じることは、西郷の指導者としての度量の広さと、無上の高潔さだ。彼は頑固一徹な武辺者でもなければ、単なる恩義の人でもなかった。

 坂本龍馬は「西郷さんという人は得体の知れない人だ。大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く。まるでそこの知れない太鼓のようだ」と評した。また、龍馬の師匠にあたる勝海舟は、「いままで俺は恐るべき人物に二人であった。一人は西郷吉之助(隆盛)、もう一人は横井小楠だ。もし、横井の考えていることを西郷が実行したら、日本(幕府)はえらいことになる」といった。事実、歴史は勝の予言通りとなった。横井は大政奉還を最初に画策し、西郷は倒幕の実行者となって明治維新がなったのである。

 あの銅像にみる、茫洋とした「西郷さん」のどこにそれほどの叡智があったのかと思うが、「大愚は大賢に通ず」との言葉もあるように、世俗の価値では計れない傑物だったというべきだろう。

 

 

 「南州翁遺訓」の教え

 

“第三の開国”とかいわれ日本人の命運が叫ばれている昨今、指導者層に西郷のような傑物が見受けられないのが、今日の日本の不幸であるが、そこで、せめて『南州翁遺訓』(岩波文庫・山田済斎編)から抜粋して、西郷の高潔なる心情を現代文で要約しておくので、それを見習ってほしいものである。

 

■事を行う場合、どんなことでも、正道を踏んで至誠を推し進めよ。けっして策謀や不正を用いてはならない。人は仕事がうまくいかないで障害にぶつかると、よく策謀をこらしてまぬがれようとするが、一時的にはそういうことが成功しても、その報いは必ずきて、全体がだめになってしまう。正しい道というのは一見遠回りに見えるが、やはりこれが成功の早道なのだ。(第七条)

 西郷の根本的な信条は「至誠」。だから小手先の策謀や悪知恵で一時は何をのがれたとしても、そんなものは人をだませても天には通じない。というのだ。処世術だけに長けた実のない人間を西郷はもっとも嫌った。そういう輩は善意よりもその場の雰囲気と自分の保身だけを考えて、「この程度なら」と看過してしまうので、後に大事となってしまうのである。住専問題もエイズ問題も、そして今日の金融破綻も、結局はこうした正道を踏まず、小才の策略だけでごまかしたツケがまわってきたといえる。

 

■人間が文明を開発するということは国家や社会のためである。だが、そこには「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷くことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といって必要の根本を見極めておかねば、いたずらに開発のための開発に追いまわされるようになる。なんでも外国の真似をして、贅沢な風潮を生じれば、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅びてしまう。(第十条)

 西郷はけっして偏屈な国粋主義者ではない。だから文明開化を拒否する者ではなかった。だが、それはあくまで日本のよき伝統の上に成り立たせるべきで、何でもかんでも西洋かぶれすることを戒めた。「和魂洋才の気概をもて」ともいっている。いわば洋風をもって第一とする軽佻浮薄な風潮に警告を発したのである。

 この言葉は、戦後のわれわれが「民主主義」だの「科学合理主義」だのといって、すべからく欧米の真似をし、文明の進歩こそが人間の幸福へつながるものと、“開発”という美名のもとで国土を荒らし、ダイオキシンを撒き散らし、人の心まで荒廃させたことに対する箴言(しんげん)に聞こえてくるではないか。西郷がいうように、われわれに欠けていたのは、「なぜそれが必要だったのか」という問いかけがなかったことである。

 

■文明とは「道」の広く行われることであって、宮殿の荘厳さや、衣服の美麗さや、外観の華麗さを言うのではない。自分はかって、西洋は野蛮だといったことがある。聞いた人は文明国だといって議論になった。私がそういった理由は、そこに「道」がないからだ。もし本当の文明人ならば、発展途上の国々に対して、あれほど無慈悲で残忍なことはするはずがないと答えた。その人は、ついに黙ってしまった。(第十一条)

 西洋が野蛮だというのは、おそらく当時の欧米諸国の中国やアジアに対する植民地政策を刺してのことだろう。とくに、英国が中国に仕掛けたアヘン戦争(一八四〇〜四二)の非情さを語っているようだ。

 文明とは何か。まさに西郷のいうとおりである。地球上の全人類を破滅させる戦争道具を持っているのが文明国ならば、そんな文明はいらない。地球上の三分の一の人々が飢えと寒さに震えているというのに、それらの国を犠牲にして、冷暖房完備の部屋で食材の半分を捨てるような食事をしている国民が文明人というのなら、それは精神的野蛮人である。われわれに“人としての道”がなければ、それは文明というまやかしの着物をきた野獣にすぎないのである。

 そして最後に「上に立つ者」として、肝に銘じて欲しいのが、次の言葉だ。

 

■人の上に立つものは、つねに己を慎んで、品行を正しくし、贅沢をやめて、勤検節約に務め、職責に努力して、人々の模範にならなければならない。そして、周りのものがその働きぶりを見て、「気の毒だな」と思うようでなくては、人は従いてはこない。ところがいま、草創の始めにいながら、自分の家を飾り、着るものを贅沢し、また愛人を囲い、金儲けだけに励んでいる者が多い。こんなことでは維新の効果はあげられない。第一、戦死した同士に面目ないことである。(第四条)

 最近の日本がダメになったのは、上に立つ者がこうした「公の精神」を忘れ、私利私欲に溺れているからである。武士道を確立させた山鹿素行は、武士の役割を「民の師表(先生)となれ」といったが、模範となるべき指導者がいないことが今日の日本の堕落を招いた元、といえはしまいか。